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私が本気でプリキュアを目指した日

デザイン事務所 藤角堂、代表の藤堂です(๑・̑◡・̑๑)
本日、2019年11月11日より、事務所を東京から横浜へと移転いたしました。

本当に本当に、私1人じゃ出来ないことも、周りの人達のおかげで、こんな私でも毎日成長出来ています。

こんな私……卑下しているわけではありません。事実なのです。

これを機にというのもなんですが、一つの区切りとして、少し私の話をさせていただきたく思います。
長くなりますが、最後までお読み頂けますととても嬉しいです。

決意を固めた一通のDM

まず、お話をする前に。

この記事を今のタイミングで公開するか、とても悩みました。
というのも、本当はもっと藤角堂としての実績を積んで3年や5年などの経歴を持ってからお話しようと思っていたのです。説得力が欲しかったから。

そして、とても勇気が必要でした。
安易な同情を買う為やただの話題作りと思われたくない。
公にしたことによって集客が減ったらどうしよう。
今まで築いてきた人間関係から、信頼を失ってしまったらどうしよう。
世間は自分が思っているよりも冷たい。この発言をしてしまうことで、これが事務所全体のレッテル、足枷になるかもしれない。
しかし、やってみなきゃ分かりませんよね。

正直、書いている今でもとっても不安です。

実は先日、お取引先のご家族様から、ご息女さまがとある精神疾患と診断され学業を休業し療養しているという旨のご連絡を頂きました。
ご息女さまは絵を描く事が好きなようで、家業でデザイナーごっことして家業に役立つ素敵なイラストを描いていらっしゃいます。
そんな中、弊所のイメージキャラクター、ふじつのちゃんに好意を持ってくださり、それがご息女さまの活力になっていると仰っていただきました。

この連絡をキッカケに、3年とか5年とか呑気なこと言ってる場合じゃねーな。
実績も説得力も、どっちにしろ積まなきゃ付いてこない。だったら今の段階からでも付いてこさせる。
今、何かで辛い思いや大変な環境にいる似たような方達に少しでも希望を与える事が出来るなら、自分が今すぐそのモデルになれば良いのだと思い直しました。

察しのいい方はここまで引き伸ばしても、もう何となく分かったと思います。
そうです。

私自身が、パニック障害や聴覚過敏、躁鬱や不安障害等を併発して抱えており、精神障がい者手帳3級を受給しております。

障がいを抱えている自分が今までやってきた事、そして今やっている事を等身大で発信し、似たような障がいを抱えた方や、今辛い状況にいる方、大変な環境にいる方。
誰かに少しでも希望を与える事が出来るなら……綺麗事ですが、これは自分のためでもあります。
世間からのレッテル張りをどう乗り越えて行くか。

起業実績は少ないけど、闘病実績は20年近くになる。
そこからの這い上がりっていう実績ならもう20年分ある事に気付きました。

という話です。ここからは細かくなりますが、どうぞお付き合いください。

原因不明の貧血との戦い

私は幼い頃から身体が弱く、突然の発熱は当たり前で幼稚園や学校の行事は参加出来ない事が多く、入院や骨折なども繰り返していたので病院はとても身近な所でした。
そのため、「外出先で突然倒れる」「外出先の医務室に運ばれる」「救急車で病院へ運ばれる」というのもそんなに重たく考えていなかったのです。

そんな病弱な私が高校生になった頃。
いつものように地下鉄に乗って通学している時でした。

突然、耳元がざわついて辺りの音が爆音のように聞こえ、目の前は砂嵐がかかったように見えなくなり、頭からは血の気が引いて、手足はしびれてくる。

そして全身からは水たまりが出来るのではないかという程の大量の冷や汗
呼吸も困難になり、あまりの辛さに座っていることもままならず、プツンと糸が切れた人形のように座席から崩れ落ちて倒れてしまったのです。

その後、気がついたのは駅の医務室でした。
この時、まだ現役で働いていた父が職場から駆けつけてくれた事は覚えています。
他はうろ覚えなのですが、おそらく少し休ませてもらって回復し、そのまま遅刻して登校したと思います。
こんな症状が、頻繁に起こるようになったのです。
ある時はバスの中、ある時は街中で遊んでいる最中、ある時はスーパーの会計中……
何度も倒れ、その度に医務室や病院へ運ばれていました。
しかし、その移動中等で時間が経った頃には、何事も無かったかのように回復しているのです。
内科、耳鼻科、脳神経外科、様々な病院で受診しましたが、原因は不明。
結局、成長期によくあるホルモンバランスの乱れ等からくる貧血だろうと、鉄剤を貰うだけでした。

パニック障害、そして卒業1ヶ月前の中退

2、3ヶ月に1度は倒れるし、だけど病院に行っても異常なし。
そんな感じで、高校も卒業し、美容の専門学校へ入学。

当時は、クラスメイト3人とルームシェアをしていました。(この話も面白いので後日お話します)
女友達3人での生活はとても楽しくて、病院で運ばれるほどの重たい貧血もなく、昼間はフォトスタジオでのヘアメイクを、夜はお金のためにすすきののパブでバイトをしながら、順調な専門学校生活を送っていました。(のちに聞いたら、ちょこちょこ倒れてたらしいのですが実は記憶が曖昧です)
そして、1年生の頃か2年生の頃かは忘れてしまいましたが、またあの激しい貧血が襲ってきたのです。
学校に行こうと家を出る直前、突然のあの貧血、そして今回はお腹に激痛も走っていて、流石にこれはヤバイ!と思って初めて自分の意思で救急車を呼んでもらいました。

その時の友人2人には感謝です。

そして、病院に運ばれ点滴を打ち……しかしまた、検査結果は異常なし。原因不明。何も解決しないまま、帰されたのでした。

そんな日々を過ごしながら迎えた、2年生の卒業前の大イベント、学年全体で開催する「ヘアメイクショー」。
数ヶ月も前からウォーキングやダンス等を練習し、衣装も自分達で、ヘアデザインも自分達で全て作り上げる、卒業制作のような大きなショーです。
この期間はとっても忙しかったけど、2年間で培った技術を盛大に使って、みんなの1番の頑張り時だったのです。

授業が終わった後もみんな居残り、練習や打ち合わせや制作……その甲斐あって、ヘアメイクショーは大成功でした。

そして次の日。

私は、起き上がることが出来ず学校を休んでいました

次の日も、その次の日も、謎の不安感に襲われて眠れない日が続き、不登校のような状態に。

体調が良いと思って登校しても、授業中に眩暈を起こし実技授業の間中ずっと横になっていたり、呼吸が苦しくなって治るまでトイレに篭ったり。まともに授業に参加出来なかったのです。

もちろんそんな状態なので、スタジオのバイトもパブのバイトも行けなくなってしまい、欠席が続いてしまうことに。
そんな私を見て心配した友人達に諭され、一度実家へ戻ることとなりました。

当時の記憶は本当に曖昧で今でも思い出せないのですが、母曰く毎日無表情、突然の癇癪、不眠、それなのにほとんど寝たきり、私から笑顔が消えていたらしいです。

そんな私が母に連れて行かれた場所は、心療内科。

細かい心理テストのようなものをした後、これまでに起きた様々な症状を伝え、内科等いろいろ受診したけど原因不明だった旨等を伝えました。

そして数年間、他の病気では【異常なし】とされていたものに、

【パニック障害】という病名がつきました。

※パニック障害についての説明はこの記事では割愛させていただきます。

母から学校に事情を説明してもらったところ、筆記授業はレポート提出、学校に来れる日は別室で実技の自習、具合が悪くなったら休憩室を自由に使って良い、という形で、通常授業ではなくても単位をもらえるよう、手配してくれました。

そして2月。卒業の1ヶ月前です。

その日は友人と2人で車で買い物に出かけていました。
その帰り道。レジに並んでいる時から少しふらつくな……と思っていたので、友人に会計を頼んで先に車に戻り休んでいました。
しかし、どんどん症状が酷くなってきて、また死ぬかと思うほどの腹痛と吐き気、過呼吸、大量の冷や汗……アレですよ。
この時も救急車で運ばれて、内科へと向かいました。

内科は何度も来ているから、どうせまた原因不明と言われるんだろうなと感じながら点滴を打ち、案の定原因不明で異常はなし。落ち着いた後家に戻り、少し休んでいました。

が、夜中に突然の発熱。41度を超えていたと思います。
それに加えてあの貧血……
また、このまま死んでしまうのではないかと思い、夜間でしたが両親に救急車を読んでもらい、日中に行った病院へ駆け込みました。
点滴をされながら、他の検査も同時に行われ、久しぶりに少し細かい検査をされました。
しかしやはり、原因は不明。
ただ、今回の主治医が気にかけてくれたところが「激しい腹痛があるなら、もしかしたら婦人科かもしれない。近々行ってごらんなさい」と言われたのでした。

そして次の日、母と共に朦朧とした意識の中、婦人科へ受診しに行くことに。

なんと驚きです。実は数年前から「チョコレート嚢腫」という卵巣が腫れてしまう病気になっていたようです。
すぐに手術で摘出しなければならないほど大きくなっていたため、家では安静に、手術の日まで待機する事が決まりました。

そんな事情が重なってしまい、とても良い配慮をしてくれた学校は、あと少しというところで単位が足りなくなってしまい、中退する事しか道は残されていなかったのです。

気付くのがあと1ヶ月遅ければ……と悔やんだりもしましたが、母は「卒業だけが全てじゃない。美容師資格はとれなくてもあなたがやりたいのはメイクなんだし、大丈夫。経験は積めたんだから」というようなことを言ってくれたことを覚えています。

入院、卵巣嚢腫摘出手術

そこから数ヶ月、卵巣嚢腫の摘出施術を終えて、医師からも今までの貧血はおそらく無くなるよ。とも言われていたので完全に信じていました。

母がうつ病と婦人科系疾患との関連を調べたところによると、やはり何かホルモンバランスが関係していて、うつ症状になるケースもあるようです。

なので、手術をしたからもう大丈夫。
私は【パニック障害】ではなく、【チョコレート嚢腫】の影響であんなに辛い貧血を繰り返していたのでした。

手術も終わり、後遺症の痛みも減り、全ては解決したと思い、そのまま心療内科へ通うことも辞めたのです。

その日は突然やってきた。

その後、色々とありましたが無事に社会復帰もでき、様々なアルバイトをしたり派遣社員から店舗責任者になってみたり、副職ではすすきので働いてと、充実した日々を送っていました。

若さの勢いで仕事を辞めて大阪に行ってみたり、そのノリで上京したり、タイで豪遊したり(この辺のお話も後日詳しくお話ししますね)学生時代の辛さが嘘だったかのように、明るくポジティブな自分になっていたのです。

ひょんなことから東京で出会った、今では私のビジネスパートナーでもあり、家族でもある堂角との共同生活も順調でした。

そして病気が解決してから10年以上が経った2018年6月。

いや、突然ではなかったのかもしれません。
私が今まで10年以上も、私を知らなかったのです。
忘れるために蓋をしていた、という表現が正しいかもしれません。

起き上がることもままならず、一日中トイレ以外はほぼ寝たきり。
お腹は空いても、ご飯を食べたら吐き気がしてしまうため、お粥などの流動食しか食べられず、それでもお腹を壊す。

黙っていると涙が溢れ、プリキュアを観ても気分が上がらず、頭の中には理由もなく悲しい気持ちが渦巻いていました。

当然、こんな状況が続き仕事にも行けなくて、だけど理由を言えなくて当日欠席ばかりしていました。

そんな私を見ていた堂角から「過去に、こういうことはあった?」と問われ、10年以上ぶりに過去を遡ってみたのです。

この時、もう既に治ったパニック障害の話を、初めて堂角に話しました。
普段からあまり自分の話をしない私は、過去のことだし更に終わったことだからと、特に堂角に隠していたわけでもなく言っていなかったのです。

そして遡ると出てくる出てくる……初期症状どころか、そもそも貧血の概念も違いました。

当時、堂角がまとめてくれた資料(ほんと仕事できるな)

経緯

1/4

2/4

3/4

4/4

普段と脳の動きが違う

1/3

2/3

3/3

今まで貧血だと思っていたもの

1/5

2/5

3/5

4/5

5/5

このように、曖昧な私の記憶と親身に向き合って、私が病院へ行きやすいように資料にまとめてくれたのです。

そして出した決断が、一度東京を離れて札幌に戻り、治療を再開することでした。

当時の職場やお客様には本当のことは言えず、「親の介護のため」という逃げ方をしましたが、退職する旨を伝えました。

自分が持ってるスキルの自覚

2018年7月
札幌に戻り、しばらくは病院と家の往復でほぼ引きこもりでした。
10年前とは違い、今回は全てを理解した上で前向きに治療に挑んでいるため、半年で治ると良いなと思いながら治療を進めていました。

30歳を過ぎてから仕事を辞め、たいした学歴もあるわけではなく、公共の乗り物に一人で乗ることすらできず、雑踏が怖くて外にも出られない私は、この先どうすればいいのか。
先の見えない不安に、毎日グルグルとしていました。

そんな時に、事情を知っていた友人が、デザイナー探してる人がいるんだけど、在宅で出来るからやってみない?と、声を掛けてくれたのでした。
そこで初めて、このスキルは一人でも立派に仕事になるんだ。と気付いたのです。
カメラもそう。プロに囲まれていたから私なんてまだまだ未熟と今でも思っていますが、一般の方から見たら専門知識もあり技術もある程度伴っていて機材もそこそこある…十分、一人でも仕事にできるレベルなんだと自覚をしたのです。

これなら、フリーランスとして仕事をちまちまと貰っていけば良いのでは?と考え始めました。

しかし、上記の資料をお読みくださった中にも書いてありましたが、新しい知識を入れる脳のキャパがないのです。

そしていつもより、作業スピードが遅い遅い……
無理をしてしまうと直ぐに体調に現れてしまうし、発作を起こしてしまう…
今回のクライアントさんは事情を分かった上で依頼してくれたから良いけど、本格的に仕事にするなら、そんな個人の事情を甘く許してくれるわけがない。

そんな風にもどかしくなった時、めちゃくちゃ身近にいる人間がスキル持ちな事に気がついたのです。そう、堂角です。

堂角とは、ルームメイト……いえ、家族となってからかれこれ7、8年経ちます。
お互いを信頼し合っている関係。友達を越えた繋がり。恋愛感情ではないけど、家族愛のような、共に人生を歩んで行きたいと思っているパートナーなのです。

そして私は、この関係性はビジネスに活かせる。と確信したのです。

私が本気でプリキュアを目指した日

それからは、どうやったら互いに遠方に居ながら仕事としてやれるか……
でも、実績も経験もないし本当に仕事になるのだろうか……
堂角には本業は続けてもらいながら、私がフリーランスとして働いて助けてもらう……?

いや、そんなのはフェアじゃない。助けてもらうなら対価は必要だ。
それって、私が起業して堂角を雇えば良いってことでは?
いやいやいや……突然の起業なんて。
しかも私はあくまで療養中だ。夢見てる場合ではない。まずは病気を克服しなければ。

そんな事を悶々と考えている日々でした。
障がいを背負っていて一般企業にも勤められない私が、会社経営をするなんて無理なんじゃないか。
本当はね、20代の頃の夢は自分のお店を持つ事だったのです。
夜職を続けていたのも、そのため。
だけど処方されている薬の関係で、それは完全に絶たれてしまった夢で。
人生で2度目の、お先に真っ暗。みたいな状態だったわけです。

そんな時にテレビでやっていたのが「HUGっと!プリキュア」でした。

HUGっとプリキュアでは、「なんでもできる!なんでもなれる!輝く未来を抱きしめて!」がキャッチフレーズ。
育児や社会経験や多様性の尊重など、メッセージ性がとても強いプリキュアです。
数々の世間に切り込んだ名言が生まれ、一時期はプリキュアを知らないジェンダー界隈にまで話題が広がり盛り上がるほど、影響力のあったプリキュア。
その中でも好きなセリフがあるのですが、この言葉にとても勇気付けられたのです。

「人の心を縛るな!男の子だってお姫様になれるし、女の子だってヒーローになれるよ!」

誰だって、何かにカテゴライズされて動けなくなる必要はないんだ。
障がいがあるから無理、学歴がないから無理、勤めれさえしないのに無理、そんなのは決めつけだ。
やってみなきゃ、分からないじゃん。

そしてこのプリキュアの主人公、野々はなちゃん。
最終回では、なんと社長になるのです。

……負けてられなくない?

そう思い立った時には、これまで無理だと決めつけていた可能性、頭の中にあるアイディアを、全部出して行動に移していったのです。

するとね、思ったよりも世界は優しくて。
応援してくれる人が、私の周りにはたくさん居ました。起業準備中から既に仕事をくれた方もたくさん居ました。
殻に閉じこもっていたのは、私だけだったんだ。
周りを見渡したら、こんなにも力になってくれる人がいたんだ。

自分では出来ない事は、頼れる相手に頼る。
人を頼るのは、弱さではない。
一人では何も出来なくたって、私に出来る事は沢山あるし、人と力を合わせればなんだって出来る。

そしてこの人達との繋がりは、紛れもなく自分が作ってきたものだ。

こんな景色を、もっと広げたい。
あなたの魅力を、私が引き出したい。
誰にだって何だって出来る。
可能性はいつだって無限大。

誰かの心にあるイメージを、誰かの心を動かすデザインに変えたい。

私も、プリキュアのように誰かのヒーローになりたい。
プリキュアのように……いや、プリキュアになりたい!!!!!

そうして2019年3月3日、「デザイン事務所 藤角堂」が出来上がったのです。

伝えたい事

今、何かを抱えていて悩んでいる方、大変な環境にいて動けない方、自分には何もないって落ち込んでいる方。

ここに一人、闘病しながら経営者してる私がいるよ。

私が出来たからあなたにも出来る、そうではない。そういう押し付けを伝えたいんではない。

ただ、こんなやつも居るんだと存在を知って欲しい。可能性を知って欲しい。諦めきれない人間が足掻いてる姿を見て欲しい。これは単なる私の承認欲求。

もし私の存在で何か変わるきっかけになったり、力になれたり、そんな人がいたらウルトラハッピーだな٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

ここまで、長々読んでいただきありがとうございました。
これからも日々、なりたい自分、プリキュアを目指します!!!

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