『彼女は頭が悪いから』への反応をめぐる考察
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『彼女は頭が悪いから』への反応をめぐる考察

12月12日のブックトークについて、ツイッターで様々な言説が飛び交っています。私も参加した身として、ツイッター上の議論が様々な誤解と分断を含んでいることにもやもやし、整理したいと思い、この記事を書きました。

このレポートはとてもよくまとまっていて素晴らしいのですが、私に見えたものとはずれているところもありました。以下は、そのずれがどうして生じたのかについての考察でもあります。

私は、この小説に対する反応を、この図のように分類して理解しています。

ブックトークの登壇者は大まかに言って①②の人たちです。その中で、①の中でも超左上に位置する瀬地山先生、①に位置するその他の東大教員たち、②に位置する姫野先生と担当編集者、①と②の真ん中に位置する小島慶子さん、というふうに、私は認識しました。
一方、聴衆の側は、この表のすべてにわたっていたでしょう。ただ、このイベントのテーマとしては
・性の尊厳、セクシュアル・コンセントとは?(性暴力事件の再発防止のために何が必要か)
・「学歴社会」と性差別について
・「東大」というブランドとの付き合い方、向き合い方
ということなので、左上~右上の意見を交わす会だと思って来た人が多かったと思います。
その場で、超左上の瀬地山先生がバリバリに攻めていたわけです。そしてそんな展開を予想だにしなかった②の人には、瀬地山先生が④の人に見えたようです。イベントの後のツイッターには、「マンスプレイニングだ」「権威主義的だ」等の批判が多く書き込まれました。
では、なぜ瀬地山先生が④のように見えたのか。そこには、このイベントでも触れられていた重要なテーマですが、「東大という記号」が強く関係していると思います。
私たちは「東大」に特別なまなざしを向けています。それは一面には「とても頭が良い人たちであるはず、あってほしい」という期待や羨望であり、もう一面には「権威なんだからちょっとくらい消費しても許される」という思いから、コンテンツとして消費するまなざしです。
「東大生への批判を含んだ小説」を「男性東大教授」が批判している、という構図をこのようなフィルターをかけて目撃すれば、「ああやっぱり東大教授は権威主義的なんだ」と理解するのが一番簡単です。そうなった瞬間、彼の批判はすべて「東大の権威を守るため」のものとして認識されてしまうのです。

私は、その捉え方は間違っていると思います。
そもそも瀬地山先生は、東大生のジェンダー意識について、強く強く危機感を持っている方です。
http://www.todainavi.jp/archive/13952/
https://kimino.ct.u-tokyo.ac.jp/lab-visit/56
このような記事を読めば、彼が決して「東大生のジェンダー意識に問題などない」と主張するような権威主義者ではないことは理解できるでしょう。
私は、彼の怒りは「この小説は、東大生の性差別意識という実在する問題を単純化しすぎている」という怒りだと理解しました。「エリートだから挫折を知らない」「東大に入るのに必要でない余計なことは気にしない癖がついている」「つるつるぴかぴかの頭を持っている」という小説の描写を「現実と違う」と批判したのは、本当に「現実と違う」からです。そして、「現実と違う」ことは、ここでは重要なことだからです。これは小説でフィクションですが、「東大生」が重要なテーマになった小説です。本筋と関係のない脇役の東大生の描写を「現実と違う」と批判しているような場合なら、揚げ足取りだと言われても無理のないことです。しかしこの小説は、現実にあった「東大生が起こした事件」を小説として語りなおすことで、読んだ人に現実にある性差別や性暴力や学歴至上主義の問題を浮き彫りにし、考えさせることを狙った作品であるはずです。そのような作品についての「東大の描かれ方がおかしい」という批判を「小説なんだから現実と違ってもいいんだ」と切り捨てることはできないのではないでしょうか。「三鷹寮が広い」「理一の入試がほかの科類と異なる」というようなものは、たしかに些細なことでしょう。しかし、瀬地山先生が一番こだわった「どうして東大生はあの事件を起こしたのか」については、作品のテーマの根幹の部分です。小説の力は、架空の世界を描いているにも関わらず、読む人の現実への認識を変えるような「真実味」を提示してみせることであるはずです。枝葉末節に虚実が入り混じっていることは問題がなくとも、一番大事なテーマについては「小説なんだから現実と違っていてもいい」で済ませることはできないはずです。文学には「批評」というジャンルがあることを忘れ、「小説の読み方がわかってないからディテールの批判なんかをするんだ」などと言う意見が教員の中から出たこと、それに拍手が起きたことには、とても驚きました。

※一方で、瀬地山先生の不機嫌そうな態度も、「感情的に怒っているんだ」「東大が攻撃されたから嫌なんだ」と思われる原因になっていると、私でさえ思いました。いくら主張が妥当なものであっても、あの場であの態度であったら「マンスプレイニング」と受け取られてしまうことは、理解できます。

さて、他の象限にも目を向けましょう。④象限に当てはまる人は、結構多いと思います。「東大は性差別的空気など存在しない」「非モテと性犯罪者を一緒にしないでほしい」というような認識を持っている東大生です。
私は「東大生は特別に性差別的だ」とは思っていません。①の東大生より④の東大生が多いと思いますが、それは社会全体の割合と同じくらいだと思っています。ただ、やはり「自分たちは頭がいい」という思いを持っている分、社会全体で見るのとは少し違った雰囲気を見せています。「フェミは理解できない」「自分達は頭がいい」が合体して、「フェミは頭が悪い」という認識を持っている人が多いのです。実際、今回の批判に対し「フェミは頭が悪い」と言っている東大生も、ツイッターで観測できます。
彼らは自分たちのことを「フェミニストではないが差別主義者でもない」と認識しています。そのため、「あの事件の加害者はもちろん悪い。でもほとんどの東大生はあんなやつじゃない」と思っています。よくあることですが自分の中の差別意識に無自覚です。その一方で、「東大生」というコンテンツとして扱われることの息苦しさを強く感じています。それを表明すれば「自虐風自慢」と受け取られ、さらに攻撃されることにもフラストレーションを感じています。そのため、『彼女は頭が悪いから』を読んで「現実と違う」と感じれば「東大生にこんな悪いイメージをつけようとするのは不当だ」と怒りを感じるのだと思います。

※「あの事件の加害者はもちろん悪い。でもほとんどの東大生はあんなやつじゃない」と思うか
「あの事件の加害者はもちろん悪い。そして多くの東大生には彼らと共通するところがある」
と思うかが、①と④の境目だと思います。

※なお、「東大女子はフェミばっか(でウザい)」というのもよく聞きます。

それでは②→④はどうでしょうか。東大の外にいる人は、東大生に「頭がよくあってほしい」と思っており、「頭の良い人は性差別的でない」というイメージを持っているので、「東大生なのにこんなに性差別的なのか」とショックを受けます。それ自体は無理もないことなのですが、その結果、『彼女は頭が悪いから』を批判する人のことを「権威主義的で性差別的な東大側の人」という枠でしか認識できなくなってしまっています。「作品の出来は悪いが、東大生の性差別的意識は問題だ」という立ち位置があることが理解できない。これもやはり強力すぎる「東大という記号」のせいではないでしょうか。

そもそもあのイベントは、まとめでも林先生の発言として紹介されているように、「東大という記号」を切り崩し、「実際はどうなんだろう?」と考えようとする場でした。それなのに、やはりこの記号に囚われて、分断ばかり生じているように思えて、とても残念です。
林先生は「東大という記号は誰が作ったのか。誰が得しているのか」と問いかけています。私は、①②③④の誰もが共犯者なのだと考えています。同時に、①②③④の誰もが学歴社会に生きづらさを覚え、被害者意識を持っていると思います。「これだから東大生は」「これだから頭の悪いフェミは」と思うとき、「東大という記号」、そして学歴によって人を分断する仕組みはますます強まります。瀬地山先生が「東大という権威を攻撃されてキレてる人」に見える人も、②の批判者が「頭の悪いフェミ」に見える人も、自分が「東大という記号」に縛られ、分断を作り出す共犯者になっていることを自覚したほうがいいのでは、というのが、私の言いたいことです。

最後に、私自身の『彼女は頭が悪いから』に対しての感想を書きます。
私は表では①に当てはまります。というと「自分だけいい位置に置きやがって」と思われそうなのですが、別の表現をすると、学歴コンプレックスをこじらせたフェミニストです。
『彼女は頭が悪いから』という作品が発表されたことを知ったとき、心臓が縮みあがるような気持ちになりました。自分の中にある学歴至上の価値観や、加害者と同じようにミソジニーを持っている自分の一面を真正面から突き付けられるのではないかと恐れたのです。怖がるあまり、7月に発表されてから、12月まで手を出せずにいました。
いざ読んでみた感想は、「なんだ、期待しすぎたな」というものでした。学校名がガンガン出てくるのは新鮮でしたが、その結果伝わってくるものは「エリートは挫折知らず」「勉強ばかりやってきたから人の気持ちを考えることができない」というような、私にとってはすごく型にはまって感じられる東大生批判でした。もちろん事件の描写はショッキングですが、元の事件の報道を見た時に受けた衝撃が大きすぎたこともあり、その当時考えさせられたこと以上の新しい切り口はほとんど見つけられませんでした。
また、それ以前の問題として、文章の質が高くなくて、作品としてつまらないと感じました。ブックトークがなかったら読み通せなかったと思います。
私が読む前に「怖い」と思ったのは、期待したからです。私だけではなく、④のような東大生が読んだらショックを受けるのではないか、そんな鋭い力を持った作品なのではないかと期待しました。④の人たちは「フェミニズムを勉強したら?」と言ってもしたがらない人たちです。そういう人たちが下世話な好奇心でこの作品を読み、自分の中の差別意識に気づくようなことがあるのではないか、だとしたらめったにないチャンスなのではないか、と思いました。
しかし実際には、問題意識を共有する私にとってさえ、薄っぺらくステレオタイプに感じられる描き方でした。 私でさえそう感じるのに、当の東大生がそれを感じ取らないはずがないと思いました。姫野先生は「別に東大関係者のために書いていないから…」とおっしゃっていましたが、無理を承知で言えば、東大生に届くように書いていただきたかったのです。それは「東大生を批判するな」ということではないんです。もっと真剣に東大生の一番痛いところをとらえてほしかったという思いです。勝手ですが、筋の通らない期待ではないと思います。
「批判するより自分で書けば」と思われる方もいるでしょう。その通りだと思います。書きたいと思っていますし、瀬地山先生にも書いていただきたいなあと思っています。そうやって様々な角度から書くことで、「東大という記号」を解体し、息苦しさから逃れることができるのではないかと、思っています。

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