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高場乱(たかば おさむ)先生

(`・ω・´)シャキーン・・・【弱肉強食、強者の世界…お前たちの神祖しんそは、そんなことは言っていなかった…】(『ヴァンパイアハンターD』菊池秀行)


「キタ――(゚∀゚)――!!」・・・(´・ω・`)・・・う~む、開拓者パイオニアの言葉が、後年ねじ曲げられて伝えられる…耳が痛いね…


「いえ、宗教はどこもそうです!( ゚Д゚)」・・・(´・ω・`)・・・う~む…


「今日は何ですか?( ゚Д゚)」・・・(  ゚ω゚)ウム・・・福岡藩主はんしゅ菩提寺ぼだいじのひとつ、崇福寺そうふくじに行ってきました!


(`・ω・´)シャキーン・・・墓所ぼしょ内には、玄洋社げんようしゃの社員のお墓もあったのですが、ちょっと荒れていました!このたび、遺族のみなさまが資金を出し合って整備をおこなった模様もようです!


「おお!( ゚Д゚)」・・・(  ゚ω゚)ウム・・・・・・画像、ドーン!




おお!「人参畑にんじんばたけの先生」だ!( ゚Д゚)・・・(  ゚ω゚)ウム・・・先生のお墓を囲むように、社員のみなさまの墓石ぼせきも!


(`・ω・´)シャキーン・・・さらに!高場先生の「像」もてられていました!




「牛にお乗りですか!( ゚Д゚)」・・・(  ゚ω゚)ウム・・・馬上ばじょうではなく、牛上ぎゅうじょうの高場先生です!



「雲が!まるで龍のようだ!( ゚Д゚)」・・・(  ゚ω゚)ウム・・・【高場乱たかばおさむ先生は、天保二年(1831)博多の瓦町かわらまちに誕生。家は代々眼科医である。乱先生の父である正山先生は高場流眼科たかばりゅうがんかの九世を継承したが、元々は福岡藩医はんい一統いっとうでもある。正山先生には二女があり、長女は小田家にとついだことから次女の乱先生を高場流眼科の後継者にえた。しかし、時は封建時代ほうけんじだい。正山先生は乱先生を男子として福岡藩庁はんちょうに届け出、刀を持つことも許された。正山先生は乱先生を男子として教育。乱先生も正山先生のこたえ、医学を学び、漢籍かんせきの学問にもはげまれた。後年、正山先生の代診だいしんつとめるほど乱先生は評判の眼科医になられた。】


「へ~!評判の眼科医!( ゚Д゚)」・・・(´;ω;`)・・・父から「男子として教育」か…さぞおつらかっただろうに…


(`・ω・´)シャキーン・・・【乱先生は、福岡藩の薬草園やくそうえんである人参畑近くに学塾がくじゅくかまえ、眼科医のかたわら、有為ゆういの青年教育にも尽力じんりょくされた。この塾が人参畑塾こと興志塾こうしじゅくである。乱先生は塾生からの謝礼しゃれいどころか、まずしい人からは治療代ちりょうだいを受け取らない無欲むよくの人。博多のしゅうは乱先生を「人参畑の婆さん」と、尊敬と親しみを込めて呼んだ。乱先生の学塾には、入門を願う青年が多数押しかけた。しかも、塾生の行動に対し、一身に責任を負うという気概きがいを示され、この事実は今もって語り草である。】


「貧しい人からは治療費ちりょうひを受け取らない!( ゚Д゚)」・・・(  ゚ω゚)ウム・・・う~む、素晴らしい!そして、胆力たんりょくあり!


(`・ω・´)シャキーン・・・【塾は歴史に名をきざ著名ちょめいな志士を多数輩出はいしゅつ門弟もんていたちの活躍の場は遠くアジアにまで及び、乱先生の教育方針がどれほど壮大なものであったかがうかがいしれる。しかし明治二十四年(1891)三月三十一日、乱先生は病没びょうぼつされた。医師として自身の余命よめいを知り、静かに息を引き取られたという。弟子たちは旧藩主黒田家の墓地を分けてもらい、乱先生の墓を建てた。葬儀の会葬者かいそうしゃは五百人余り。葬列は整然として、見送りの人垣ひとがきが続いたという。】(高場先生略伝より)


「封建の世から明治まで、先生は男として!( ゚Д゚)」・・・(´・ω・`)・・・なんとも悲壮で…言葉が出てきません…(*悲惨な情況にありながら、ひるまず、りりしいこと)


(´・ω・`)・・・


(´・ω・`)・・・先生、ありがとうございました…!


あなたも勉学べんがくに励めよ!(っ・д・)三⊃)゚3゚)'∴:. ガッ・・・考慮こうりょします!





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