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好添

 特務司書の輔筆は菊池寛を見送ると廊下側の扉から司書室に入った。更夜と言ってもいい時間帯だが、宵っ張りが多い文豪達はまだまだ眠る様子がないようで、1階の食堂か談話室の賑わいが聞こえてくる。このところ皆の話題になっていた潜書の件も-特務司書への負担は大きかったようだが-解決した。館長への仮報告書も提出済みで後は片付けと戸締りだけ済ませばよい。
 司書室の灯りを付けると、窓ガラスに自身の影が映った。制服のスカートのポケットから布がはみ出している。さっき司書室の鍵を探った時にポケットの裏地を引っ張ってしまったかしら。目で確認すると、芥川龍之介に渡した指環を包んでいた布だった。
 これは補修室の備品、返さなくては……。
 執務机の前を横切って、入ってきたのとは反対の扉に向かう。久米正雄が本人と本の両方の補修を受けているが、それ以外には誰もいないだろうと思い何も考えず扉を開けたので、補修机に向かって座る人影に小さく悲鳴を上げた。
 振り向いたのは帝國図書館研究棟の筆頭術者アルケミストだった。
「こ、こんばんは。筆頭」
「こんばんは、輔筆。特務司書の指示ですね。お疲れ様です」
 壮年期を少し過ぎた筆頭術者アルケミストは柔らかく答えた。そして少しのため息。ここに特務司書がいたことは当の昔に筆頭術者アルケミストにバレているようだった。
「はい。ここで補修をされて……」
「おひとりで、ですか」
「いえ。山本先生が付き添われて」
 はぁ、と筆頭術者アルケミストはまたため息をついた。そして沈黙。
暫くして、筆頭術者アルケミストは彼女を手招いて隣の椅子に座らせた。
「では、ご覧になりましたね。今の特務司書の姿を」
「……はい」
「気味が悪い、などとは思われませんでしたか」
 気味が悪い、といわれて彼女は当惑した。驚きはしたが、いつもと同じ丁寧で穏やかな……。
 それを告げると、筆頭術者アルケミストはそうですか、では、と話し始めた。

※※※ ※※※ ※※※

 研究棟の司書の事務方を募集している、という告知が帝國図書館本館の司書達に流れたのは、学生たちの夏休みが明ける頃だった。本館の司書達、特に独身の女性司書達は色めき立った。研究棟の職員は司書も含めて美形揃いであることは、本館の司書や事務方職員までも周知の事実であった。髪色が奇抜(ピンクや紫)であったり、瞳が光の具合で人にあらざる色(赤や緑)に見えたり、大仰な物言いであったり、ピント外れな振る舞いであっても、美しくスタイルが良いことが全てを覆い隠す。色の白いは七難隠すとはこのことだった。
 日頃研究棟の職員の噂話を交換し、あわよくばお近づきになどと考えている司書や職員達はこぞって応募した。そしてこぞって辞退した。
なぜなら……、
  一、研究棟内の居住区画で生活すること。
    図書館敷地外からの通勤は一切認めない。
  一、研究棟内で見聞きしたことは一切口外しない事。
    本館職員にも口外してはならない。
  一、採用された場合、これまでの交友関係の一切を禁じる。
    家族関係もここに含める。
 要するに研究棟に閉じ込められて外部には出られないのだ。お近づきになっても見せびらかすことは出来ない、親にさえ。応募し辞退した者同士がひそひそと話しているのを館長補佐でもある主任司書がさりげなく牽制した。今になって考えると、文豪達が本館のレファレンスサービスを担当する際に浮足立つような職員や司書を確認していたのかもしれない。何人かは輔筆が研究棟勤務になるまでに辞めていった。
 輔筆には主任司書から直接異動を打診された。
 彼女の状況を考慮されて、だと思った。

 状況というのは、彼女に対する政府援助が終了してしまう事だった。
 彼女に家族はいない。三歳の頃に災害(台風豪雨だと後で知った)に遭い彼女以外の家族は全員亡くなったしまった。親類縁者にも彼女の引き取り手がなく、孤児になった彼女に政府はそれなりに援助を与え、学業成績が良かったのでその分が上乗せされ、常に成績上位を維持し、将来を期待される分の援助も上乗せされたが、期待され希望した道に進むことは出来なかった。親友(と思っていた人物)の嫉妬心によって、目の前にあった研究職ポジションとこれまでの研究成果を奪われた。合法的に。
 大学職員の口利きでなんとか帝國図書館の事務方に勤めを得ることは出来たが、事務方としての俸給と政府援助でなんとか一人分の生活を維持しているのがその時の彼女の状況だった。司書資格を持たない彼女には図書館の閉架に入ることが出来ず、図書館の蔵書で独力で研究を続けようと考えていた彼女の望みも潰えていた。励まし合う友人も今は居ない。彼女の毎日はただ与えられた仕事をこなし生活を維持するだけの繰り返しだった。
 なので勤務するにあたっての条件も、彼女には断る理由にならなかった。
 では、11月からと言われた。

 そこから約8カ月……。驚くことばかりだった。が……。

※※※ ※※※ ※※※

 呆然とする輔筆を研究棟3階の彼女に私室に送り届けると筆頭術者アルケミストは補修室に戻った。久米の補修の状況を見ながら、話をしていた時の輔筆の反応を思い返した。
 輔筆には話せることは全て話した。話の途中では怯えはなかった。しかし一人になって考え直すと、研究棟全体に恐怖を感じることはないか。ある意味、彼女ひとりが人間なのだから。もしも彼女が……。
 筆頭術者アルケミストの思考を阻むように、補修室の呼び出しベルが鳴った。久米が眠っていることを確認すると筆頭術者アルケミストは補修室のスライド扉を開錠した。一人分の隙間に滑り込んできたのは本館の館長補佐である主任司書だった。筆頭術者アルケミストは輔筆が座っていた椅子を指さして迎え入れ、尋ねた。
「こんな時間に、どうしたんです」
「館長から大方は聞いたが気になってね」
 壮年期に入る男盛りの笑顔で主任司書は答えた。
「貴方の手は煩わしませんよ、従兄にいさん」
 グラスに冷茶を注ぎ、筆頭術者アルケミストは主任司書の前に置いた。空の補修机の上に水滴を付けたグラスが二つ並ぶ。
「どうにかなりました。特務司書あの子のおかげで……」
「全くだね。本館は急な館長不在でてんてこまいだったけど……」
 筆頭術者アルケミストが小さく頭を下げたが、主任司書はそれを制して続けた。
「これもあの子特務司書の仕事だろう」
 ええ、とだけ答えると筆頭術者アルケミストはグラスに口を付けた。誘われるように主任司書もグラスを口元に近づけた。ふうと横になっている久米が大きく息をつく。久米は深く眠っている。それを見てから筆頭術者アルケミストは主任司書に言った。
「彼女に……、輔筆にやっと研究棟のことを伝えることができました。あの子特務司書のことも何もかも……」
 筆頭術者アルケミストは主任司書の視線を受け止め、言葉少なに続ける。
「もし……。彼女が……」
 主任司書は柔らかく笑って答えた。
「わかっている。俺が何とかする。心配するな」
 それだけ言うと、主任司書は補修室を出た。

※※※ ※※※ ※※※

 父親とはこんなイメージだろうか、と輔筆は筆頭術者アルケミストを見るたびに思う。特務司書に対する筆頭術者アルケミストの言動がどうにも上司と部下という感じがしない。彼女には幼子を導く父親に見えてしまう。丁寧な口調が、穏やかな動作が。
 筆頭術者アルケミストだけではない。研究棟の術者アルケミスト誰一人として、特務司書の意に染まぬことをしない。年下の-末っ子の-希望の叶えることを一心に動いている。丁寧な口調が、穏やかな動作が。
 研究棟では部外者と扱われてもよい彼女も同様にされている。
 
 筆頭術者アルケミストに私室まで送り届けられ、何も考えず風呂を使って今。眠気を逃がさないように梅シロップ-仲良くなった3階の術者アルケミストに作り方を教えてもらった-を湯冷ましで割ったもので喉を潤しているが、眠気はちっともやってこない。
 聞かされた話の内容に彼女の一部はついていけずに立ち止まったままだ。ただ、異動してから約8カ月の間、不思議に思ったり考えていたことにも、聞かされたことは当てはまった。
「恐ろしいとか、気味が悪いとか、ここにいるのは嫌だとか、そういうことを感じたら遠慮なく言って下さい。貴方の希望が通るようにします」
 話の最後で筆頭術者アルケミストはこう言ってくれた。いつものように、いつもと変わらず丁寧な口調で、穏やかな動作で。

 彼女が研究棟に異動になる旨が周知されて以降、本館の職員や司書が物陰に彼女を呼び出して囁いた。
「研究棟にはいかない方がいい」
「研究棟は危険だ」
「勤務条件がおかしい、何かあるに違いない」
「近づかない方がいい」
恐らく勤務条件を聞いた者達からの研究棟についての噂だろう。中には彼女が帝國図書館に勤務し始めてから一度も会話したことない者達もいた。希望の道を閉ざされて以降、人間関係には慎重になりすぎている彼女には、彼等の忠告は滑稽に映った。
 無論、彼女にも不安になり危惧はした。が……
 勤務初日、研究棟内の各施設を案内されてから筆頭術者アルケミストは司書室で彼女に再度勤務条件を提示した。特務司書は「センショ」で席を外すと言われた。特務司書は仕事なのだなと彼女は素直に思った。
 主任司書から言われた条件には「最低限」という冠つきだったので、それよりも条件は多くなるとは考えていた。筆頭術者アルケミストは丁寧な口調で-今と変わらない-彼女に条件を提示し、最後にこう言った。
「司書室の事務方というだけなのに、おかしな条件だと思われるでしょう。俸給の額もそぐわないように思われるかもしれません。ですので、今一度考えてから異動を受け入れていただいても構いません。そのための時間は充分に差し上げます。契約書に署名いただけない場合でも、貴方の希望が通るようにします」
 丁寧な口調で、穏やかな動作で。

 8カ月たって聞かされたことに驚いているのは確かだ。が、筆頭術者アルケミストが心配するのとは逆の方向で驚いている。多分。
 特務司書に対する筆頭術者アルケミストを始めとする術者アルケミスト達の言動を、そういうことかと納得してしまった。何よりもある「先生方」の言動をそういうことかと納得してしまった。多分。
 椅子から立ち上がり部屋の一角を占める本棚に向かう。希望した道をまだ諦めきれない証左のような蔵書の中の一冊、この本のある頁は暗誦できるほどに読み込んだ。背表紙を指先で上から下へと撫で降ろし著者名で止める。これを書いたのは、毎朝食堂で会う先生……。暗誦するほどに先生の言葉に縋ってしまったことがあるなんて感謝してみようか……。ここまで考えて思わず吹き出してしまう。そんなことをすれば先生は怯えていつも一緒の先生の背に隠れてしまうだろう。多分。
 本棚から離れ梅シロップのグラスを置いたテーブルに戻る。グラスの水滴を指先で拭いながら、勤務二日目の出勤直後に特務司書から言われたことを思い出した。
――私は人でなしで感情がありません。嬉しいということがあることは知っていても嬉しいということがどういうことか分からないのです。そのために先生方と衝突しがちです。それでは私の責務が果たせないので、どうか事務方だけでなくこちらでも私を輔けていただけませんか。
 丁寧に穏やかに言われたことは奇妙な業務内容だと思ったけれど、はい、とだけ答えた。その意味が今になって分かってしまった……。

 梅シロップを飲み干してグラスを洗う。
 やっぱり彼女の一部は立ち止まったままだ。不安も湧き上がってきた。
 それでも、と彼女は思う。動き出すためにもう一度特務司書と先生方と術者アルケミスト達に会おう。会って立ち止まった自分の何かが動き出してから考えてみよう。
 そう思うと輔筆は床についた。

<了>

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