虫食い読書会 寅彦は忘れた頃にやって来る①『団栗』を読む
寺田寅彦の短編『団栗』を読んでみた。
ある年の暮れ、妻が突然喀血する。翌五月には初産を迎えるはずの年若い妻。ひと月もすると本復したかのように容態も安定した二月半ば、風のない暖かな日に若い夫(寅彦)は妻を植物園へ誘う。何年かして同じ時期のその植物園に忘れ形見の幼子とやって来た夫は、嬉々として団栗拾いを楽しむあどけない我が子に、団栗拾いに無心になっていた亡き妻の面影を重ね感慨にふける…というような内容。ちなみに明治時代の話です。
4月の虫食い読書会は寺田寅彦を取り上げることになり最初に開いたのが『懐手して宇宙見物』(池内了編 みすず書房)で、その巻頭が『団栗』だった。寺田寅彦への予備知識をほとんど持ちあわせず真っ新なココロで読んだので、卵から孵った鳥の雛が初めて目にしたものを親と思い込むように、この、若き日の妻との思い出を綴ったごく短い話が初めての出会い。これが寅彦像なのだと刷りこみをするところだった。第一印象はすこぶる悪かったのである。
※「」内は文中よりの引用、()内は私の舌打ち
喀血した妻を目の当たりにし、当人以上に血の気を失いオロオロする寅彦。暇乞いする下女を引き留めることもできず「一介の書生にしろ、一家の主人」と偉ばっても、年越しに何をどうしたものかもわからない頭でっかち。医者から「一時的な気管の出血」と結核であることは伏されている妻は、その診断を信じているようでもあるしそれにすがっているような気配もある。心細い愚痴を言ったりするのを、寅彦は邪険に打ち消すことだけで精一杯だ(愚痴と片づけるな!奥さんは聞いてもらいたいのよウンウンと)。
そんな二月半ば、医者の許可も得て寅彦は小石川植物園へ妻を誘う。不安を抱え閉じ籠っていた妻にとって心の浮き立つ外出だったろう(寅彦さんを見直しポイント加点)。出がけ間際になって髪を整えたいと部屋に引っ込んだ妻の支度が長すぎる。のぞくとあーでもないこーでもないと髪を結いなおしているのを見て、「よせばよいのに、早くしないか」と急き立て「早くしないか」と大声で促す寅彦(促すってんじゃなくて怒鳴ってんでしょうに。焦れば焦るほど髪型が決まらなくなるってこと知らないの?久々のお出かけにお洒落したくない女子がどこにいる?さっきのポイント加点は取り消しましょう)。ようやく身支度を終えて出てみれば夫の姿はない。妻の支度を待つ間に寅彦は近所をぶらついていたのだが、妻のほうは自分を待たずに夫が先に出かけてしまい置いてきぼりにされてしまったと「年甲斐もなく」(泣くのに年は関係ないでしょうが)泣き伏している。なだめたりすかしたりして妻の機嫌を直してくれるのは気の良い女中さんの役割で、ふたりはやっと歩き始めるのだ。
「実に良い天気だ。『人間の心が蒸発して霞になりそうな日だね』と言ったら、一間ばかり後を雪駄を引きずりながら、大儀そうについて来た妻は、エエと気の無い返事をして無理に笑顔をこしらえる。この時始めて気が付いたが、なるほど腹の帯の所が人並よりだいぶ大きい。あるき方がよほど変だ。それでも当人は平気でくっついて来る。美代(気の良い後任の女中さん)と二人でよこせばよかったと思いながら、無言で歩調を早める。」…(血も涙もない寅彦め!)「この五月には初産という女の大難をひかえている」うえに病み上がりのカラダのアナタの奥さんですよ。「あるき方がよほど変だ」とは何だ!「無言で歩調を早める」って、この大きい腹の歩き方の変な女とは他人のふりをしたいということか?〈男女七歳にして…〉と夫婦であっても腕を組み手をつなぐなんてことはおろか、連れ立って肩を並べて歩くことも想像しにくかったであろう明治時代とはいえ、必死に追いつこうとする妻を振り切り〈三歩下がって〉以上のディスタンスを死守しようとはあんまりじゃないの。
植物園の温室で「妻はなんだか気分が悪くなったと云う。顔色はたいして悪くもない。急に生温かい処にはいったためだろう。早く外へ出た方がよい、おれはも少し見て行くからと云ったら、ちょっとためらったが、おとなしく出て行った。」そして思いのほか温室内に長居をする寅彦。彼は南洋の珍しい植物のほうに興味をそそられている。やっと外へ出て来た寅彦を「はるか向こうの東屋のベンチへ力なさそうにもたれたまま、こっちを見て笑っていた」妻。生命力があふれモヤモヤと湿って暑い温室は、命の炎が消えかかって不安な冬を過ごした妻にとって居心地の悪い空間だったのに違いない。ふたりで過ごすことを楽しみにしていたはずなのに「ちょっとためらった」のちに妻は、ひとりぼっちで温室を出て遠くのベンチを探して休んでいる。可哀そうで寅彦のデリカシーの無さにムカムカしてくる。
この後に団栗を妻が拾う場面などが続くが、読み終えて「この軟弱な明治男め!」と毒づいていた。頭は良いかもしれないけれど封建的な家父長制や世情に純粋培養されたような寅彦の、無意識の妻への仕打ちに腹が立つ。120年前の社会にあっては、特段の問題もない夫の行動と言われても納得できない。寅彦の人間性が信用できない(あっ、ウチの昭和男オットの所業への鬱憤を寅彦に重ねておるのも確か…)。読んでいるのは120年後の私なんだからそう感じても当然でしょう。とは言うものの、この作品は数多い寅彦の作品の中でも秀逸と定評があり、だからこそ巻頭を飾ってもおるらしい。全作品の何十分の1か何百分の1に過ぎない小品でありながら、そして夫として残念な寅彦でありながら、なぜ『団栗』が評価されるのだろう。親を取り違えたかもしれない雛鳥に実の親を探してやらないと。で、他の作品も次々読んでみた。そしたら意外や意外、非常にまっとうだったし面白かった。それでまた『団栗』を何度か読み直し、その背景も調べてみたのだ。寅彦の名誉挽回はできるだろうか。
熊本の五高時代、英語教師の夏目漱石に俳句の手ほどきを受け文学に目覚め、田丸卓郎から物理と数学を学んで科学を目指した寅彦は、その後、東大に進み物理学者になる一方、随筆家や俳人としても足跡を残す文理に偉業の人物だ。知識と教養にすぐれ音楽を愛し絵も描く一級の文化人であった。『吾輩は猫である』を明治38年1月より「ホトトギス」に発表し始めた漱石にすすめられ、4月に同誌に掲載された寅彦の初めての随筆が『団栗』なのだという。
寅彦の『団栗』は原稿用紙なら12,3枚分と短く、素っ気ないぐらい淡々としているように感じた。感情表現もなく今どきの言葉ならいくらでも「盛る」ことができる題材なのに、突き放したようにいたって簡潔なのだ。妻に優しくしたことイチャイチャしたこと(ああ、こんな言葉も古くなったよねえ)は書かないで、むしろシャイでぶっきらぼうな優しくできない不器用な夫だったことを書いたのだろうか。未熟な若い夫として露悪的に書いたとか?そしてなぜ、植物園に妻を誘って出かけた日の出来事を、寅彦は『ホトトギス』への記念すべきデヴュー作としたのだろう。
寅彦の教え子で後に共同研究者でもあり雪の研究で知られる物理学者の中谷宇吉郎は、寅彦と交流が深く理解者として知られている(と今回初めて知ったのだけれど)。その彼が『団栗』時代の寅彦と妻について、寅彦が亡くなって後10年ほど経って書いたのが『「団栗」のことなど』。これは最近知って青空文庫で読むことができた。また関連した情報をネットで集めることができた(便利な世の中だねえ)。そんな知りえた情報のなかで私に一番衝撃的でもあったことは、小石川植物園に出かけたのは妻との思い出づくりの、別れを何日後かに控えた〈お別れ遠足〉のような意味合いのものだったということ。妻の容態は安定していたが、寅彦を思うあまり結核の感染を怖れた父親が、療養という名目で高知の浜辺の村に妻を隔離させるということを(遠流のように!)先手を打って決め、ふたりも従わざるを得なかったのだ。その日が近づいていた日の出来事だったのだと。『団栗』の本文中にはそんな事実は何も書かれていない。寅彦が切なかったとか、苦しかったとか無念だったとかは一言も触れられず、妻にも語らせてはいない。
明治11(1867)年に生まれた寅彦の生家は高知の旧家で、軍人で謹厳な父親(婿養子だった)は、結婚して20年目にようやく息子(寅彦)を授かったことを喜び、寅彦も嫡男として父親の期待に背くことはなかったようだ。五高の生徒だった20歳のとき、父親の軍人仲間の娘夏子と結婚した。夏子はまだ14歳で、寅彦は熊本で学び夏子は寺田家から女学校に通った。ふたりが所帯を持ち新婚生活を送るのは寅彦が東大に進んだ22歳からだが、その年の暮れ17歳の夏子が喀血したのだ。
寅彦に親しかった雪の博士の中谷宇吉郎によれば、寅彦と夏子は親の取り決めで結婚したが中睦まじかったそうだ。夏子が病床にあるときは寅彦はお膳を枕元に運び、夏子が喜んでくれるような妖怪の話や『レ・ミゼラブル』を読んでやったりして看病をしていたのだと。ある資料では、夏子は厳格な軍人の家庭に育った目の大きい美しい少女で感情も豊かだったが、その父親がよその女性との間につくった娘だったのではないかということが記されていた。だから家に置いておけなくて早く嫁に出したと。夏子が肺病になっても、近くに住んでいたはずの母親が見舞うこともなかったし、実家で療養する選択もなかった。罹患者という理由で唯一の寄る辺の寅彦と離れ、寺田家からも遠ざけられ、高知の浜辺の村でひとり療養する夏子を想えば不憫でならない。高知に寅彦が帰省しても頻繁に会うことはままならず、ふたりをつなぐのは手紙のやりとりだけだった。高知の療養を始めその5月に夏子は無事女の子を出産するが(当然ながら寅彦は立ち会うこともなかったが、その喜びを句に詠んでいる)赤ん坊はすぐに寺田家に預けられ乳母によって育てられた。当時夏子が寅彦に宛てた手紙に、張る乳を赤ちゃんに飲ませられたらどんなに幸せだろうというものがあり、それを読んだ寅彦は無力さに打ちひしがれたに違いない。夏子は翌年、19歳の若さで、寅彦に看取られることなく亡くなっている。夏子も孤独なら寅彦も孤独であった。
雪博士中谷宇吉郎の『「団栗」のことなど』を読んでいるうち、不覚にも(「年甲斐もなく」か)オイオイ泣いてしまった。寅彦は状況説明をほとんど排し、感情の吐露も抑えられている。それは俳句と似ているのではと思う。私のように表層だけを読むヘナチョコ読者は『団栗』は淡々とし過ぎ、優等生で独り善がりな寅彦の未熟さをあげつらうことになったのだが。本文中のほんの短い情景ややりとりは、抱えてる哀しみが重すぎて多くの言葉を封印していたのかもしれない。団栗はいつか発芽する生命の小さなゆりかご。夏子は生命を内包する小さな木の実を拾い集め、無意識のうちに自分を充足させようとしていたのかもしれないと今は思う。寅彦の素っ気ない文章は海上に姿を見せる氷山の一角にすぎず、海の中に隠れた本体は大きく重たい哀切な涙の塊なのかもしれない。『団栗』は俳人寅彦の長い長い俳句なのだと。読者に判断を委ねくどくど説明をしない俳句は、殻に籠っていつか発芽を待つ団栗に似ている。読み手が腐葉土になり注ぐ水になり団栗の発芽を見守る。私は団栗に芽を出しましょうと声をかけられただろうか。
120年後に田舎のおばさんの私にまで悪しざまに言われるとは寅彦は予想していなかっただろうけれど、自分を美化することなく、むしろ未熟で無力で不器用だったことを曝して、夏子をあのような孤独のうちに短い生涯を終えさせたことを贖罪としているのかもしれない。120年後の現在は新型コロナ禍が人々を苦しめている。結核は死病と怖れられ風評被害も酷かったという。夏子も療養先の村で居住拒否され転居先を探すのに苦労している。夏子の死を早めたのは、そういった風潮に翻弄されたせいもあるのではないかとのことだ。120年前の運命に弄ばれる寅彦と夏子の、悲運を乗り越えられなかった当時の寅彦の悔恨も含め、人々の心情に迫ることは時代を超えて共感を生む本質的なものなのだろう。
夏子の死から3年後、寅彦27歳のときに贖罪の意味もこめて書かれたのだと(いや、しかし。この年に寅彦は再婚するんだよね。夏子にも哀しみにも決別するための始末書みたいなもんだろうか?そうとは思いたくないけれど)私は思っている。『団栗』を最初に読んで良かった。この短い随筆を糸口にしたおかげで、寺田寅彦という人を手繰り寄せることができそうで。実際にはこれから本体に迫るというところ。今回はひとまず切り上げ、次は寅彦を忘れないうちに(物理以外の)作品をかじってみましょう。ではまた。
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