さなのばくたん。を楽しみにできるようになるまでのお話。

さなのばくたん。

バーチャルYoutuberの名取さなという人がいる。

彼女の名前の由来にもなっている誕生日、3月7日。

さなのばくたん。はつまり、リアル世界で行われる名取さなのお誕生日イベントだ。

元々第一回のばくたんは昨年の2020年に予定をされていたが、COVID‑19……いわゆる新型コロナウイルス感染症によるイベントの自粛や、集団で密接する活動が制限される流れにより、2020年3月7日に行われるさなのばくたん。は中止となった。

自分が名取さなの存在を知ったのは、そんな経緯があったことすら気にも留めていなかった2020年の夏も終わろうかという頃、アクションゲームであるFALLGUYS配信の切り抜きがツイッターのタイムラインに出てきたからだった。

第一印象は「すごくいい声で笑う人」。

昔にニコニコ動画でゲーム実況動画などをよく見ていたこともあり、ゲームが好きな人が楽しそうにゲームを配信してくれる人は見ているだけで嬉しいものだった。

そんな安直な気持ちでFALLGUYSのアーカイブを見て、面白かったのでゲーム系の配信を中心に見返すようになった。

頃合いを同じくして、昔から名取さなを知っているせんせえの知人から、とある動画を紹介される。

と、

だ。

名取さなはバーチャルサナトリウムに住んでいて、普段は外出許可がないと外に出られないという「設定」(であってほしいという思いも込めて、あえてここではこう表記します。「環境」と捉えて頂いて構いません)。

これらの紹介をきっかけに、「名取さなの配信」よりも、「名取さな」にどんどん引き込まれていった。

そして色々と過去のアーカイブを見ているうちに、惑星ループのカバーに辿り着いた。

自分の中で明確に名取さなを応援しようと思った契機はこの歌だった。

彼女の「設定」を踏まえた上で、こんなにも優しく歌い上げられるものなのかと。

このカバーに触れて以降、できるだけ名取さなの配信はリアルタイムで見るようになった。

デジタル販売している楽曲を一通り購入して、外回りの仕事の時はスマホからずっとかけっぱなしにしてたりもした。

声と顔がいい。

とてもいい。

リスナーであるせんせえたちとの軽妙な受け答えも内輪ノリを感じさせることなく、とても雰囲気が良い。

そして配信を追いかければ追いかけるほど、名取さなが「外に出る」ということがどれだけ大きな意味を持つことなのかを思い知っていった。

昨年のばくさん。のアーカイブを視聴して、次にイベントが行われるなら、どうかせんせえのサイリウムでピンク一色に染まる景色をステージから見てほしい。叶うなら自分もそこに参加して名取さなに感謝と応援を届けたいと、そう強く強く思った。

そして昨年の12月26日、重大発表配信にてさなのばくたん。-ていねいなお誕生日会- Powered by mouse が開催されることが発表される。

新型コロナウイルスはまだまだ収まる気配がなかった。

嬉しさ、喜びと同時に、胃の中に鉛が流し込まれたような重たさがあった。

昨年の中止を経ての開催……間違いなく対策に対策を重ね、今度こそ出来うる最善を尽くした丁寧なお誕生日会になることは確信がある。

ただ一点だけ、今すぐに自分ではどうしようもないことがあった。

地方在住。

それも、もしもイベント後で身近な人が新型コロナウイルスに発症した場合は、間違いなく自分が地元に持ち込んだということが確定できるぐらいの田舎だ。

その場合仕事は、職場はどうなるか。

同居している家族はどうなるか。

悩んだまま年が明けた。

結局、グッズの事前通販はしたものの、ばくたんのチケットには手が出せなかった。

先行抽選も、一般販売も、申し込むことを断念した。

この時点で、名取さなのかけがえのないお誕生日会より、自分の実生活を優先したという思いが全身にまとわりついてきて、イベントそのものに後ろ暗さを感じるようになった。

「行けなかった」のではなく「行かなかった」。

資金もスケジュールもコンディションも、行こうと思えば何一つ問題ないのに。

名取さなのように外出が制限されているわけでもないのに。

リスクという言葉で自ら諦めてしまった。

名取さながずっと楽しみにしていたばくたんが今度こそできる。

大勢のせんせえがそれを楽しみにしている。

自分も心待ちにしていたはずなのに、会場にはいられなくてもせめて現地に行って誰かと喜びを分かち合ったりできると思ってたのに。

10年前なら自分もまだ東京にいたのになとか、地元に帰らずに働き続けてればなとか、実家がそっち方面だったらなとか、慰めにもならない仮定が頭の中で渦巻いたりもした。

気が付けば新春のおみくじ配信以降、名取さなの配信を見れなくなっていた。

心の底からばくたんを楽しみにできていない自分には、名取の配信を見る資格がないと思った。

コラボカフェやさな歩き、タワーレコードさんとのコラボだったり情報が明かされるたびに、行くのを諦めた自分が寂しくて辛くて惨めで、表立って他人を呪わないように取り繕うので精一杯だった。
自分の都合で諦めただけなのだから、楽しみにしている人たちの思いを汚すようなことだけは絶対にしたくなかった。

こんな気持ちを抱えたままじゃ、純粋にお祝いができないのなら、お誕生日会を観ることすらできないかもなあ。
ネットチケット代だけお布施として投じて、もう観れなくてもそれはそれで仕方ないか、と思うようになっていた。

そんな思いを抱えたまま、あっという間にばくたんが週末に迫り、3月5日の夜。
たまたま仕事で夜の高速を走っているときに、本当に気まぐれで名取さなの惑星ループを流した。


久しぶりに聴く名取さなの声だった。
初めて聴いたときと同じく、優しい声だった。

(届かないこと理解っているのに)

自分が苦しいのも辛いのも、ただ妬み嫉みのように負の感情でしかないと思っていた。

(この周回軌道上にあなたがいなくても)

けれど違った。

この寂しさは名取さなを知らなければ生まれなかった感情だから。

(心があなたで鳴っている それだけが確かだ それだけでいいよ。)

つまりそうか。

イベントに行けないことで苦しむほど名取さなのこと好きだったんだなあ。

すとんと腑に落ちた瞬間だった。
気が付いた瞬間自分でも驚くほど素直に、現地に行ける人を羨む気持ちとか妬む気持ちが自然に受け入れられた。
同時に、それだけ大勢の人たちが名取さなの誕生日を祝おうとしていることが、嬉しくてたまらなくなった。

(そこに大体、愛が在るだけ)

結局、ものすごく当たり前のことを理解して受け入れるのに3カ月近くかかったというだけで。

自分だけの感情、喜びも苦しみも嬉しいのも悲しいのも全部ひっくるめて、等しくそれは名取さなが好きということ。
名取さなが好きだから、自分に行けないイベントで参加できている人が羨ましい。
逆を返せば名取さなを何とも思ってなければ、現地の人をどうと思うはずもなく。
いまにして思えばなんでもっと早く気が付かないかなあこんな単純なこと、となる。なった。

現地に行ける人羨ましいなあ、いいなあ、でもこれだけ名取のことが好きなせんせえが一杯いるんだなあ。
お祝いが出来て嬉しいなあ。

自然にそんな気持ちがこみあげてきた。
というより、今まで抑え込んで見て見ぬ振りをしようとしたネガティブな気持ちと同じだけの嬉しさや楽しみにしたかった感情が一気に噴き上がった。

その夜、仕事を終わらせて家に帰りついて、一息ついてからさなのばくたん。のネットチケットを購入した。
日付はもう変わっていて、3月6日。
前日のギリギリになってしまったけれど。
ようやく、さなのばくたん。が心から楽しみにできるようになった。

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さなコレ、早く買いたい……!

思春期かっていうぐらい大変きもちのわるいお気持ちだけで長文になってしまったので、イベント本編の感想は別記事で作成します。