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言語と平和

  共感のための文章表現から得た言葉なんて、噂話と同じだから、意味だって一瞬で変わってしまう。

 それだったら、素直に花でも渡したほうが、よほど平和な気がしている。 

 言語は本来、そこに文脈が存在する以上、掻い摘ままれることを目的としていない。

 文章は、共感や好意を得るための手段ではなく、本来、文脈をもって、意思の疎通を図ることを目的とするものだ。

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 ポエムというものは、あくまでサブカルチャーであるべきだ。言い切るのは嫌いだけど、言葉で正確に相手に伝えることを初めから放棄して、共感ばかり得ようとする安易な言語表現が、言葉を扱う業界に溢れ返り、それが当たり前になり過ぎてしまったから、文脈を理解し、作者の意図を汲むべきところで、文章の中にあるたった一言を切り取り、自分好みに勝手に解釈した上、作者が言ってもいないことで勝手に怒り出すような人達が、当然のように巷で幅を利かせられる世の中になってしまったのだろう。

 心をひとつに。って言葉は、右も左も喜び得るポエムだから、意味の奪い合いになる現象は避けられない。

 だけど「みんなで心をひとつにしたい人」
「自分の心を守るので精一杯な人」
「君と僕の心だけ繋がっていれば良い人」
みたいな感じで、ある程度、言葉を紡ぎ文脈をつくっていけば、気が合わない者同士でも、分かり合えないことを理解し合うところまでは、なんとか辿り着けるはずだ。

 そしてその結果、距離を置いたり、境界線を引いたりすることで、お互いの存在を尊重できるようにもなる。そういった作業が、本来の言語の大きな目的のひとつ。

 それなのに、説明することすら放棄して「心をひとつに」という、毒にも薬にもならない、フワフワしているだけの言葉に互いが甘んじていたら、いざ現実的な問題と直面した時に、相互理解のなさゆえ、むしろ要らぬ争いばかり生んでしまうと思う。

 だから共感ばかり得ようとして、その行為が美徳であるとする今の世の中の風潮は、平和からは逆行している。つまり、平和のために必要なものは、他者との共感力ではなく、理解に基づく分別だ。なぜなら、生い立ちもアイデンティティも、好みも、幸せの価値観も、みんな違うから。

 それが理性にせよ論理にせよ、結局それらを扱うのは人間の感情であり、それが人間の愛すべき特性であるからこそ、言語は大切にされなければならない。

 表現は野暮かもしれないが、ポエムというのは、それを確かめるまでもなく、感覚を共有、共感し合える友達と交わす、いわば友情の証のようなものだ。誰かに見てもらいたいと思う以上、花を植えたり、絵を描いたりするのも同じだ。だから当然、好みも受け取り方も人それぞれだ。植物から清らかさしか感じられない人もいれば、他種や隣人から養分を奪い殺し合っている、人間以上に残酷な生命体と捉える人だっているだろう。
 だけど後者が真実だと決めてしまったら、人間の心は疲れ切ってしまうから、花はそれで良い。ポエムも同じ様に、宙に浮いた言葉のままで良い。

 だからこそ、言っちゃ悪いけど、音楽や優しい言葉とやらには、世界を変える力なんて全くない。自分と友達の胸に秘めておく以上の使い方なんかした日には、それぞれの解釈で、本来の意味も目的も超えて勝手に暴れ出して、人を殺したり急に優しくなったりするメンヘラみたいになるのが、ポエムという存在だ。

 世界をひとつにという言葉が国境を越える度に、戦争が起きて、所有権なんていらないなんていう安易なポエムが、君と僕が大切にしているものを殺し合う。

 ポエムに救われたのは、世界じゃなくて君でしかない。

著書【世界の証明】

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