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生まれてきてくれて、ありがとう。

是枝監督の映画『ベイビー・ブローカー』を観ました。同監督の最近の作品はほとんど観ていますが、その中でも、私にとって印象深いのは『そして父になる』。出産した病院で赤ちゃんが取り違えられてしまったことから、親子とは、血縁とは、思い悩み苦しむ登場人物を通して、家族のあり方を考えさせらる作品でした。その映画を観たときに「この監督が『こうのとりのゆりかご』をテーマにしたら、どんな作品になるのだろう」と想像したことを覚えています。9年の歳月を経て実現することになりました。

舞台は韓国。日本・熊本の『こうのとりのゆりかご』ではなく韓国・釜山の『ベイビーボックス』。仕組みそのものや法体系、社会的背景、価値観などの違いはあるものの、多くの共通点を見出すことができます。印象深いセリフの一つが「捨てるくらいなら産まなきゃいいのに」。劇中でも何度も使われたその言葉が、苦しむ女性をさらに追いつめることになります。「だったら中絶して殺した方がよかったのか」—それが反射的に返ってくる答えなのかもしれません。

「生まれてきてくれて、ありがとう」

映画の終盤で、ベイビーボックスに預けられた赤ちゃんに対して、そしてその子を取り巻く大人たちがお互いにかけあう言葉は、『やまゆり園事件』の加害者にも接見したという監督が、この作品でもっとも伝えたかったことなのだと思いました。

『ゆりかご』の検証でも常に指摘されてきた問題の一つに『男性の無責任さ』があります。本来であれば、妊娠や出産の当事者であるはずの男性なのに、責任感はなく、逃げる、責任を女性に押し付ける、存在感すら失われている状況です。この映画の中でも、赤ちゃんの実父は単純にそんな存在であり、人物像が詳細に描かれることはありませんでした。

女性は出産した時点で母親となります。また、「身籠ったときから」母親であるともいえ、産む、産まないの判断を求められ、例えば産まない判断をした場合には、他者から責められ、自己嫌悪に陥ることもあるといいます。一方の男性の場合は認知しなければ父親にならない、そんな女性には無い選択の局面があります。そして、出産は女性と産まれてくる子どもだけの問題となりがちです。

「子どもは親を選べない」よく言われる言葉であり、児童虐待の報道に触れるたびに私自身も感じることです。子どもを守る必要があります。命を、安全を、健康を、安心できる暮らしを、そして出自を知る権利も。それらはいずれも子どもを守る立場からであり、妊娠や出産のもう一方の当事者である女性は守られているのだろうか、この映画はそんなことも問いかけています。

暴力、レイプ、DV等からは当然守られなければなりません。米国では人工妊娠中絶を認めない動きが活発になってきています。女性の産まないという選択肢が奪われてしまい、内密出産で明らかになってきた『出産を知られたくない権利』については、議論の俎上にすら上がっていない現状では、女性が守られているとは言えないのかもしれません。

「生まれてきてくれて、ありがとう」に加えて「生んでくれて、ありがとう」と、お互いに言葉をかけあえるような社会が、私たちの目指すところではないのか。ある意味では、9年間、待ち望んでいた映画から、そんな確信に近い感情を抱くことになりました。


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