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母を想う

「本当は長嶋茂雄選手と結婚するはずだったんだけど、お父さんがあまりにもしつこいもんだから〜」

母にその話を聞かされるたび、野球少年だった私は幼心に、「うちの母親はすごいな~」と信じ込んでいました。

その母は幼い頃に両親を亡くし、伯父の家に養女として引き取られて育ちました。その家は神社であり、なおかつ養父がしばらく村長を務めるなど、とても人の出入りが多く、忙しい家庭でもありました。戦中戦後の混乱期に、親戚間での養子縁組は珍しくなかったのかもしれませんが、環境の変化に苦労は多かっただろうと思います。父と結婚した後も、父が養子となり、その家を守り続けました。

子どもは、姉兄と私の3人。末っ子の私は、とても可愛がられたと思います。怒られた記憶はほとんどありません。思春期が訪れると、極端に口数が減り、意識的に母を遠ざけるようになりました。思春期が過ぎても、幼いころのように元通りとはいかず、相変わらず口数の少ない、可愛げのない息子でした。それでも、進学や就職、結婚、転職といった人生の節目に、母が反対することは一度もありません。「政史が決めたことならよかたい」—少し困ったような表情を見せた後でも、返ってくる答えはいつも一緒でした。

我慢強い母でした。我慢が過ぎたのか、60代で若年性認知症との診断を受けました。にわかに信じがたかったのですが、しばらくすると認知症特有の行動変容が現れるようになり、物忘れから徘徊、機能障害など進行が止まることはありませんでした。

そんな母と2人で、一度だけ近くの川まで散歩に出かけました。母の赴くまま、途中で近所の人から「珍しかね〜」と声をかけられ、足下の段差に注意を促したり、石段では手をとったり、きれいな花や清流を眺めたり、共に同じ時を過ごしました。本当に久しぶりでした。当たり前のことがとても珍しい出来事になるくらい、とても思いやりの無い息子でした。最後の最後まで心配のかけ通しだったと思います。

今日は母の七回忌の法要を済ませました。以前ならとても長く感じられた読経も、母のことを色々と考えていたら、あっという間でした。生前なかなか交わすことのなかった親子の会話を、これから少しずつでも取り戻せれば、そんな気持ちでいます。「親孝行したいときには親はなし」その言葉の重みを今、しみじみと噛みしめています。。

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