ともだち


『戸田真琴Last Show -Sweet Sweet Beginning-』

1月31日、大好きな人の引退の日。
それはそれは美しいライブだった。ずっと、愛とは何かを伝えて続けてくれていた。6年半ずっと。

私は中学生までずっと胎児期で、高校生になってやっと“私”が生まれたと本気で思っている。高校1年生の冬にまこりんと出会った。だから、考え方とか言葉とか生き方とか、自我の8割くらいまこりんの影響を受けていて、人生の大半、まこりんを追いかけていた人生だったなと思う。
高校生で生まれて、まこりんの影響を受けながらも、自分なりに自分の哲学をこねて、足掻いていきていた。すべてまこりんの真似事かもしれないけれど、自分は自分を確立していったつもり。そうやって足掻いている瞬間の景色とか言葉が一番美しいものと信じている。
高校の3年間でなんとか確立させた哲学。一度、確立させたものを考え続けること、視野が固定されてしまっていて全然進まないし、信じてきたものと矛盾が生じることが怖い。あとは、ただ単純に面倒で、そこで一旦終わりにした。高校を卒業してから、全然考えなくなった。作品をつくる部活に入っていたのも大きい。毎日自分と向き合わなきゃいけなかったから。
大学生になってから、日々の最低限のタスクをこなしていくこと、ただただ好きなもの、好きなコンテンツを受け取り続けていることだけで時間が経っていた。生きられていた。だんだん感性も鈍くなっていった。そんなの嫌だと思いながらもずっと怠惰に生きていた。コロナ渦になって、リモート授業中にずっとWordに言葉を吐いていた大学2年生は少しマシだった。でも、高校生の時に吐いた言葉とか感覚の方がずっとずっと美しかった。日々の忙しさに言い訳をしてまた怠惰に、鈍くなっていった。好きなアーティストの言葉を借りて言うなら、生きているんじゃなくて、死んでないだけだった。

まこりんを追いかけてきた人生だった。
昨日のライブ、バックにずっと月が映っていて、まこりんは愛を、美しいを、ともだちの本当の意味を教えにきた天使で、月に帰ってしまうんだって思ってみていた。

怠惰で生きていること、まこりんにはとっくのとうにばれていて、優しく、でも厳しく怒られたみたいだった。痛かった。眩しかった。恥ずかしくて情けなかった。でも全部心地よかった。
前からいなくなるから、一人でも生きられるようになってねって言われている気がした。引退を発表してから1年間、私が一人で生きられるようになる準備期間だったんだと勝手に思った。
今、写真集とか言葉とか映画とかまこにゃんのぬいぐるみとか、まこりんが一人でも頑張れるように残していってくれたもの両手に抱えながら一人で立っている自分を想像をする。前じゃなくて隣に温度を感じる。
これが ともだち なんだと思った。

美しいとか尊いとか愛とか、自分の言葉の浅さ、制限を知る。言葉がツールだったことを知る。新しいものを見つけることが豊かだと思っていたけれど、既に当たり前にあるものでも知らない深さがあること、終わりがないことを知る。

やっぱり、まこりんはすごいなあ。

胸を張ってあなたに会えるように、ちゃんと生きようと思えたライブでした。6年半、お疲れさまでした。お互い、元気で。


(2023.2.1)




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