スクリーンショット_2015-03-01_16.56.35

「憧れの世界」は1ヶ月に1度くらいがちょうどいい

 自分を取り巻く世界は、1割の憧れと9割の現実でできている、と最近感じる。

 忙しなく動いていたこの1ヶ月間。その鬱憤を晴らすように、一段落した週末に、本を3冊読んだ。同じ棚の前で1時間近く立ちすくみ、じっくり考えて選んだ本だ。

 私は、本を読む環境をすごく大事にしている。本を読むとは、すなわち別の世界に入り浸るということ。つまり、本を読む周りの環境も、いつもとは違った世界でなければいけない。

 ということで、私は毎月買っている雜誌・アンドプレミアムのような世界観に憧れ、めったに行かないような洒落た場所に行き、誌面に載っているような木目がくっきりと綺麗なテーブルとふかふかの椅子に座り、その店で薦めているコーヒーをすすりながら、ゆっくりと本を読む。行く場所にふさわしい格好をしなければいけないという思いから、持ち物や服装も考えて、一応こだわる。他人からおしゃれに見られたいという気持ちも無くはないが、ほとんどが完全な自己満足である。

 そんな場所で本を読んでいると、現実にどっぷり浸かっていたときの疲れや汚れがみるみる剥がれ落ちていき、いつの間にか、どこか別の場所に自分は存在している。小説を読むことが多いのだが、物語に登場する人物を通じて、著者がどんなことを伝えようとしているのかということを、自分なりに解釈しながら読むのがいい。そこに使われている言葉の繊細さに、時に感動の声を上げてしまうほどにのめり込む。自分が別の場所へワープしていたことに気づくのは、本を閉じた瞬間だ。さあ家に帰ろうと思った時点で、それまでの心地よい場所は一瞬で消え失せ、数時間前までの世界と今が結びつく。

 まるで雜誌の世界に自分がいるような、「おしゃれ」なことを実現できると、とても気持ちが良い。

 おしゃれなもの対して憧れを抱くことは、いたってふつうのことだ。その動機は、お洒落な人たちと仲良くしたい、でも、写真をSNSに投稿したい、でも、なんでもいい。しかし、その多くは現実世界で永続的に実現するものではない。少なくとも、まだ精神的にも金銭的にも未熟な私は、そこに「憧れ」の限界をみた。

 KINFORKが日本で5万部売れていたとしても、その世界観を実際の生活で永続的に体現できている人なんて50人もいないのではないか。多くの人が「憧れ」を抱きながらも、それとは異なる世界で、色々な理由を付けて、自分なりに折り合いをつけながら生きている。

 ここ数ヶ月、私は、おしゃれな憧れを日々ひたすら追い求めていた。どこか無理があるんじゃないかということにうっすら気づきつつも、意地になっていたのだ。しかし、この週末を含めた1ヶ月を過ごしてみて、自分のやるべきことはこれではないと感じた。雜誌に映る綺麗でおしゃれな写真にいくら憧れても、永遠に静止画でいられるはずがない。テレビで映るお洒落な生活も、切り取られた一瞬でしかない。常に動き続ける現実世界において、自分はどこにいて、何をすべきなのかということを考えた。

 どこを目指しているのかも分からなくなるほど、日々自らの身を削り、疲弊している中で、1ヶ月に1回くらい、自分の憧れる世界に浸るくらいがちょうどよいし、現実的だ。現時点においては、世界なんてそんなもんじゃないだろうかと思う。到底手が届かないようなおしゃれな憧れを、それでも追いかけるというのも、また良いだろう。しかし、私には向いていなかったというだけの話だ。泥臭く日々を生きて、たまに憧れの世界へ飛び込むということで得られる非日常の感覚が、今を生きている証拠となることに気付いたのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?