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旅に行く

30代も半ばをすぎた頃、ぼんやりと過ごしてきたツケがたまり、自発的に何かしたい、強い意志とモチベーション、そういうものが億劫になって毎日を手癖でやり過ごすようになった。

人生がどん詰まりになるというではないし、そのままでなんとでもなり、なるように果てるばかり。

久しぶりにまとまった休みが取れることになって、珍しく何かしてみようと思いつくまま、安いからという理由だけで台湾旅行を考えた。格安ツアーに登録して、あとは現地についてから流れに任せようと、当然のように考えなしで、本当にただ行くというだけでその日を迎えた。

初めての関空に到着して、キーヤンの壁画を見たとき、なぜかわけもなく楽しいと思った。安く済ませることばかり考えて、昼食も牛丼を簡単に食べるだけだったのに、久しぶりに高揚を自覚した。複雑なことは何もない、決められた時間に決められた場所に行くというだけなのに、どうにも楽しくて仕方ない。フライト時間の随分前から待合に到着して、過ぎていく様々な便を見送るのが、とても大切なことのようにすら思える。

ツアーといっても、ホテルと飛行機の予約とその送り迎えだけで、あとはフリー。一人で特に何も考えず、日ごろとまるで違う場所に行くというのが、いつにないわくわくする気持ちをくすぐって仕方ない。飛行機は当たり前のように飛び立つ、離れていく関空島、高度が上がり飛行機は進み、下に見える陸地はどこなのかわかりもしない。やがて海と雲だけとなり、何もかもが遠く離れた。

台湾桃園空港に到着、両替は移動のバスの中でガイドにお願いし、ホテルまで送り届けられたら放り出されるように一人になった。周りは知らない言葉ばかり、流れに任せるままでなんとでもなるのだけども、その流れがとても楽しい。

故宮博物院、中正紀念堂、台北101なんてお決まりの場所も巡りつつ、知らない街の路地裏をうろうろしてみたり、結構日本語でなんとかなるなと思いもするのだけども、耳に入る言葉はすべてわからない音の羅列というのが、どんどんとわくわくを加速させていくのがわかった。

小籠包を食べたい。お店にいけば、メニュー票に数字を書き入れるだけで注文になる。スープもつけてみよう、酸辣湯ってなんだ、多分スープだ、大で80元、安いけどどれくらいの量だ、一人で食べられるのか、疑問があっても訊ねる言葉がない。思ったとおりになったり、まるで違うことになったりが楽しい。酸辣湯の大は凄まじい量が出てきたが(3人前くらい)、一人笑って残さず食べた。自分がしたいことをしている、できなかった責任をとってる、そういうことが凄く楽しいと久しぶりに思い出したようだった。

30代半ばを過ぎた独身男が、海外にいって好き勝手していた、もっといえば、台湾に甘えて外人だからと優しくされた(怒られなかった)というだけのことなのだけども、それから毎年数回訪れるようになっている。換えがたい喜びがある。

今となっては迷惑にならないように、少しばかりの言葉は覚えたけども、それに伴って、より地方へと行けるようになり、結果として全土に迷惑をかけてしまっているように思うんだけども、行きたいという気持ちを止められない。

誰かに思いを伝えて、自分を示していく。言葉が通じる、知っている人と話す、仕事や生活を送る、そういった中で見失ったものを取り返したように思える時間を過ごした。独りよがりだとわかっている。この経験は、人生を再度真面目に生き直しているかのような錯覚を与えてくれているだけだとも。でも、旅をすることで救われるような気持ちになったのだ。

また行けるようになるだろう、とても行きたいと願ってやまない。だけど、何かを伝えるということが、病気を伝えるということとも一緒になってしまうかもしれない。それを避けるため新しいルールができるだろうし、それに従うだろう。それだけでいいのか、もっとやれることはないか。思いながら日々を過ごすばかり。

ただ、旅行に行きたい。そう願ってやまない。

#私たちは旅をやめられない
#TABIPPOコンテスト
#関空

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