『音楽劇 Ghostnote』とフランケンギター

ムーサよ、語れ

エフドットの舞台、『音楽劇 Ghostnote』を見てきた。Teamエヴァンスの回。

正直なところ舞台は苦手だったが、お誘いがあったのと、「音楽劇」というのにも気になるところがあり、初日に足を運ぶことにした。
そして、思いのほかノックアウトされてしまった。だから語る。想定外だったが、舞台から触発されたアウトプットとしては、なかなかのものではないだろうか。

フランケンの後ろ姿

中心人物の夏樹は随分大きなギグバッグの中に、エディ・ヴァン・ヘイレンモデルのフランケンギターを背負っていた。
いつ見ても忘れられない、赤に白黒のストライプが入った強烈な色合いと、試行錯誤の結果フロントセンターのピックアップ部分が空にされて、乱雑に取り付けたリアピックアップと、何度も酷使されるフロイドローズブリッジの組み合わせ。
芸術大学に入学した新入生がそんなもの持ってたら、考えることはひとつ。

こいつ、かなりのマニアだ……と。

音楽好きが持つようなギターではない。あのモデルはCharvelで一時期出ていたが、まさに初期ヴァン・ヘイレンのための楽器以上のものではない。初期ヴァン・ヘイレンは誰にも真似できないような荒々しさの塊ではあるが、いろいろ使える楽器としてできているものではない。男気溢れる1ハムは、やりにくすぎる。
それにヴァン・ヘイレンモデルの定番なら、後期エディが使っていたMusicManのAXISや、PeaveyのWolfgangのはずだ。これらのモデルは2ハム、小型、非対称ネックで弾きやすい。NARNIAのC.J.Grimmarkなど、使用しているプレイヤーも少なくない。

あえてフランケンを選ぶということには、相当な正当性が必要だ。私の感覚では、エディ・ヴァン・ヘイレンのマニアなんじゃないか? という風に思うに至った。

作中では藤堂に巻き込まれ、漫画原作アニメの劇伴でギターを弾く。一撃でエンジニアをノックアウトしたそのプレイは、ジャズの上に載せた、随分とギラついたテクニカルなフレーズ。
そこでも違和感が。ヴァン・ヘイレンっぽくないのだ。たとえば「Beat It」で放たれる、沸騰するようなタッピングソロではない。「Ain't Talkin' 'Bout Love」のような芯あるものとも違う。エディ・ヴァン・ヘイレンモデルを持ち出してきたわりには、随分と他のジャンルを弾いている印象がある。

夏樹に一番ロックを感じたのは、年月を重ねてゆくシーンの中で、後ろ向きにギターソロを弾いていた姿。実はこれ、初期ヴァン・ヘイレンがやっていたと言われるポージングでもあるのだ。秘技であるタッピングをカメラに見せないために、エディは後ろ向きで演奏していたという。

あの背中は、確かにロックスターの一瞬を切り抜いていたと思う。

ネオクラシカルメタルの亡霊

作品ホームページで突き刺さっていた言葉があった。夏樹の師匠となる教授・藤堂彰一郎に対する紹介文。

自身は劇伴の作曲家でもあり、様々な映画やドラマの音楽を手掛けるが、本当に好きなジャンルはネオクラシックメタル。

いや、ネオクラシカルメタルだよな……? とは思ったけど、メタルの世界は、「森メタル」から「メロディックスピードエロゲメタル」まで、ありとあらゆるサブジャンルを含む。ひとり1ジャンルあるかもしれない。
……まあ、ここからはネオクラシカルメタルと仮定して、話を進めていこう。

ネオクラシカルメタルというジャンルはとても狭い世界だ。クリスチャンメタルよりはちょっと広いが、プログレッシブメタルよりは狭い。リッチー・ブラックモアとウリ・ジョン・ロートが育て、イングヴェイ・マルムスティーンという圧倒的な個性の中で爆発して、数々の速弾きギタリストを生み出したジャンル。

https://www.youtube.com/watch?v=O2j9C29XHNA

イングヴェイはパガニーニをはじめとするヴァイオリンプレイを翻案・再解釈し、猛烈な速度と美しさを持つ楽曲を作り出した。その一方、同じフレーズから抜け出せないまま手癖曲を量産したり、本人の猛烈な性格の悪さからメンバーが次々と解雇されてしまい、ついに自分一人で演奏するに至ってしまったり、ロックスターの持つ破滅的な一面も代表するような人間だ。
そのイングヴェイのフォロワーたちも、どこからどう聴いてもイングヴェイのリフを丸パクリしたり、イングヴェイの元ボーカルを積極的に再加入させたりと、イングヴェイへの信仰が著しい。ただパクリに関しては、ネオクラシカルメタル自体がクラシックの引用を全肯定するジャンルでもあるので、比較的寛容なのだろうと思う。

日本におけるネオクラシカルメタルは、Ark Storm、Concerto Moonなどベテラン勢が強い。Ark Stormはイングヴェイの元メンバーであるマーク・ボールズを迎えてアルバムを作るなど、動きもよい。群を抜いてイングヴェイなプレイを見せてくれるのが、超絶ギタリスト・Kelly SimonZ。現在のイングヴェイを遙かに上回る正確さは特筆すべきものがある。

……同時に、このジャンルは、新人がちっとも出てこないジャンルでもあるのだ。はっきり言って進化の袋小路に達している。ネオクラの平均値並みに演奏できるアーティストは、プログレ方面に行ったり、スタジオミュージシャンとして猛威を振るったりはしているが、直球のネオクラは出てこない。BABYMETALの「神バンド」としても名を馳せた大村孝佳さんも、デビュー時はそっちだったが、今のジャンルはもっとテクニカル。ピロピロ・ドコドコ・クッサクサのUnlucky Morpheusも、プレイはネオクラだしヴァイオリンも入ってはいるが、ジャンル的にはメロディックスピードメタルの方が近いだろう。
クラシック要素が足かせになっているのかもしれない。

劇伴収録シーンで、藤堂が夏樹に「劇伴で大切なものは何か?」と問いかけるシーンがある。夏樹は「技術力」と答えた。違う、「愛だ」と、藤堂が答える。
ネオクラシカルメタルは、はっきり言って技術力のジャンルで、その技術力は練習の積み重ねに由来している。とにかく速く弾けないとスタート地点にも立てない。
だからある時期猛威を振るい、トニー・マカパイン、クリス・インペリテリなど、数々の凄腕ギタリストは、ネオクラシカルメタルの世界でのし上がってきたのだった。

しかし速弾きで競う時代は、もう2000年台に終わっていたのではないかと思う。冗談みたいに速いメロディックスピードメタル、Dragonforceを聴いてしまっては、もうそんなことどうでもよくなってしまう。

技術力のみをひたすら追求した果てに残るのは、曲芸でしかない。しかし、情熱によって楽曲を紡ぐのであれば、評価軸は多方向に伸びているから、どこまででも続けることができる。
そして、愛を支えるのは確かに技術力なのだ。

先述したUnlucky Morpheusの「Carry on singing to the sky」は、ブラジルのメタルバンド・Angraと、その創設者アンドレ・マトスへのリスペクトが詰まっている。
唯一の全曲英語詞であるとともに、Angraの名曲「Carry On」から借用したフレーズ、Bメロの「There's a meaning to life」、サビの「Carry on」が突き刺さる。

https://www.youtube.com/watch?v=LqaDmOLRhME

イントロはシューベルト「未完成」、ギターソロはベートーヴェン「月光」、ヴィヴァルディ「四季」の「冬」、ヴァイオリンのソロはパガニーニ「24のカプリース」24番から引用している。これらはネオクラシカルメタルでの定番楽曲となって久しいフレーズだが、どれもAngraと、アンドレ・マトスの前バンドViperで引用されたフレーズである。
反則的な二重引用の裏に、どれほどの愛が詰まっているか、想像するととても楽しい。

Angraのジャンルは「メロディックスピードメタル」と考えていいだろう。だが根っこはネオクラシカルメタルの精神が宿っている。よく考えると、そもそも海外バンドには「ジャンル」の境界線は薄いのだった。Angraもプログレに行ったり、ブラジル要素を取り入れたり、少しずつ変化をしながら流れてゆくバンドである。

藤堂が見てきた世界を、私はこのように想像している。
ネオクラシカルメタルの沼に落ちて、数々の楽曲を聴きあさり、自らも演奏してゆくなかで、ジャンルに内在する限界を感じ、その過程で手に入れた経験を劇伴と後進への指導に生かすことにした……と。
これ自体は、とてもよくあることだと思う。直近だと『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』などの劇伴で名を馳せたエヴァン・コールが、実はシンフォニックメタルやブラックメタルを通ってきたゴリゴリのメタラーであった。

Lost In Hollywood

パガニーニの話がちらほら出てきたが、「音楽劇 Ghostnote」のストーリーラインにもヴァイオリンの姿がある。怪我によりイタリア留学が果たせなかったメイ・リンの物語。トレーニングで弾き続けている楽曲は、パガニーニ「24のカプリース」24番。

悪魔に魂を売ったと呼ばれる伝説のヴァイオリニストの楽曲は、いまでもヴァイオリニストの壁となっている。
パガニーニを演奏できないメイ・リンに、指導者の尾山蛍は「怪我はもう治っている」と告げて、もっと練習するように告げる。作曲科の満が作ってくれた弾きやすい曲ではなく……。

プレイヤーにとって怪我は、文字通り命取りとなる。だが、私たちの知っているプレイヤーはそれを乗り越えてもいる。
ブラック・サバスのトニー・アイオミは、右手の中指と薬指を失っている。彼は左利きなので、弦を押さえる指が、二本足りないのだ。現在来日中、デフ・レパードのリック・アレンは交通事故で左腕を切断。今でもずっと、ドラムを片手で演奏しているのだ。
イングヴェイ・マルムスティーンもまた、ジャガーで事故を起こし、うまく演奏できなかった時期があった。一番最初に引用したイングヴェイの「Rising Force」は、事故後に演奏されている。あの事故が起きた前のイングヴェイは、悪魔に取り憑かれたようなすさまじい速度でギターを弾いていた。事故が起きた後は、確かに少し変わったが、それでも、あれだけのプレイをやっているのだ。

事故前のイングヴェイのフレーズをお届けしたい。私はこれが、イングヴェイの、というか世界のギター史上最強のギターソロだと思っている。2:44からどうぞ。

過去を悔やんでも問題は解決しない。結局前に進むしかないのだ。そして、それは技術力で解決することができる。それはそれでシンプルな問題なのだ……。

物語は、バンド・劇・ダンス・ヴァイオリンのラインに拡散して、収斂し、大団円を迎える。
だがその大団円は芸術大学の四年間のことであり、その先にはそれぞれの未来が待っている。
「いざというときには真っ先に捨てられる」芸術の世界で、

つまるところ、今はあってもなくても変わらない存在だとしても
いつかそこにあることで何かが変わっていくかもしれない

そんな存在であり続けられることを願う。彼らが……つまり、演じられたキャラクターも、演じる本人たちも。

余談(フィクションに実在を投入することについて)

舞台はフィクションの世界に属すると思っている。その中に、エディ・ヴァン・ヘイレンモデルのフランケンギターを投入したことによって、私が認識する舞台世界は極端に解像度が上がった。
しかし、それは「正しい」ことなのだろうか? エディ・ヴァン・ヘイレンによって弾いたキャラクターの補助線は、過剰な読み込みなのだろうか?

音楽マニアはすべてに意味を付与したがる。
ネオクラが好きなら、クリーム色でラージヘッド、指板にスキャロップが入った'80ストラトキャスターだろう。ヘヴィメタルが好きなら、ESPのギターがお似合いだと思う。「Hi-STANDARDが好き」と言っているギタリストなら、きっと、レスポールのスイッチをガムテープで封印してしまったんじゃないか。

この違いは、音楽マニアにしか分からないかもしれない。しかし、何かを持つということに、恣意的でないものはあり得ない。それなら、誰かがそう読むことも想定されるべきだろう。
どうしてもそのように読まれたくないのなら、徹底的に無個性化する(ノーブランドのサンバースト)か、意識的に要素に加える(楽器とキャラ属性を寄せる)べきだろう。

音楽劇と名乗る文脈において、そこを意識しなかったとは、私は考えない。意識しなかったとすればただの無知だ。

だが、意識されていたと仮定するなら、夏樹の描写に戻ってしまうのだ。彼は何系のギタリストだったのか? ワンハムひとつでスタジオワークをやりぬくほど強烈な劇伴、それはそれでひとつの伝説として音楽雑誌に取り上げられそうなものだが、そこらへんはどうだったのか?たとえば、もっとスイッチもピックアップもあって使いやすいギターに持ち替えることによって、入学してきた頃の初期衝動が現実に応じて変化してきたことを表現できたかもしれない。それを表現する楽器はIbanezのSSHだったり、Schecterだったりすることだろう。

……まあこれはこれでただの妄想だ。小道具に予算がかかりすぎるし、そこまで読む人が、あの舞台にどれだけいるだろうか。