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守られるべき『政教分離』

旧統一教会関係の報道に触れるたびに胸が痛みます。特に信者の家族や『2世信者』といわれる人たちの「家族を崩壊させられた」という悲痛な声、家族間で憎しみ合うかのような応酬を見聞きすると、いたたまれない気持ちになります。「宗教とは何なのか」「何のためにあるのか」と考えさせられますが、簡単に答えが見つかるものではありません。

私の実家は歴史のある神社で、宗教とは関係の深い環境で育ちましたが、私自身は神に仕える者ではありません。多くの人がそうであるように、神社で手を合わせるのはもちろん、お寺や教会に行っても厳粛な気持ちになります。初日の出や樹齢を重ねた大木などを前にすると、心の中に留めることが多いのですが、崇拝の気持ちから自然に手を合わせたくなります。特に信仰心が篤いわけではなく、それでも心の安寧を求めるとき、何かを祈り救いを求めている自分に気付かされます。

私の場合は、何かに、時には宗教に救いを求めたとしても、「あんなことはやってはいけない」「それは教義に反する」などと言われてしまうと、きっと反発を覚え、素直に従うことはないでしょう。ただ、心身が弱り、何かにすがろうとしている時につけ込まれると、ずるずると受け容れてしまうのもわからないではありません。心の中にその境界を設けるのはとても難しいことだとは思いますが、冒頭に取り上げたような報道に接すると、やはり旧統一教会の教義は行き過ぎと感じざるを得ません。

また人の心は弱く、宗教に救いを求める気持ちも理解できる。信じたくなる気持ちもわかるからこそ、宗教と政治の線は、しっかりと引いておく必要があるのだと思います。もちろん、信仰の自由があり、信者がどんな政治を支持するのかも自由です。それが教義に絡んだり、組織的なことになれば、宗教の個人に与える影響力の大きさを考えた場合、そこはしっかりと一定の距離を置く『政教分離』は守られるべきだと考えます。信者数を票数に簡単に読み替えることのできるような宗教は、いかがなものかと感じざるを得ません。

それでは私たちは何を心の拠り所にしましょうか?
今一度、身近なところ、すぐそばに居てくれる人に目を向けてみたらいかがでしょう。少しでも負担を分かち合おうと、寄り添ってくれている人が見つかるかもしれません。

そんなことを考えながら旧統一教会の報道を見ていると、やはりどこか間違っていると感じざるを得ません。


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