人はなぜ被害者を責めたがるのか? コロナによる生活困窮者・感染者への「自己責任」バッシング
初出:wezzy(株式会社サイゾー) 2020.07.27 11:00
新型コロナウイルスの影響で失業したり、生活困窮になった人に対して「非正規雇用を選んだのが悪い」「そんな仕事を選んだのは自己責任」など、責める書き込みがネット上では多数見られます。また感染者の名前や住所、勤務先を特定したり、「テロリスト」「追放しろ」「バカ感染者」など攻撃的な投稿も少なくありません。
職業選択の際に「突然感染症が大流行し、外に出られなくなるかもしれない」というリスクを考慮している人はほぼいないでしょうし、感染を避ける自衛にも限界があります。また、誰がいつ新型コロナに感染してもおかしくありませんし、無症状感染者がいることは連日の報道の通りです。
そのような中で、なぜ人は生活に困っている人を責めたり、感染者をバッシングしたりするのでしょうか。その理由を社会心理学者の村山綾先生に詳しくお伺いしました。
村山綾(むらやま あや)
近畿大学国際学部准教授。主な研究テーマは、専門家−非専門家の円滑なコミュニケーションを促進する行動・犯罪被害者や加害者に対する一般市民の反応・変化への抵抗を生み出す要因の検討 。『偏見や差別はなぜ起こる?』北村英哉、唐澤穣(担当:分担執筆, 範囲:第2章:公正とシステム正当化)(ちとせプレス)等。
「自分には悪いことは起きない」と信じたいから被害者のせいにする
——村山先生が製作された心理学ミュージアムの「人はなぜ被害者を責めるのか 公正世界仮説がもたらすもの」を拝見しました。まず、「公正世界仮説」について詳しくご説明いただけますか。
村山綾先生(以下、村山):もともと人は「予測可能な世界で暮らしたい」という気持ちが強くあります。例えば、銀行に預けていたお金が翌日全部なくなってしまうとか、自分の持ち物が急に誰かに奪われるとか、何が起こるかわからない不安定な社会はストレスが大きいですよね。試験勉強をしたらきちんとテストの点数に反映されるなど、誰もズルをしないような社会を期待しています。
「予測可能な世界だからこそ私たちは頑張れる」「頑張ったらいいことがある。だからその目標に向かって頑張ろうという気持ちになれる」このように秩序だった世界が、自分が生きている空間にも広がっているとの仮定を「公正世界仮説」といいます。
公正世界が存在する、という信念が強い人ほど、将来の目標に向けてコツコツ努力ができ、自分自身は幸せだと思っています。そのため、日常生活において公正世界仮説を信じることは、基本的には良いことです。
——でも、公正世界仮説を信じることでデメリットが生じるときもあるのでしょうか。
村山:自分の理想である秩序だった世界と、つじつまの合わない出来事が起きてしまったときです。自分の信じる正しい世界でいじめや性犯罪など、予測不可能な出来事や不公正な事件が起きてしまったときに、起きた原因を「世界が不安定だから」ではなく、「被害に遭ったその人自身が悪いことをしたからだろう」と被害者に帰属してしまいます。
公正で秩序だった世界を仮定することは、安心して日常生活を過ごすためにも重要です。ただし、そのような世界観が脅威に晒されるような不安な出来事が起きたときに、自分の信じる世界観を守ろうとして「被害者にもいじめられる原因があったのでは」「夜道を歩いていた被害者が悪い」などの考え方をしてしまいます。
——新型コロナ感染防止対策でエンタメ業界や観光業界、非正規雇用などに影響が出ていますが、ネット上では「そういう仕事を選んだのが悪い」と書き込みが見られました。
村山:コロナ禍で今まで普通に頑張って働いて暮らしてきた人たちが失業したり、思い通りの日常が送れない、楽しみにしていたイベントがキャンセルになってしまったなど、予測不可能なことが次々と起きています。そんな不安定な社会の中で、「自分には悪いことは起きない」と信じたいがために、困っている人に原因を帰属させてしまうのではないでしょうか。
公正世界仮説を保とうとすることは心の防衛機能でもあり、「自分にはそのようなことは起きない」と思うことで心を落ち着けようとしているのだとは思いますが、人に言っていいことではありませんよね。
自分の不安やフラストレーションを自覚することが必要
——コロナ禍では、感染者を特定しようとしたり、バッシングしたりする人も大勢います。なぜそのような行動をしてしまうのでしょうか。
村山:1つは不安が原因です。感染することが恐ろしいと感じない人は、感染者の行動履歴などに興味を示さないと思うのですが、感染への不安が強い人ほど感染者の行動を責めてしまうのではないでしょうか。
2つ目はフラストレーションです。「自分は我慢しているのになぜ遊びに出かけている人がいるのか」という不満が募り、外出している人を攻撃したくなってしまうのだと思います。
問題は、本人も不安やフラストレーションを抱えていることにあまり気づいていないことです。自分自身の不安やフラストレーションをモニターできていないことが原因で、人への攻撃に繋がってしまうのではないでしょうか。
また「自分がやっていることはみんなもやっているはず」と思い込む傾向を「合意性過大視バイアス」といいます。「私はしっかり自粛しているので、周りの人も同じように我慢しているはず」と考え、その中で遊びに出かけている人を見ると「みんなは我慢しているのに、なぜあなたは我慢していないの」と攻撃性が増してしまう部分もあるかもしれません。
——いわゆる「自粛警察」の方々もこのような心理状態なのでしょうか。。
村山:私は実際に「自粛警察」を見たことがなく、そのような方々に対して、なにか一般化できる法則があるかどうかはわかりません。話を聞くなかでは、やらなくてはいけないことと、やらなくていいことをその人たちの物差しで測っているのではないかと思います。
営業しているお店に石を投げる人がいたと聞きましたが、自分達も石を投げるために不要不急の外出をしてしまっているので、合理的な行動ではありませんし……。ネット上に書き込むことのコストと、実際にお店に赴き、石を投げることのコストは断然後者の方が大きいですよね。直接行動に移すのは、相当不安やフラストレーションが溜まっているのかもしれません。そのうえで、近くに営業しているお店があるというアクセシビリティが組み合わさり、行動に移してしまうのではないでしょうか。
——感染者の行動履歴が報道されているとき、攻撃しようとは思わないものの、私自身も「この状況下でこんなに外出するのは共感できないな」と思うところがありました。でも、傍観者でいることは、状況によっては被害者バッシングへの加担でもあるのではないかと反省しました。
村山:「私はあの人とは違う。だから私はあんな風にはならないし、関係ない」と無関心なこともある種の被害者非難です。そう考えることは、自分の心を守るための手段の1つではあるので、仕方がない部分もあるとは思うのですが、バッシングという行動に移すのは看過できませんよね。正直に行動履歴を伝えてバッシングされる人がいると、感染しても正しい行動履歴を伝えてくれなくなったり、隠したりと、どんどん本当のことが言いにくい社会になってしまいます。具合が悪いけれども、「感染してたら責められるかもしれない」と体調不良を隠す人も出るかもしれませんし、組織ぐるみで従業員の感染を隠蔽することもあり得るのではないでしょうか。
感染経路不明の人も多く、誰がかかってもおかしくない状況です。無症状の人も多いと言われていますし、何も気にせずに生活していても、症状が出ていないだけで実は感染していた、という人もいるかもしれません。
感染したこと自体が悪いこととされてしまうと、感染したらどうなるのか・回復までの経緯など、重要な情報を得られる機会を逃してしまい、社会全体として不利益があると感じます。
——職場でのいじめやパワハラなどでも傍観者になってしまうことは少なくありません。無関心ゆえの加担をしないためにはどうすればよいのでしょうか。
村山:「人にはそういう心の働きがある」という知識が、予防に繋がると思います。知っていると何かが起きたときに「私は今こういうふうに考えているのではないか」と気づくきっかけになると思うんですよね。
——新型コロナの終息の目途は今もたっていません。今後、感染者バッシングを防いでいくために、私たちはどうすればいいのでしょうか。
村山:「感染者を非難したい」という気持ちが、なぜ生じているのかを認識することが重要です。バッシングすることによって、一瞬自分の気持ちを安定させられますが、それ以外まったくいいことがないと理解してほしいなと思います。
ただし、個人の努力でこのような直感的な反応に対処しようとすることには限界があります。過激な行動に至ってしまう人たちを少なくするためにも、政府の政策であったり、メディアの情報発信など、社会システムからのアプローチが必要です。不安やヘイトを煽るような内容を報道するのではなく、受け手の不安やフラストレーションが解消されるような工夫をしていただきたいと思います。
(取材・構成:雪代すみれ)