ジェンダロール

一つ前の記事に「女はこうあるべき」「男はこうあるべき」みたいな話はなくなればいいと書いたけど、この思考は自分のジェンダーから由来してると思う。

おおっぴらに話すことはあまりないけど、自分は無性だと思ってる。無性とは、男性・女性どちらの要素も持たない性自認のことね。感覚としては、女であることも、男であることも肯定をしてない。

確かに体の凹凸の差や、分泌されるホルモンは異なるとは思うけど、自分的には記号みたいなもので、身体はあくまで精神を留める容器だと捉えてる。

ただ、昔からそう思ってたわけじゃなくて、6歳頃までは男になりたい!と明確に思っていた。お兄ちゃんっ子だったのでお兄ちゃんに憧れてた部分もあると思う。(お姉ちゃんだったらどんな影響を受けてたのだろうか)

私は小1から空手してたんだけど、痛くても、悔しくても、自分は男だから泣いちゃいけないんだ!と思ってたのが記憶に残ってる。

考え方が変わったのは、私が男よりも強くなった頃だと思う。いつの間にか私の男の象徴は"強さ"や"力"になってたんだろうな。 だから、自分が男を凌駕する存在になったら、割とどうでも良くなった。

レアなケースかもしれないけど、私が身体的な性別から解放されたのは、それが大きいと思う。

男女二元論の社会の中で生きているとどちらかに分類されてしまうこともあるけど、そこにはあんまり抵抗を持ってない。他人が勝手に決めたルールだし。

会社でもボーイッシュな服装をしていて、1社目の人事からは、男社会の中では女性らしい服装の方が世渡りしやすいよ。と言われたけど、スルーした。

公言しないのは、単に説明するのがめんどくさいし、どちらで扱われてもなんとも思わないので、ご自由にどうぞというスタンス。(この考えもなかなか暴力的な要素を含んでいるけど。)(もちろん、社会的に男女格差があることについては、問題だと思ってます。)

~~~~~~~~~~~~~
話が脱線してしまったけど、上記のようなことより、「女はこうあるべき」「男はこうあるべき」 みたいなジェンダロールに自分も縛られたくないし、他人を縛りたくないと日々思っている。

と、なるべく意識しつつも、男女二元論の元に育っているので、思考の節々に影響は受けていると思う。ただ、なるべくニュートラルでありたいと思う。

初対面においては、ジェンダーロール以外でも、交際ステータスについてや、子供の有無、家族関係など、パーソナルなことを自分から踏み込みすぎないようにしている。もちろん、相手が話したいなら別だけど。

関係が築かれていく中で会話に出るのは自然な流れだと思うし、もちろんケースバイケースだけど、心も開いてない中でいきなり切り出すのは、心に土足で踏み入るようなものだと思う。ということで、普段パーソナルな内容については相手の温度感を見ながら会話するようにしている。

あるとき、「あなたは人を傷つけないような言葉を選んで話しているように思えるけど、それは意識的に?」と聞かれたことがあって、かなり驚いた。分かる人には、分かるんだなと。 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

マイノリティであることと、adhdであることで興味が内面に向いたのは間違いない。自分が〈何者であるか〉というのは、人生のテーマだな。

自分がどこに帰属してるかが分かると安心感があるけど、他人と同じであることにどれほどの意味があるのだろうか。

多様性が尊重されるようになってきて、マイノリティーに関する名称も増えてきたけど、十人十色の中で名称を定義するのはなかなか難しい。(これかも!と思っても、なんかちょっと違うなと思ったりした)

蜃気楼を追いかけるようなことに多くの時間を費やしてしまったなと思う。遠回りをした結果、自分は自分でしかかなかった。多くの人がジェンダーやジェンダーロールから解放されるといいのですが。

ということで、 #性と向き合う 編でした。

おわり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?