劇を立ち上げる手触り、私の(平澤あお)

すこし前のミーティングの際、主宰の打土井君が随分と疲れた様子だった。心なしか目は充血しているように見えたし、きっと遅くまで脚本の執筆をしていたのだろう。「栄養を取りたい」と言って、ドリンクバーの野菜ジュースを飲んだりもしていた。ランチのピークタイムが過ぎた昼下がりのファミリーレストランでのそんな様子を見て、演劇をするには随分とエネルギーが必要だし、一般的な生活とは少し異なる時間の流れが伴うことを、ふと思い出した。やけに冷房が効いた四人掛けのテーブル席にて、進行されゆくミーティングの議題に意識をやりつつも、学生の頃に演劇に携わった時のことが次々と思い出されてやまなかった。衣装さんの家に泊まり込んで夜通し縫いものをして、借りた寝袋で腰と目の疲労感とともに床についた朝方。鮫をつくる素材(←なんだそれ)を探しに行って、ウェットな質感のゴム資材を見つけて「これだ!」となった閉店間際のホームセンター。スモークが部屋から漏れ出て、学生会館の管理者から注意を受けた時の気まずさetc.。不思議なことに、蘇ってくるのは演劇そのものというよりも、本番に至る遥か前の些細な営みばかりだった。長らく忘れていたこれらが、劇を立ち上げることの手触りなのかもしれない。あるいは、大分前に芥川賞を取った山下澄人『しんせかい』でも、記憶をたぐり寄せるように描かれた演劇私塾「富良野塾」での経験は、演劇そのものよりも農作業や塾内の人間関係など、それ以外のことがほとんどだったし、そもそも「何かを思い出す」とはそういうことなのかもしれない。
演劇という営みには、本当に無数の営みが折り重なっている。けれども、そのほとんどは表に出ないし、さしたる意図や狙いもなしに出さない方がいい気もする。そのことがなんだか愛おしく思えた。

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