摩訶不思議、戯曲というテクスト(平澤あお)

先月の半ば頃、直近5年間くらいの岸田國士戯曲賞の受賞作をパラパラと読んですごした休日があった。これといった理由はなくて、単に「戯曲を読む」ということを殆どしたことが無かったなと思い、やってみた次第だった。ちなみに、すべて図書館で取り寄せたので無料。使える公共サービスはどんどん使うのが吉である。読んだ戯曲の中には上演を見たものも幾つかあったが、どれも上演とは少し違った印象を受けたし、なんなら上演より面白かったり/つまらなかったりもした。
戯曲というのは不思議なテクストだと思う。戯曲は、基本的には上演を前提に書かれるわけで、その意味では完成形ではない。そこから立ち上がる劇こそが完成形となるはずだ。その一方で、ひとつの独立した作品としても読むこともできる。とりわけ、書籍として流通している一部の戯曲は、独立した作品としての趣を強く感じさせる。一口に「戯曲を読む」と言っても、読み手の態度と関わり方次第でテクストの性格があまりにも変わってしまう。それに、無数に催されてる演劇公演で使われる戯曲のうち殆どは関係者以外に読まれることはないのだと思う。しかし、読まれることはなくとも、その言葉は一定数の人々には確かに届いている。なんとも不思議なテクストである。
先日の稽古にて、打土井が「台本は種みたいなものだから」と言っていた。私はそれを横で聞いていて、腑に落ちるものがあった。種の時点でどんな種類の草木が生えるかは決まっているが、それがどう育つかは作り手の腕次第というわけだ。下手すれば発芽すらしないかもしれないし、育て方によって風貌は大きく異なってくる。向かう方向はある程度規定されつつも、そこには無限の可能性が秘められているのだと思う。

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