ミーハーの美学(打土井大)

僕はよくミーハーと自称するのだけど、それには二つの理由がある。ひとつはミーハーだから。もうひとつはミーハーでありたいと思うから。

ミーハー。あまり良い印象の言葉ではないのは、やはり誰もが大衆への反抗心を内に秘めているからか。あるいは何かに流されて自分を失ってしまうことに怯えているからなのか。

集団創作をしていると、「おお、いま流されているな」と感じることもしばしば。流されるのは気持ちがいい。それは責任から解放される、悪い意味での気持ちよさかもしれない。そして、やっぱり後で不安になる。

何かを断言できる人が羨ましい。僕はといえばいつもどっちつかずで、よくツイ消しだってする。価値観もぐるぐる変わるし、その分自己嫌悪に陥ることも多い。大谷の家晒しちゃダメだよと思った2秒後には、もっとやれとか思ってる。

一方で何かを断言できる人は可哀想だとも思う。その人たちはずっと同じ景色を見ていなければならないわけだし。そうでなくとも、ずっと同じ景色を見ているかのように、自分を見せ続けなければいけないだろうし。だけどそれはそれで側からみてて気持ち良さそうでもある。

ある人から見た執着は、またある人から見れば信念で。どちらが良いとか、悪いとかではない、と思うのもどっちつかずだからかもしれないけれど。でもやっぱり僕は転々とし続けていたい。その方が僕は楽しいと思うから。

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