背中の白文字の英文を
走った。久しぶりに走った。
そもそも、走るのは苦手である。基本的に運動はすべて苦手だ。
反射神経も毛頭ない。備わっているのか疑問なレベルである。
さらに、注意力散漫、頭の中は常に多数のウインドウが開きっぱなしで、えっと今考えてるのってこれだっけ?あ、別のタブ?別のページだっけ?あれ閉じちゃった?という状態のため、いきなり行動すると大変なことになる。
しゃがんで下の引き出しをごそごそした挙句、直前に上の棚の扉を開けたままにしているのを忘れて思いっきり立ち上がり、頭をぶつける。ああっと叫んでよろめき、今度は開けっぱなしの下の引き出しに足の指を打ちつける。痛すぎてもう迂闊に動けないし、あまりの愚かさに声も出ない。そんなことがよくある。
おかげで、これいつからあるんだ?というあざや切り傷が割と日常的にあって、もうあんまり気にならない。世の中の人がみんなそうじゃないらしいということは、なんとなく分かってはいる。まあでも仕方ない。
それは置いておいて、何故走ったかだ。
乗り換えの駅、人混みを抜けて階段を下り、少し人がまばらになった地点で、それは突然目の前に現れた。
いつも注意力散漫なので、階段ではスマホや本から視線を外すのが癖になっている(さすがに階段から落ちるのは避けたい)。
しゃらん、と音がしてそちらに目をやると、小さい人形が落ちていた。
見たことのないキャラクター。黒っぽくて、ちょっと骸骨みたいな。
顔を上げると、比較的早歩きでその場を離れていく若い男性の後ろ姿が目に留まった。
黒いシャツに肩から提げた黒いバッグ。落としたのは多分あの人だろう。
人形のサイズから察するに、バッグかスマホにつけていたのかもしれない。
ちょうど電車が来たところで、ホームの方から、私の後ろの階段を目指して、人がどんどん押し寄せてくるのが見える。
一瞬悩んだ。どうしよう、拾って渡すべきか。今なら急げば間に合う。
別に放っておいてもいいけどな、このくらい。財布やスマホのような貴重品でもないし。ただのマスコットだし。本当にあの人のものかわからないし。
でも、思い直した。バッグやスマホにつけるくらいなら、思い入れのある品あるいはキャラクターだろう。何か、入手が困難なグッズかもしれない。
ちょっとだけ感染を気にして、人形の細い腕の先をつまんで拾い上げる。
そして走った。
押し寄せてくる人をうまくよけきれず、あああごめんなさいなどと口走りながら、遠くの男性の背中を追う。比較的背が高くて、人混みの中でも何とか追える。読めないけれど黒いシャツの背中の上の方に白のロゴがあったので、それを頼りに走った。
男性はすぐに電車に乗る気はないらしく、ホームの中央を悠々と、でも早足で進む。何とか追いついて、横からちょっと前に回って、人形を差し出しながら「これ落としませんでしたか!」と話しかけた。疑問形で口にしようとしたのに、久々の全力疾走に息が切れて、どう考えても「!」の勢いになってしまった。いきなり話しかけたにしては、だいぶ不審者のふるまいである。
男性が何と言ったかはちゃんと覚えていないが、振り返って人形を見た瞬間に、マスクで顔の大半が隠れているにも関わらず、はっきりわかるくらい笑顔になった。
それは、黒いシャツに骸骨みたいなマスコットという、ややパンクな格好とはちょっと合わない、なんとも爽やかな表情だった。
人形を受け取って立ち去っていく男性の後ろ姿を見ながら一瞬立ち止まり、なんだか印象的だったなと思い返してしまうくらい。
息を切らしたまま座席に座る。マスクを軽く下げて深く息を吸う。
アナウンスが流れ、扉が閉まり、緩々と電車が動き出す。地下鉄ゆえ、トンネルの中、窓から見えるのはどこまでも続く人工的な壁である。
呼吸が落ち着くまでに少し時間を要した。
背もたれに身を預け、さっきの男性の表情を思い出す。
誰かにとって大事なもののために咄嗟に行動できてよかった。
大げさだけれどそう思った。
何かが、ある人にとって大事なものかどうかは、
他人が判断することじゃない。
自分のこの判断も、都合のいい思い込みなのかもしれないけど。
自己満足だとしても、体が自由に動く限りは、
こういう時に走り出せる自分でいたいと。
決して走る速度は速くなくても、心の柔軟性は持ち合わせていたいなと。
そんなことを思ったのだった。
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