推しへの想いについて

えっちな西郷隆盛(気さくな挨拶)

ツナ缶です。今日は推しへの想いについて、少しだけ、40分くらい話そうかな。

小生をご存知の方は理解されてると思いますが、拗らせすぎてる気持ちの悪いオタクなんでございます。好きと言われたら間違いなく好きと答えますが、愛してるかと問われたら、この溢れる想いを愛してるなんてありふれた言葉で言い表せるものかと小一時間程苦悩いたします。我ながらなんとも面倒臭いものです。

けれども、恋してるかと聞かれたら恋はしてないとハッキリと答えます。推しに対する想いは恋ではないとみっともなく足掻いているのです。無論、推しに恋をすることは普通で、全く恥ずかしいことではないことも承知の上です。

一部の厄介なガチ恋オタクと一緒になりたくないというチンケな自尊心があることも否定はしません。ですかそれ以上に、素直に、真っ直ぐに恋と言える方がずっと憧れるし、許されるならガチ恋を名乗りたい気持ちの方が強いです。ただ、これに関しては私個人の問題というか、推し方の根底を揺るがさない為の戒めのようなもので、恋と認めるわけにはいかないのです。理由はとってもシンプルなものであります。

周りが見えなくなる。全てが欲しくなる。

それだけ。その2つが強すぎるんや。この感情を恋も定義してしまうと、何かを手に入れずにはいられなくなるのです。そうなると他のオタクを蹴落としてでも推しに見て欲しくなってしまう。迷惑だと思っていても、推しの全てが欲しくなる。返事が返ってこないことに焦りと怒りを覚え、自分を特別に扱って欲しくなってしまう。恋をしたからには、せめて何か。何かを求め続けてやがて推しの幸せを奪うことを、推しの幸せを願う誰かを傷つけることを我輩は恐れている。

手に入らないことは分かってる。いや、分かっとかなきゃいかん。いつか別れがくることを覚悟しなきゃいけない。その前にもらったものを返し続けていきたい。俺は推す上で、推しの幸せを一番に考えて、諸々を覚悟した上で、推しているつもりだ。

だけど。ガチ恋であることを認めてしまうと、それが出来なくなってしまう。僕はそんなに器用じゃない。出来る人もいるだろう。わらわには出来ない。それだけの話なのだ。

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