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聖なる普通の毎日(1)

昨年(2022年)1年間、神奈川県横浜市の本郷台キリスト教会が教会員向けに発行しているディボーション誌『毎日のみことば』に、『聖なる普通の毎日』というタイトルでコラムを連載させていただきました。
 許可をいただいたので、こちらにも転載します。

今ある生活から始めよう


みなさんこんにちは。中村佐知と申します。これから一年間、『毎日のみことば』にコラムを書かせていただくことになりました。ごく普通の日常生活の中に神様の臨在を見出し、神様と共に歩むことの助けになればと思います。よろしくお願いいたします。

何年か前、クリスチャニティー・トゥデイという米国のキリスト教雑誌で、こんな記事を読みました。カナダのリージェントカレッジで学ぶ博士課程の大学院生と、ユージン・ピーターソン(牧師・神学者)との会話です。その学生には生まれたばかりの赤ん坊がいて、聖書をいくら読もうとしても赤ん坊の世話で何十回となく中断され、焦りと苛立ちですっかり煮詰まっていました。そこで、その状況から抜け出すための良い霊的修練はないかとピーターソンに助言を求めたのだそうです。(霊的修練とは、一般的には、私たちの霊的成長を助けるような活動・実践・習慣として理解されています。)するとピーターソンは、このように答えました。

「今、あなたが毎日必ず行っていることはありますか?」

 彼女は考えました。私が毎日必ず行っていることは何だろうか…? 乳児を抱え、神学生なのに聖書を読むことも祈ることも満足にできない、霊的と思えることは何もできていない、そんな私が毎日必ず行っていることとは? しばらく考えたのち、生まれたばかりの娘に授乳することだけは、自分が確実に毎日行っていることだと思い当たりました。そこでピーターソンにそのように伝えると、彼はこう答えました。

「それがあなたの霊的修練ですよ。あなたが今すでに行っていることを、『今ここ』にある自分と、そのあなたを愛しておられる神に注意を払いながら、心を込めて行ってください。

おそらくこの神学生が知りたかったのは、日常の雑事に紛れて大切なことを後回しにしてしまうことのない、より強い信仰、より深い霊性を養うためにはどうすればいいのかどういう活動を行えばいいのか、ということだったのでしょう。何か達成したいことがあるとき、私たちは往々にしてそのように考えがちです。しかしピーターソンの返答は、「どんな」活動をするか、ではなく、「どのように」それを行うのか、ということに関わるものでした。赤ん坊に授乳することも霊的修練になり得ると言われ、この神学生はさぞかし驚いたことでしょう!

ブラザー・ローレンスと呼ばれる17世紀のカトリックの修道士がいます。彼は修道生活の中で、「神の臨在を絶えず意識する」ということを実践していた人として知られています。修道士の生活ですから、きっと祈りとみことばと礼拝の毎日で、神の臨在を絶えず意識するのもそう難しくなかろうと思うかもしれません。私たちのようなふつうの信徒の生活とはわけが違うだろう、と。

しかし、ブラザー・ローレンスの仕事は、もっぱら台所仕事や買い出しや靴の修繕だったそうです。もちろん祈りやみことばの黙想をする時間もありましたが、一日の大半は生活感あふれる作業を行うことに費やされていたそうです。それでも彼は、そのような作業をする中にも神の臨在を見出していました。彼にとって、奥まったところで一人静かに祈る時間も、それ以外の活動をしている時間も、変わりはなかったそうです。祈るときも、靴を修繕するときも、聖書を読むときも、台所仕事をするときも、同じように神を近くに感じていたそうです。

ブラザー・ローレンスは言いました。

私たちの聖化は、私たちがすることを変えることによるのはなく、ふつう私たちが自分のためにしていることを、神のためにすることによるのです。

(『敬虔な生涯:ふだんの生活の中におられる神』CLC出版)

ブラザー・ローレンスの言葉と、ユージン・ピーターソンの言葉には共通点があります。それは、神様との関係をより深めたいと願うとき、キリストの似姿により変えられていきたいと願うとき、生活の中に何か新しい活動を取り入れる必要はなく、むしろ自分が今すでに毎日行っていることを、神様の臨在に注意を払いつつ行うということです。つまり、いつも共におられる神様を意識する、私たちやこの地上に注がれている神様の愛の眼差しを意識する、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とおっしゃっている神様の声を聴きながら生活する、ということです。

前述の神学生にとって、ふだんから自分が行っていることとは赤ん坊の世話でした。それは母親として重要な行為でありながらも、彼女にしてみれば神様との交わりのときを妨げる障害でもありました。しかし、ピーターソンの助言によって彼女は気づいたのです。神様はそれを障害とは見ておられないことに。

 この神学生(現在では牧師)は、ピーターソンとの会話を回想してこう述べていました。

「私には、キリストにとどまる(in Christ)ことよりも、キリストのため(for Christ)に何かをしたいという強い誘惑があったのです。私は、家庭生活における自分のさまざまな責任を、敬虔な生活を送る上での障害物とみなしていました。しかし現実には、それこそがまさに、神が私と出会おうとしてくださっている場所だったのです。それに気づいたとき、『神への従順』という概念は、私にとって『キリストにとどまる(ヨハネ15章)』というシンプルな行為に基づくものとなりました。」

神様は、なんの変哲もない普段の活動や他愛のない出来事をとおしてでも、日々私たちと出会ってくださるお方であるとは、なんという新鮮な気づきでしょうか。教会生活には、私たちが神を仰ぎ見、神を讃え、神の恵みを受け取るためのさまざまな行為や所作があります。礼拝、賛美、祈り、聖書を読む、聖餐にあずかる…… それは神との関係のために聖別された行為であり、私たちが神様にお捧げするものです。しかし神様が私たちと出会い、語ってくださる場面は、それらの特別な行為や時間に限定されるものではありません。赤ん坊に授乳するというおよそ霊的とは思いにくい日常的な行為も、そこに注がれている神の愛を受け取りつつ行うのであれば、神との豊かな交わりのときになるのです。いつも私たちと共におられ、私たちを愛し導いてくださっている主に心を開き、その愛に自らを委ねつつ、心を込めて行うのであれば、どんな活動でも霊的修練になり得るのです。

前述の神学生にとっては赤ん坊の世話が毎日行う活動の一つでしたが、みなさんはいかがでしょうか。自分が毎日行っていることというと、何が思い当たりますか? 洗顔や歯磨きかもしれません。通勤電車に乗ることかもしれません。食事の支度や後片付けかもしれません。営業のために顧客を回ることかもしれません。帳簿をつけることかもしれません。夜ゆっくりお風呂に浸かることかもしれません。とりあえず何か一つ思い浮かべてみてください。それはごく当たり前の日常的な行為でしょう。神様とはなんの関係もなさそうに思えるかもしれません。「霊的な」生活をする上で邪魔になるとさえ思っていたかもしれません。それでも、ピーターソンのアドバイスを思い出し、それを「心を込めて、『今ここ』にある自分と、そのあなたを愛しておられる神に注意を払いながら」行うということを、試してみてはどうでしょうか。

神様は時として、私たちがまったく期待していなかったような時や場所で私たちに語りかけ、私たちを驚かせたりなさいます。しかしそれは往々にして「細いかすかな声」なので、気付かずに通り過ぎてしまうことが多いものです。

マーク・シボドーというカトリックの司祭は言いました。

「鍵となるのは、祈っているときに神に答えていただこうとすることではなく、すでにそこにずっと存在していた答えにどうすれば気づけるようになるのか、神に教えていただくことである。祈りは、普段の日の何の変哲もない一瞬一瞬の中に、神の御声を聞きとれるようにしてくれる。 したがって、祈るときには、『神よ、私にしるし(sign)をください)』ではなく、『神よ、私に視力(sight)をください)』と祈るべきだ。なぜなら、それこそ私に欠けているものだからである」

Armchair Mystic: How Contemplative Prayer Can Lead You Closer to God
Mark E. Thibodeaux SJ

心にふと感じる愛や喜び、平安、慰め。今日は疲れた、調子が悪いと思ったときに、思いがけず誰かが示してくれる親切や寛容や善意。私たちと共におられる神様の臨在に気づけるようになるために、神様は今ある「日常生活」から始めなさいと招いておられます。みなさんはその招きに、どう応答したいですか? 



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