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春待郷

 ふわりと柔らかい風が流れた。その風に誘われるように山本有三は目蓋を上げる。板張りの天井。鳥の声。ああ、懐かしいね。そう思いもう一度目蓋を閉じる。雀のチュンチュンという声、チィーチィーという目白の声、鶯のヂャッヂャという地鳴りと囀りそこなった声。鶯の初音の稽古に山本はふふふと笑みを漏らす。春だね。今度はゆっくりと目を開ける。やはり板張りの天井。見覚えはない。
 ゆっくりと右手を首元へ運び、人差し指と中指で喉元を確認するように撫でる。感覚のとおり身体はある。寝具の上に寝かせられていて、首元まで掛け布団を被っている。掌に着物の襟が触る。右手を伸ばして掛け布団から出す。敷布団の縁を過ぎるとすとんと下に落ちる。親指を縁に引っ掛けて段差の幅を掌で測る。中指の先が畳に当たった。掌を返すように持ち上げると、中指はつるりとした木地を滑って敷布団の縁にたどり着く。そのまま敷布団の下を探ると中指は布団と緩い目に編まれた畳表を触った。左手で掛け布団を剥いで右手を支えにして山本は起き上がった。白の夜衣に着替えさせられている。地紋はないが細く撚った木綿で織った羽二重が絹地のようにするりと肌の上を滑った。敷布団に座ったままで山本は周りを見回した。
 左の障子窓には木の影が映る。障子窓近くに床を取っているせいで、山本の腰から下は暖かい日差しを浴びている。枕元の衣装盆には紺地の紬の袷と黄金鼠の帯、襦袢と腰紐の一揃いが入っている。畳敷きの部屋を仕切るように衝立が回され、衝立の向こうの障子は開け放たれて廊下が見えた。ざぁっと木々がざわめき、細く開けらた障子窓から風が吹きこんだ。梅の香りがする。ここは何処だろう、と初めて山本は思った。
「お目覚めでしょうか」
 廊下から声が掛かる。少年から青年に向かうような年頃の男の声が山本の様子を伺った。山本が答えずにいると、失礼します、と一声あって白衣に紺袴の十四、五歳ぐらいの少年が入ってきた。衝立をずらすと、すとんと正座し深々と頭を下げた。
「おはようございます。山本先生」
 声のわりに年若な総髪の美少年がいた。見知った誰かのような口振りで山本に話しかける。こちらへの敵意はないようだ。
「ここはどこだい。夢の中かね」
 山本は少年に尋ねた。記憶では彼女-特務司書が姿を変えた女-と同衾した。あの状態だと彼女は交接まぐわいをねだってくる。山本もそのつもりで特務司書の自宅に送った。言葉では拒んだが、瞳も匂いも身体ごと全てが山本を欲していた。それに答えたはず。後朝の名残が腰にある。
「夢の中、ですか」
 握った右手を顎にあて、俯て少年は暫く考え込んだ。その仕種が幼く見えて山本は笑みを浮かべた。つっと顔を上げ少年は山本を見つめて言った。
「先生にとっては夢の中かもしれません」
 にっこり笑って続ける。朝顔が花開く、そんな形容が似合いそうだった。
「細かいことは分かりませんが、同じようなものかもしれません。それより風呂の用意をしています」
 お使いください、といって少年は山本の手を取り立たせると浴室に導く。もてなそうというのだろうか。あまりにも邪気のない様子に導かれるように山本は少年の後を歩く。
 廊下に出ると小さな庭があり飛び石が並ぶ。飛び石は生け垣の切れ目から向こうの建物に続いている。あちらは母屋らしい。こちらへ、と案内する少年に続いて角を曲がると行きどまりの左側に戸口が見えた。廊下だと思った板敷は縁側だったらしい。なにも考えずに戸口をくぐった。ごゆっくり、と言い残した少年が引き戸を閉じる。あ、と振り返る山本がちらと男の姿を捉えた。ゆっくと鏡の中のその男に対面する。
 金色の髪、紫水晶アメジストの瞳、浅黒い肌……。今では見慣れた記憶にない姿がそこにあった。着せられている夜衣は前で帯が結んである。ふっと軽く息を吐いて山本は覚悟を決める。もてなそうというのなら乗ってやろうじゃないか。しゅるしゅると結び目を解いて夜衣を開ける。肌の上を滑るに任せて足元に脱ぎ捨てる。山本は鏡の中の山本を見つめた。侵蝕者討伐で斧を振う腕。男らしさを示す肩幅と胸の筋肉。恰幅とは縁遠い腹。それらを支える腿や脹脛は普段の着物姿では見せることもない。すらりとした姿態の美しい男がいる、と思った。自惚れではなく。これが読み手のイメージであるならば感謝しかないね。足元からもう一度鏡の中の自分の姿を追うと右肩の歯型を見つけた。その下の鎖骨の傍の鬱血痕ともども、山本に彼女との媾合まぐあいを思い出させる。滾りに滾った情欲を解き放つ彼女に見合う獣欲で応えた。ゆるゆると己の牡が立ち上がるのを感じてふんと鼻から息を抜き、足元の夜衣を拾おうと屈んだ。はずみで山本の腕が己の牡に掠る。頬の火照りを見る者はないはずだが、乱れ籠に夜衣を放り込むとそそくさと浴槽に身を沈めた。

※※※ ※※※ ※※※

 湯から上がると乱れ籠の替わりに枕元の衣装盆が用意されていた。中の着物に袖を通し部屋の戻ると朝餉の用意がしてあった。少年に促されるまま朝餉の膳に座ると、彼が給仕をしてくれた。
「この世界は彼のためにの方々が作り出した世界で、僕たちはの方々に救われてここにいるんです」
 朝餉の後の食休めのお茶を淹れ乍ら、シリエと名乗る少年はこの世界の事を話し始めた。
の方々が作り出した世界、かい」
「魂を持たない彼のための、ええと、……先生方が持つ有魂書のような世界です」
 有魂書、と山本が呟くと両の掌がほんのりと暖かくなった。胸の前で掌を広げると小さな光の粒が集まってきた。
「大丈夫です。この世界は侵蝕されることはありません。武器を具現化する必要はありませんよ」
 シリエはそう言うと、山本の掌の上で小さく印を結んだ。小さな紋様が浮かび上がり山本の掌を包みこむと、光の粒は掌に吸い込まれるように消えていった。
「シリエ、アンタは術者アルケミストかい」
 シリエは黙って頷いた。
「ワタシがなぜここにいるか、アンタその理由を知ってるのかい」
 彼は、申し訳なさげに首を振った。
「いいえ。僕たちではなくの方々ならご存じかと」
の方々とか、彼とか。一体誰の事だい」
 山本ははぐらかされているように思い語気を荒げた。
「すみません、彼にもの方々にも名前がないのです。ただ為すべきことを成し遂げるためのみに存在する方々。僕たち術者アルケミストは彼との方々をお輔けするのが役目」
「…… 」
 山本は黙って考え込んだ。ただ為すべきことを成し遂げる、どこかで聞いた言葉だった。シリエがますます申し訳なさそうに肩をすぼめた。
「ごめんなさい。僕はそれらを語る言葉を覚えていないのです」
「覚えていない……」
「失くしてしまったのです。ここに来るきっかけとなった出来事で。ここに来たときは名前も忘れていましたから」
 の方々のお一方に名を呼ばれて思い出せたのだ、と彼はつづけた。ケキョ、と鶯が囀った。
「ねえ、シリエ。そのの方々に会うことは出来ないかい」
 シリエが目を見開いた。
「アンタの話からすると、そのの方々が全部を知ってそうだ。ワタシが戻れるかも含めてね。の方々に直接聞いた方が早いんじゃないかい」
 シリエが見覚えのあるポーズで考え込んだ。今度は眉間に軽く皺を寄せて。それから、少し失礼しますね、といって座敷を出て行った。

事源>へつづく

 


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