20231225 公人と一般人

アーティストの死について

死後盛大に感謝されたり称賛されたりすることって、同じグループで活動していたメンバーとか関係者へのフォロー・資産にもなり得る
って考える人いるかもしれないけどこれグループ、特に”バンド”の恐ろしい所で
バンドってすごく激しいリビドーを体現する一個の生命体になり得るから、たとえ有名な曲1曲でもずっと小説みたいにアーティスト名が小説の作品名みたいな感覚で人々の記憶に残ってしまうのよな。
一度操縦し始めると認知されてしまっていつまでも「元〇〇の~」って肩書がつく。
でも実際は一人の人生を持った人間が、集まってるだけだから
死んでしまった人の株が上がろうが下がろうが伝説になろうが
取り残された人そのものに興味を持つ人が増える
ていうことは直接的にはないんだよな(そういう風な売り出し方をわざとしない限りは)

結局じゃあファンとしてどうやったら一番消化できるようになったか言うと誰かに勧めるようになったことなんよな(それと覚えきってる流れをさらに聴いてまだかみしめること)あなたがこの曲を聴いてくれているときはこの人生きてるよ!みたいな感じかも
自分がヒトリエを聞いてるときwowakaは生きてるよ!(生きてないねんけど)
声 の生命感ってすごいよね。

結論 生きてる時にライブで見ないと って思ってた感覚は
本人が死んでしまっても変わることはないのであった。


個人的に思うこと(この手の話題は人と話すと高確率で論争になるので避けたい)(正解が出てるわけでもないしただのざつだん)
顔出ししないとか正体不明とか今すごく流行ってるけど結局それってどんなグロテスク鮮やかバック有名ミュージシャン且本人も上手くて、存在していて存在していないような
現象でありタスクみたいな
ものだと感じてしまっているので、都合よく色んなポジションを埋め合わせてくれる他社によって作られた存在にしか思えない、だから現象。ほんでタスクマン。タックスマンじゃなくてタスクマン
人間力なんて他人が評価していいものではないから、正体をわかってないと応援できないっていう自分の考えは矛盾を持ち得ていると自覚はある。けれど何か正体のわからないものを愛するっていうのが本当に難しい
覆面グループとかどうしても仕事の役割でパート分けしてしまって見てしまうから
仕事量の少ないアイコン担当の人が一番フォロワー数多いとかを見るとほんまにSNSってなにって偏屈老人みたいなこと思っちゃうんよな
そーいうのを崇拝してる今どきの現実よりもSNSのつながりメインの若い子に自分の話なんか通じるわけがない・・・ってこないだ思ってまた人とのかかわりの難易度が上がってしまったよ
その事例に関しては自分が少数派なわけなんでこっちが間違ってることになるんだが
「お前のこと見るとき学歴職歴友達の数持ってる雑貨のブランド服装で判断したと思ってるの?」と言いたくなったけど言わなかった 絶対通じないから 一緒に居て楽しかったり、人に何かを伝えることに長けている人でも
そんな所ですれ違うんだなって思ったのね
(だからその人のレベルをたらしめるその人に付属する何かみたいな話はまじで避けたい)

話は戻りますがこれら話はですなあ
表現を生業としてる人以外にも適応されるもので(てかまあはっきり言うと自殺のニュース見るたびに特に思うのだけど)
死んでこそ価値になる何かなんて絶対ない
生きてるうちしかできることってないのである
死なないとニュースにされないことに何かを期待したらあかん
本当は’”自分の死がニュースになること”よりも
長く広く深く大きい事ができる力がある
って信じて常に一番端を超えていかなあかん
じゃないと生きてる意味があるなんて生きてるうちに思えることはないんじゃー!

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