サンフランシスコで創業したスタートアップを解散した話
どうも、さっそ (@satorusasozaki) です。
ぼくは「シリコンバレーで世界を変えるプロダクト作る!」という目標を掲げ、3年前に渡米しました。最初の2年間はエンジニアとして活動し、3年目に現地で出会った4人の仲間とスタートアップを始めました。1年少し続けたのですが解散することになったので、今日は以下の3点を中心に、振り返りを書いてみたいと思います。
・シリコンバレーで現地の人とスタートアップを創業するまで
・スタートアップな生活
・スタートアップが解散する理由
シリコンバレーで現地の人とスタートアップをするのはどんな感じなのか、できるだけ具体的に想像していただけるように、私生活など、仕事以外のことも織り交ぜながら書いていきたいと思います。これからサンフランシスコ・シリコンバレーに来て何かやってみたいという人のお役に立てれば嬉しいです。
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スタートアップを始めるまで
最初に、少しぼくについての背景を説明したいと思います。「シリコンバレーで世界を変えるプロダクトを作る」と宣言して、文系で大学を卒業してから23歳の時にサンフランシスコに来たのですが、英語が話せたわけでも、コードが書けたわけでもなかったので、気合いだけで渡米しました。
大阪で生まれ育ったので、多少お笑いはいけるかなと小さな期待を抱いていたのですが、これは間違いだったようで、渡米直後はスベり倒す日々が続きました。この時にウケを狙って体を張りすぎて変な顔をされることが多かったので、アメリカ並びに様々な国の方々に「日本人は変人」という印象を植え付けてしまったかもしれないと思うと、今でも非常に心苦しく思います。
というわけで、なんの武器も持たない状態で「シリコンバレーで世界を変えるプロダクトを作る」という目標に向けてスタートしました。エンジニアとして作りたかったので、英語だけでなくプログラミングも身につける必要がありました。
1年目、修行。
1年目はまず英語とプログラミングを身に付けるつけるべくサンフランシスコ近郊にある大学で集中的に勉強しました。C++を使ってコンピューターサイエンスの基礎を、しかも英語で学べるので一石二鳥だ!と思っていたのですが、想像以上に大変でした。
前提知識のないコンピューターサイエンスを、一切話せない英語で勉強するのは思っていたよりはるかにハードルが高く、授業の10%も理解できませんでした。英語ができない人の多くは一年ぐらい語学学校に行って、集中的に英語だけを勉強してから大学の授業を履修し始めるのですが、「時間と金がもったいねぇ!」ということで、すぐにコンピューターサイエンスの履修を始めました。教授に内緒で授業をこっそり録音して、帰宅後何度も聴き返すという日々が続きました。
この時、たまたま同じ学校に通っていて、この先ぼくが師匠と仰ぐようになる Hiroki に出会い、エンジニアリングの勉強の仕方を教えてもらいました。そのお陰もあってC++漬けの1年目をなんとか乗り切ることができました。
この学生の期間の間に、プログラミングクラブやハッカソン等で現地の優秀な学生と共にプロジェクトに取り組んで仲良くなれたのは、非常に刺激的で貴重な経験でした。
2年目の前半、インターン。
2年目前半は500 Startups出身のWaygoというサンフランシスコにあるAIスタートアップで、自然言語処理エンジニアとしてインターンをしていました。隠れマルコフモデルという統計機械翻訳のアルゴリズムを使ってC++で実装されていた機械翻訳エンジンを、パフォーマンスを上げるために並列処理が得意なGo言語に書き換えるという仕事をいただきました。
実際に働くのが一番伸びると思ったので、インターンシップにはたくさん応募しました。もちろん、「1年間C++勉強したよ!Swiftもちょっと書けるよ!」というだけのぼくが、シリコンバレーのスタートアップでエンジニアインターンに正規ルートで応募して「スタンフォードでコンピューターサイエンスやってて趣味でOSを自作しています」という優秀な方々と戦っても勝算がないことは明らかだったので、別の戦略を取ることにしました。「人たらし作戦」と名付けることにします。
いきたい会社で働いている人をまずオンラインで見つけ、その中でもとくに優しそうな人に対して個別に愛を込めたメッセージを100通以上、メールとLinkedInで送りました。
以下が実際に送ったメールの例です。
Hi
1. サトルと申します。御社のプロダクトを愛してやみません。愛しすぎたゆえ、改善点を見つけました。
2. Xの機能についてYのように改善すると、さらにユーザーがハッピーになると思います。
3. 私のZというスキルを使ってその改善に貢献できます。だから雇ってください。
Thanks.
P.S. 私は世界を変えるプロダクトを作るために渡米して気合がすごいので、採用すると間違いなくオフィスが盛り上がります。
Satoru
ツッコミどころ満載かつ、変な英語で非常に暑苦しい内容でした。しかし、これといった武器がなかったぼくにとって、これが考えうるベストな戦略でした。ミートアップやイベントにも頻繁に出かけました。誘ってもらったパーティや集まりにも必ず行くようにしました。その結果、最終的にYummlyというレシピ系のスタートアップと機械翻訳スタートアップのWaygoからオファーをいただくことができました。Yummlyは自宅からオフィスまで往復で4時間以上かかったので断念しました。
働き始めるまでは、Go、Python、統計機械翻訳や自然言語処理の知識が全くなかったので、開始までの1週間で10以上の関連書籍とドキュメンテーションを読み、必死で準備しました。エンジニアリングを勉強し始めた時から、英語のリソースしか使用しないと決めており、この1週間徹夜して追い込んだお陰で「大量の英語から必要な情報を最短で見つける力」がつきました。
仕事は本当に楽しかったです。勉強してきたことが初めて役に立ったので嬉しかった上に、上司の手厚いサポートのおかげで充実した数ヶ月を過ごすことができました。
始めてから2ヶ月ぐらい経ったという時に、CEOから
「サトル、最近めっちゃ頑張ってるらしいじゃん。ヘルマン(ぼくの上司)から聞いてるよ。晩ごはん一緒にどう?好きなものご馳走してあげるよ。」
とお誘いをいただきました。ぼくはしゃぶしゃぶが大好物なので、アメリカ人のCEOに「しゃぶしゃぶが食べたい!」とお願いしました。そしたらサンフランシスコで一番美味しいしゃぶしゃぶ屋さんに連れて行ってくれました。
1年間やってきた努力が初めて、しかも現地の人に認められた気がして本当に嬉しかったです。最高のしゃぶしゃぶでした。
ご興味のある方は、ぼくの仕事の一部が記事になっているのでこちらからご覧ください。Why Evaluating Machine Translation Quality is Hard (2016/9)
喜んでます
2年目の後半、プログラミングスクール。
Facebookがスポンサーをしている無料のプログラミングスクールに入り、iOS開発を勉強しました。iOS開発はそれまでもやっていたので、スキルアップのためというよりも、いろんな人と知り合いになることが狙いでした。
Demo Dayの風景
3年目、スタートアップ。
そのプログラミングスクールで一緒にプロジェクトに取り組んでいたチームメイトと「おれたちいいチームだな!一緒にやろうぜ!」と盛り上がり、そのプロジェクトを元に、2017年1月、スタートアップを始めることにしました。
これまでの2年間で自分の無力さに苦しんだり、次のステップが見えないことがあり辛い時期が何度もあったのですが、サンフランシスコでカプセルホテルのスタートアップをやっていていつも仲良くしてもらっている Yusuke が、止めどなく訪れる困難を乗り越えていく姿を見て刺激を受け、頑張ろうと思いました。
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ザ・スタートアップ・ライフ
そんな感じの修行の2年間を経て、スタートアップを始めました。
チームのメンバー構成は
・デトロイト出身の筋骨隆々なアメリカ人
・Apple本社でローカライゼーションを担当する台湾人
・最近数百億円で買収されたゲーム会社の元副社長のカナダ人
・日本一治安の悪いところからやって来た日本人(ぼく)
という構成でした。上は35歳、下は24歳のぼくが最年少。サンフランシスコに住むメンバーのアパートの一室をオフィスにして始まりました。ホームセンターに行って大きなホワイトボードを買って設置したのが最初の仕事でした。
オフィス
スクールでチームとして開発していた「食事の写真が綺麗に撮れてシェアできるソーシャルアプリ」を引き続き開発していくことにしました。
美しきデュアルライフ
ぼくは当時、サンフランシスコ市内から電車で1時間・電車賃が片道800円のコンコード市というド田舎に住んでいました。当時は受託の仕事と2015年1月に1BTC=1万8000円の時に買って2年間ホールドしていたビットコインでギリギリ生き延びており、通勤するには「時間と金がもったいねぇ!」(2年ぶり2回目)ということで平日はオフィスで寝させてもらうことにしました。
さらに、自炊ができるようお箸や器などの調理器具を持ち込み、キッチンも使わせてもらうことにしました。メンバーが昼ごはんに宅配ピザを食べている横で、ワカメだけの味噌汁と納豆と白米を食べていました。節約しながら好きなものを食べられる自炊最高!と思っていました。たまにたこ焼きパーティもしました。
週末になると洗濯をするために1時間かけて田舎の自宅に帰りました。常に1週間分の衣類が入った大きなバックパックを担いでいたので、周りからは旅行帰りと勘違いされることが多かったです。このように、平日はサンフランシスコのオフィス、週末は田舎にある自宅を行き来する生活をしていました。
突然の仲違い
もともとスクールではアメリカ人と台湾人は別のチームだったのですが、よく絡んでいて意気投合したので一緒に始めました。しかし、いろいろと馬が合わない点が出てきたため、抜けることになりました。登記等を済ます前だったので大きな問題はなく、元々のチームだったぼくとカナダ人の2人に戻りました。
寝る or 開発
起きている時間は全て、コードを書くかミーティングをしていました。
起床後、相方はボクシングに、ぼくはランニングに行き、帰ってきて朝ごはんを食べながら今日やることのミーティング。午前中はもくもくとコードを書いて、昼ごはんを食べながらプロダクトミーティング。4時ぐらいまでコードを書いて、近くのコーヒーショップ、Andytownまで歩きながら進捗ミーティング。
夜までコードを書いて、晩ごはんを食べながら振り返りミーティング。晩ごはんを食べてから寝るまでは、WWDCの動画を見たり、技術書を読んだり、画像処理の論文を読んだり、インプットに充てていました。12時過ぎに就寝して、7時に起きる生活でした。たまにベータユーザーにヒアリングに出かけたりもしました。
余談ですが、サンフランシスコにはBlue Bottleなどのいわゆるサードウェーブ系と呼ばれるコーヒーショップがたくさんありますす。その中でもAndytownは群を抜いて美味しいのでおすすめです。コーヒー農家とのフェアトレードを重視し、地域コミュニティに根ざしたコーヒーショップを作りたいという想いから、マイケルさんとローレンさん夫妻が2013年にKickstarterプロジェクトで資金を集め開業しました。地元の人からの人気のおかげで今では3店鋪展開しています。
本題に戻ります。
家いらない説
週末には1時間かけて田舎の自宅に帰っていたのですが、自宅に帰っても結局コードを書いたり技術の勉強に充てていたので「2日も家に帰る必要ないのでは?」と思い、途中からは土曜日もオフィスで仕事をして、日曜日だけ洗濯のために自宅に帰るようになりました。
さらに、往復の電車賃1600円を使って洗濯のために自宅に帰るよりも、オフィス近くの小汚いコインランドリーでやれば400円ほどで済むことを発見し「4分の1じゃねぇか!」ということに気づいてからは、1週間以上家に帰らないということもよくありました。
シリコンバレーには「離乳食を終える頃にはすでにプログラミングしていたよ」というような変態的ハッカーたちがゴロゴロいると勝手に思い込んでいた*ので、23歳からプログラミングを始めたぼくが、世界を変えるプロダクトを作るためには、1行でも多くのコードを書いて、スキルアップしなければ!と常に意気込んでいました。そんなぼくにとってこのような生活スタイルは、関係のないことを徹底的に省くことができたため非常にストレスフリーな生活でした。
*日本から来られる非常に優秀な先輩エンジニアの方々を見ていると、ソフトウェアエンジニアの技術力という点ではシリコンバレーと東京の間に超えられない壁があるわけではない、と今では思っています。
人生初のピボット
食事の写真をキレイに撮れてシェアできるというソーシャルアプリを開発していましたが、キレイに撮るために器具等を使わずモバイルアプリだけでできることが非常に限られているという結論に達し、クローズしました。
それから色々と試行錯誤した結果、自撮りGifを作れるアプリを開発することになりました。勝手に自分の顔と表情を認識してくれて、こういうGifが自動で作れるアプリです。
秒速でクラッシュ
米国App Storeを担当してるAppleのエライ人にアプリを見てもらえる機会があり、「App Storeで特集してもらえれば多くの人が使ってくれるかもしれない!」と興奮しながらベータ版を送りました。
しかし、自分が頑張って実装した機能のせいで立ち上げて数秒でクラッシュしてしまい、チャンスを台無しにしてしまいました。このときは非常に落ち込みました。
Airbnb本社でタダ飯にありつく
ぼくたちの会社では、LottieというAirbnbが開発しているオープンソースプロジェクトを利用していました。Adobeソフトで作ったアニメーションをJSONに変換してモバイルでも使えるようにするツールです。
利用していく中で、改善した方が良いと思う点がいくつか出てきたので、Lottie開発チームと繋いでもらい、Airbnb本社にお邪魔して改善点について話をする機会をもらいました。
Airbnbのエントランス
最初のミーティングがうまくいき、その後も何度かミーティングでお邪魔することがありました。その際に気づいたことがありました。Airbnb本社のエントランスには、テーブルと電源とWifiがあって一般に公開されているスペースがあったのです。
そこで、相方と「ここ俺たちのオフィスにピッタリじゃね」ということになり、何の用がない日もAirbnb本社に来て、エントランスの一部を勝手に間借りして仕事をする日々が始まりました。
ぼくたちのオフィス(アパート)にはなかったエアコンがあったので、夏の間は非常に快適でした。怪しまれないよう、受付の人には毎朝最高の笑顔で挨拶していましたが、逆に怪しまれていたと思います。
それまでは、相方のアパートの一室をオフィスにしていて、ぼくもそこで寝泊まりさせてもらっていました。24時間週6日以上一緒にいて、常に仕事をしているか、仕事の話をしているかのどちらかでした。そのせいで徐々に生産性が落ちてきていると感じていた最中だったので、ちょうど良いタイミングでした。
しかも本当にラッキーなことに、お昼ご飯時になると、Airbnbでデザイナーとして働いている友人がたまにぼくたちのところまで来てくれて、無料でランチをいただくことができました。味噌汁・納豆・白米の生活がずっと続いていたので、本当にありがたかったです。
以前からAirbnbは好きな会社だったのですが、この一件で大好きな会社になりました。
「俺たちも、会社が大きくなったらAirbnbのようなエントランスを作って他のスタートアップに恩返ししよう」と相方と誓いました。
焦りと苛立ち
そんなこんなで、始めてから1年が経とうとしていました。それなのに、何もパブリックリリースできていない。そんな自分に焦りと苛立ちを感じていました。1年かけたのに、誰にも何の価値も提供できていない。お互い同じように感じていたのだと思います。徐々に残念な空気が漂い始め、それが解散のキッカケになりました。
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スタートアップが死ぬ理由
オフィス近くのビーチで見た夕陽
スタートアップが死ぬのは、創業者同士が別れるとき、とよく言われますが、本当にその通りだなと思いました。実際、ぼくたちのケースは、資金を出してくれるVCも見つかっていて、あとはプロトタイプを見せるだけという段階でした。なので、お金が原因で解散したわけではありませんでした。
追記(2018/6/28):これは間違いでした。スタートアップが死ぬのは、「創業者の気持ちが切れるとき」でした。ぼくの気持ちは、まだ切れてないどころかますます燃えてるので、全然死んでないです。次もがんばります。
また、大げんかや仲違いというはっきりとしたキッカケがあったわけでもなく、割と静かに解散に至りました。
その理由は
「共にエグジットまで持っていける」と思えなかった
からでした。1年という節目がもうすぐというとき、成果の出ていない現状のなかで、この先どうしていくか、どうなるのかを1人で考えました。「この先」とは具体的に言うと「エグジットまで」という意味です。
今の相方と「共にエグジットまで持っていけると思えるか」と自分に問うたとき、答えはノーでした。
これは主観的な相性の問題ですので、細かい理由はここには書きません。しかし、創業者同士がお互いに「こいつとなら何でも一緒に乗り越えられる」と思っている限りは、事業を変え、打ち手を変えて生き残る方法は探せばあると思います。そう思えなければ、遅かれ早かれどこかで力尽きる。
このことから、スタートアップを始める上で、最も大切な「誰とやるか」を考えるとき、以下の3点を基準にするように決めました。
1. なぜやるのか?(スタート)
2. どこにたどり着きたいのか?(ゴール)
3. 腹を割ってなんでも話せるか?(プロセス)
1. なぜやるのか?(スタート)
始めさえすれば始める理由は何でもいいと思っている派なので、これは一致している必要はないと思います。が、「300万円の借金を返したいから」とかだと就職した方が早く安全に返せる気がするので、スタートアップは違うのでは?と思います。
2. どこにたどり着きたいのか?(ゴール)
会社として、個人として、聞くようにしています。進むにつれて見える世界が変わるのでこちらもあまり重要視してないのですが、個人としてのゴールが「できるだけ安定して贅沢したい」とかだとスタートアップじゃない方がいいのでは、と思ってしまいます。ちなみにぼく個人のゴールは「人生の価値生産量を死ぬまでに最大化する」です。この世に自分の爪痕を残して死にたい、ということです。
スタートアップと言っている時点で「急成長からのエグジット」を前提としていて、会社をどこに持っていきたいかについて、大きくズレることはないと思うのですが、相方がどんな未来を見ているのかぼくは知っておきたい派です。
以上の2点は、「知っておいて損はない」程度でそこまで重要視はしていません。これから説明する3番目が最も重要だと感じています。
3. 腹を割ってなんでも話せるか?(プロセス)
これに尽きると思いました。本当に重要。悪いことが起きたとき、真っ先に共有しようと思える相手でないといけないときついと思いました。様々な人を巻き込むために対外的には大きなビジョンを語り、綺麗な未来を見せる必要は多少はあるのかもしれないですが、同じボートに乗っている創業者同士でありのままの現実を共有しあえないと厳しいと思いました。
本当に難しいこと
「なんでも気軽に話せない人と一緒に会社やるわけないやん」と思うかもしれないのですが、相性の見極めは本当に「言うは易く行うは難し」だと思いました。
新しいことを始めるときって、だいたいワクワクしていて楽観的になってることが多いので、メンバーに対して多少の違和感を感じたとしても、なんとかなると思ってしまう傾向にあるからです。
この人はピッタリだ!と思う人でも違和感を感じることは絶対あるので、違和感を恐れる必要はないと思います。でも、だからこそ、ここだけは譲れないというポイントを明確にしておいて、そのポイントに触れる違和感には敏感に対応しようと決めました。
ぼくにとってのそのポイントというのが、「腹を割ってなんでも話せるか?」ということでした。
オフィスの屋上からの風景
創業者同士の馬が合わなかったことが、今回の解散の最も大きな要因でした。しかし、間接的に解散に影響したと思うことが何点かあり、その中でも、特に重要だと感じたことを2つ書きます。
コードの書きすぎ
後に小林キヨさんに相談させていただいた時に、初期の段階では「価値を検証できるものを最短・最低コストで作って、使い続けてくれるかを検証することが最も大事」とアドバイスをいただきました。
つまり、創業初期、あるいは創業前、スタートアップとしてやりたいアイデアがあるという状況で、まず最初に達成すべき目標は「このアイデアはユーザーにとって価値があるのか?」を確かめるということです。スタートアップの言葉で言うと「価値仮説の検証」です。
しかし、振り返ってみると、「価値仮説の検証」という目標に対して、非常に非効率な道を歩んでしまっていたことに気がつきました。スピードと勢いが大切なスタートアップにとって、ムダは大敵なのですが、思い返すと本当にムダが多かったです。
実際にいかに非効率だったか、をわかりやすく説明するために、実際に開発していたアプリを例にとり、「ぼくたちがやったこと」と「すべきだったこと」を比べてみたいと思います。実際にはもう少し紆余曲折があったのですが、わかりやすくするために簡略化して書いています。かなり具体的で細かい比較になるので、価値仮説の検証に興味のない方は読み飛ばしてください。
実際にやったこと
価値を「表情やウィンクなどの仕草に応じて、自動で自撮りをしてくれて、加工できたら楽しい」と定義し、以下を実行しました。
1. 必要な知識の勉強
画像処理はぼくの専門外だったので、人間の顔と表情を認識するのに必要な技術を勉強しました。
・画像処理の基礎知識
・MetalなどのiOSのグラフィックAPI
・機械学習を使って表情を認識するためのTensorFlow
1年間、仕事後と週末は全て技術の勉強に充てることになりました。
2. アプリの開発
Metalでシェーダーを書いたり、TensorFlowで使用する表情のデータを集めたりしながら開発をしました。
3. テスターに送る
使用頻度や継続率を測定しました。
すべきだったこと
価値を「自分がウインクしてる目からハートが出るアニメーションのGifが作れて友達に送れたら楽しい」と定義し、以下を実行すべきでした。
1. 友人に頼んで、ウィンクしてる動画を送ってもらう
2. ハートのアニメーションを手に入れる
3. Photoshopを使って友人の動画を加工する
4. 完成したGifを友人に送る
3. 友人がGifをシェアした頻度と継続率を測定する
Xcodeすら開いてない、、、
顔認識のための難しいアルゴリズムを勉強する必要はないということがわかります。いや、Xcodeすら開いてない。必要なのはPhotoshopと優しい友人だけです。
価値仮説を検証することではなく、ベータ版を完成させることが目標になっていました。その上、ベータ版をテストユーザーに使ってもらうと反応がよくありませんでした。
4ヶ月ぐらいかかって開発したものがユーザーにとって価値のあるものではなかったと判明したんですね。価値があるかどうかを確かめるだけなら1ヶ月で十分だったと振り返ってみて思いました。
これ全部、以前から読んでいたリーン・スタートアップやYコンビネーターのブログに書いてあることなんですが、できてませんでした。プログラミングは写経で覚えたんですが、リーン・スタートアップも写経しとけばよかったなと思いました。
どうしても必要な時だけコードを書く
特にエンジニアなら、「とりあえず作ってみよう」と早々と手を動かしてしまいがちだと思うのですが、今取り組んでいることは、価値仮説を検証するために本当に最短の方法なのか?と常に問い続ける必要があると感じました。
しかし、これでは問いとして抽象的すぎて実行できるかわからなかったので、アイデアを検証している段階では「コードは書くな!絶対にだ!」という自分ルールを設けることにしました。フリじゃないです。
先人の例を見てみると、Product HuntのライアンはメルマガとTypeformとStripe、Dropboxのドリューは動画、Bufferのジョエルはランディングページのみで最初のアイデアを検証しました。
元Uberのグロース担当で、現在はアンドリーセン・ホロウィッツのパートナーのアンドリュー・チェンは、「まずはGoogle Keyword Toolでニーズを確かめろ」と言っています。
コードを書くというのは、アイデアの検証手段として最もコストがかかる行為の1つで、どうしても必要という場合以外はできるだけ既存のツールを活用すべきだと思いました。
起業家を徐々に蝕む天敵
1年やってみて、非常に体力と精神力が奪われる瞬間が何度かありました。それは
「期待が外れる時」
でした。
当たる!と思って頑張った施策が外れたり、状態が好転すると思っていた取り組みが当たらなかったり。カリフォルニアで激ウマラーメンデリバリー事業をやっているRamen Heroの長谷川ヒロくんも、「起業家が歩みを止めるのは期待が裏切られて心が折れる時」と語っていますが、本当にその通りだと思いました。
期待と現実の結果の差が大きければ大きいほど、士気を削がれます。これが何度も起きてしまうとかなり心が折れそうになります。
人間なのでわずかでも期待が生まれるのは仕方なのですが、生まれた期待が膨らまないような仕組みを作るために、以下の3点を重視することにしました。
開発開始からユーザーの目に触れるまでの期間を短く
「速く頻繁に失敗しろ」というのは、顧客が欲しくないものを作ってしまうという失敗を防ぐための格言ですが、起業家の期待が膨らむのを防ぐのにも有効だと思います。
1日頑張って作ったものをユーザーに見せて、おもしろくないと言われるのと、2週間頑張って作ったものをおもしろくないと言われるのでは感じ方が違いますよね。
また、外部からのフィードバックがない期間が長く続くと、今取り組んでいることに価値を見出すために、「これだけ頑張っているんだから、いい反応が得られるはず」と期待し始めてしまいます。長ければ長くなるほど期待が膨らみやすくなります。
常に最悪の事態を想定する
これは、サンフランシスコで仲良くしてもらっている先輩起業家Yusukeが常に言っていることです。最悪の事態を事前に想定できていると、期待が変に膨らむことはありません。だいたいうまくいった場合のことだけ考えて行動しがちですが、これでバランスが取れます。
また、不確実性の中を進んでいくためには、常に最悪の場合を想定して打ち手を用意しておく必要があります。それができていないと「うまくいかなければどうしよう」と足踏みしてしまいます。意思決定のスピードと勢いが大切なスタートアップにとっては避けたいことです。
長期的楽観、短期的悲観
最終的に成功するイメージができていないと走り続けられないので、長期的には楽観が必要だと思います。しかし最悪の事態を想定してリスクヘッジしながら前進し続けるためには、短期的には悲観する必要があると思いました。
感情を挟まず、機械のように高速にPDCAを回して行くことが大切だと感じました。
よかったこと
これまで反省点を書いてきましたが、もちろん、よかったこともたくさんありました。その中でも、「熱量が一致していた」というのは非常によかったと思います。話す言語も違う、文化も違う、年齢も違う(相方はぼくの11歳上でした)。でも、「アツさ」は同じでした。起きてから寝るまでプロダクトの話をして、どうすればユーザーに価値を提供できるかを常に議論する仲で、しかも自分より何倍も優秀で経験のある相方に出会えたのは非常にラッキーだったと思います。
また、ニューヨークにある相方の実家で本格的なアメリカのクリスマスを過ごさせてもらったり、パーティに連れて行ってもらったり、アメリカのことを何も知らなかったぼくに、様々なきっかけをくれました。相方には本当に感謝しています。
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シリコンバレーでやる意味
このブログも終わりに近づいてきたので、なぜぼくがシリコンバレーでやりたいのか、ということを話したいと思います。
今からもう50年以上も前の話ですが、ぼくの祖父は無線技術の会社を経営していました。あの有名なムーアの法則が発表された頃だと思います。やっと戦後復興が終わり日本経済が軌道に乗ってきた1960年代、祖父も開発していた無線技術を武器に、シリコンバレーで挑戦したみたいと夢見ていたそうです。
しかし当時の日本はまだブレトン・ウッズ体制の下、1ドル=360円の固定相場の時代で、高度経済成長期に入っているとはいえ、アメリカに比べるとまだまだ貧乏でした。祖父の会社にもアメリカに展開するほどの資金的余裕はなく、渡米してシリコンバレーで挑戦するという夢は叶いませんでした。
この話を小さい頃から聞いていたぼくは、「シリコンバレーには何かがあるんだ」という漠然とした想像をしていました。
祖父が夢を諦めてから50年後の2013年、当時大学生だったぼくは、「世界中の盆栽愛好家に、日本の盆栽師の知識と経験を届ける」というビジョンのもと、当時の相方と一緒に「盆栽のオンライン学習サービス」を作っていました。その過程で大阪市イノベーションハブの吉川さんに出会い、シリコンバレーに連れてきてもらい現地のVCにピッチできる機会をいただきました。
その際に交流イベントの一環としてあるスタートアップにお邪魔した時でした。楽しそうに働いているエンジニアがいたので、当時は全く英語が話せなかったのですが頑張って「めっちゃ楽しそうですね」と声をかけてみました。すると
世界を変えるプロダクトを作ってるんだから楽しいに決まってるだろ?
と返事が返ってきました。その言葉に衝撃を受け、子どもの頃から漠然と想像していた「シリコンバレーにある何か」とは「世界一の誇り」だったということがわかりました。それから「ぼくも世界一のプロダクトを自分の手で生み出したい」と思い、長期的に渡米することを決めました。
「まず日本で頑張れ」とか「日本人がシリコンバレーで成功するのは難しい」とか色々な意見があると思います。しかし、「スタートアップが成功するための最も大切な要素は創業者の決意の固さ」と、Yコンビネーター創業者のポール・グラハムは語っています。世界中から優秀なスタートアップが集まるこの地で、ぼくのような凡人でも勝算があると思っているのは、ぼくにとって最も決意が固まる場所がシリコンバレーであり、自分の決意の固さを信じているからです。
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最後に
「お前なんかがシリコンバレー行っても成功するわけない」「自分探しの旅にいくんですか?」と渡米前、周りの人たちに言われました。「やかましいわ!」と気にしないようにしていたのですが、内心は不安でいっぱいでした。プログラミングの経験はゼロで、英語なんて喋ったことすらなかったからです。
現地で履修したコンピューターサイエンスの授業では、周りが答えられている質問が自分だけわからなくて、「実は自分はめちゃくちゃアホなのではないだろうか。アホすぎてその事実に23年間気づかなかっただけでは」と何度も落ち込みました。
英語は、伝わらないというよりそもそも発話すらできなかったので、ポケットに入るサイズの小さなノートを常に持ち歩き、そこ言いたいことを絵に描いて伝えていました。
できないことだらけでしたが、他人と比べてできないことを憂いても仕方ないと思い「この1秒の瞬間成長速度を最大化する」ことだけに集中しました。
追い込みすぎてノイローゼ気味になり、人と話さない時期もありましたが、今では、会社のメンバーにコードレビューするぐらいにはプログラミングができるようになり、ネイティブと2人で会社を経営するぐらいには英語も話せるようになりました。
そこで気が付いたのはこんな当たり前の事実でした。
「できるからやるのではない。やるからできるようになる。」
やる前にできなくて不安なのは当たり前で、できるようになる1番の方法はやることだということに気がつきました。
助けてもらい続けた3年間
渡米直後は知り合いが1人もいませんでした。なので、シリコンバレーにいそうな人をFacebook探して、先日Zypsyを創業した Kazsa くんを見つけました。そして、メッセージで突然「シリコンバレーで挑戦しにきたのですが誰も知り合いがいません!会ってください!」と失礼な連絡したことが始まりでした。
共通の友人がいたわけでもなかったので無視されるのを覚悟で連絡したのですが、10分後には返事が来て、次の日会えることになりました。Kazsaのスピードと親切さに感動したのを今でも覚えています。その時にPeet's Coffeeというコーヒー屋さんでコーヒーもご馳走になりました。その後色々な人を紹介していただき、今でもお世話になり続けています。
それから3年間、ここには書ききれないほどのたくさんの素晴らしい方々に出会い、助けていただきました。何も知らなかったぼくに手を差し伸べてくれた皆さま、本当にどうもありがとうございました。
ぼくのこの経験を読んで、サンフランシスコに来て挑戦してみたいと思った方がいれば本当に嬉しいです。相談でも質問でも何でもいいので、気軽にメッセージください。
これから
1回目のトライはうまくいきませんでしたが、ぼくの「シリコンバレーで世界を変えるプロダクトを作る」ジャーニーは始まったばかりだと思っています。現在は、1社目で学んだ教訓を踏まえて次の事業の準備をしています。準備ができたらここに書きたいと思っていますので、よかったらまた読んでください。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
哘崎 悟
Twitter: @satorusasozaki
P.S.
昨日お世話になっているキヨさんがSFでゼロからスタートアップする方法というサイトを公開していました。先陣を切って挑戦しているからこそ得られる非常に貴重で具体的なノウハウが詰まっています。ぼくもとても恩恵を受けている情報の数々で、サンフランシスコ・シリコンバレーで挑戦したいという方にはぜひおすすめです。行動につながる具体的なステップが見えてくると思います。
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ビザに関する追記(2018/6/12 11:13 a.m. PST)
長いにも関わらず最後まで読んでいただいて本当にどうもありがとうございます。こんなにたくさんの方に読んでいただけてとても嬉しいです。
ビザについて気になっている方が多いようなので、少し書きます。
ぼくのビザは3年間、F1ビザです。最初に入学したコミュニティカレッジで発行されたI-20を維持しています。F1ビザで合法的に働く方法は様々あります。はっきりとした普遍解はないので、F1に詳しい移民弁護士か、移民法の専門家に相談してください。
ぼくは、ちょうど日本人のインターンシップ騒動などがあった後にインターンシップを始めたので、必要以上に常に細心の注意を払って、DSO (Designated School Officer) の移民担当と相談しながら手続きを進めました。関連する情報は全て移民担当と共にSEVISに申請しています。したがって、ぼくの活動は全て移民法と労働法に従っています。ビザはケースバイケースなので、オンライン上にあるような責任がトラックできない情報に頼らず、必ずDSOの移民担当に相談するようにしていました。
その上で、比較的多くの人に当てはまるかもしれないことを話すと、
F1ビザにはCPTという仕組みがあり、それを利用すると在学中であっても授業を履修しながらキャンパス外でパートタイムで働くことができます。在学開始から正規のセメスターを2回終了した時点でCPTを申請する資格が与えられます。つまり、OPTを待たずして就労できるということです。しかし、これはぼくが通っていたコミュニティーカレッジのDSOからの情報なので、他の学校はわかりません。なお、CPTとOPTは別物です。
ビザに関して意思決定をする場合に最も重要なのは、信頼できる移民弁護士、あるいは移民法の専門家を見つけて、その人の指示に従うことです。契約を交わしておいて、何か問題があった場合に責任をトラックできる状態にしておくことが非常に重要です。
「信頼できる」と繰り返している理由は、基本的に弁護士は結果に責任を追わないからです。「この作戦で行きましょう」と言われて従ってみて、うまくいかなかったとしても弁護士費用は請求されますが、欲しかった結果は得られません。弁護士や専門家を選ぶ際は、誰かの紹介などで信頼できて、類似業務実績がある人に頼むべきです。
この「ビザと就労」問題は、スピード違反のように「60km以上出したから違反です」というような簡単な話ではありません。想像以上に複雑で、多次元的です。
F1ビザで入国して、これから予定している活動が労働法や移民法に触れるかもしれないという不安がある方は、必ずF1ビザに詳しくて実績のある弁護士や専門家を見つけて、その方の指示に従ってください。
アメリカにESTA等で入国さえすればインターンシップができる権利が自動的に手に入るわけでもないし、F1ビザで就労していると必ず違法になるわけでもありません。ぼくはビザに関して完全な素人で、不必要なリスクは取りたくなかったので、全ての判断を専門家に任せました。
また、求められたとしても、経験談を元にビザに関して他人にアドバイスをするのを一切やめました。一見、自分と同じ境遇にいるように見える人でも、専門家によって答えが全く異なると知る機会が何度もあり、自分のアドバイスで相手を混乱させてしまうとわかったからです。
アメリカで活動したいという日本人にとって、ビザは命の次に大切です。「私はこういう抜け道を使いました」のようなオンラインに上がっている個別解や、契約を交わしておらず責任がトラックできない人から聞いた情報を元に、自分一人で素人判断するのは自殺行為です。特に、学生を含め個人で活動している方は全リスクを自ら背負うことになるので、さらに注意が必要です。
繰り返しますが、移民ステータスに関して不安がある場合は、信頼できそうな移民弁護士、あるいは移民法の専門家を見つけて、その人の指示に従ってください。
少し厳しめに書きました。頑張ってアメリカで挑戦しに来たのに、「移民就労」というトピックを軽く考えていたがために、強制帰国やアメリカへの再入国禁止を突きつけられるという、悲しい思いをする人が少しでも減って欲しいという願いからです。
渡米して挑戦したいという方は全力で応援・サポートしたいと思っています。しかし、ビザなどの法律に関しては、米国移民局の公式リソースや信頼できる弁護士や専門家に相談するなどして、自身で責任を持って正しい知識をつけてください。
以上、ビザに関しての追記でした。
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