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薄いコナコーヒーと、騙すこと

 今日は成人の日。あれから2年も経つのかと思うと、時の流れが早いと思わずにはいられない。数年ぶりにあう友人達だらけだったあの日は、「おれ、東京でこんなに頑張ってるんだゼ」とやけに自慢していた気がする。地元に残る人が多かったので、大都会・東京で何かをしているということだけで誇らしさを感じつつ、ちょこっと挟む大袈裟なウソ(別に言っても分からないからいいだろうと思っていた)に、ほんのちょっと罪悪感を感じながら。

 2015年の成人の日は、朝起きてからそういえばと気づいた。いつもより少し早めに目覚めて時間を持て余したから、掃除と洗濯をしてからゆっくりコーヒーを淹れながら本を読んだ。父がおみやげに買ってきてくれた、ハワイのコナコーヒー。分量を間違えたせいか、やけに味が薄かったが、こんな洒落た朝を過ごすのは滅多にないから、薄いコーヒーでさえも美味しいと思い込んで、せっかくのお洒落な朝を壊さないよう味覚を騙した。

 話は変わるが、騙すといえば、まさに今の自分自身がそうかもしれない。「騙す」というとやや仰々しいが、今朝の薄いコーヒーを美味しいと思い込み、滅多にない美しい朝を壊すまいとしたように、現状の自分を最高な状態だと思い込み、そこに安住在しているのではないか、と最近感じる。

 先日、親友(少なくとも自分はそうだと思っている)と飲みに行った際に、友人の変容ぶりに驚いた。それまで彼は「メンバーのために」とか「想いを大切に」とか「人が好きだ」とか、そんなことを口にするやつじゃなかった。物事をすごく客観視し、とにかく冷静なタイプだった。かといって冷酷だったというわけでもないのだが、少なくとも、その種の”アツい”言葉を自ら発することはしなかった。それがどうだろう、いまやっていることに対して心底熱狂し、情熱を注ぐだけでなく、その周囲の人達までも大切にしようとしていた。なんというか、より「人らしく」なっていたのだ。

 自分は元々そういうタイプだったのだが、去年の夏を境にして、”ある1つの事に情熱を注ぎ、熱狂する”ということがなくなった。自分で言うのもなんだが、内面と向き合うことを避け続けた結果、「人らしさ」が無くなった気がする。とにかく、特定のことに熱中するということができなくなり、人に関心が無くなっていった。そんな状態でも、目の前にあることを1つ1つこなしていった結果、いまはフリーライター(学生という矛盾付き)として案件を受けて仕事っぽいことをしている。文章を書く時は基本的に1人なので、それがとても自分に適していると思っていた。人間関係にストレスを感じることもなく、時間に追われつつも自分の好きなことを自分のペースで淡々とすることが出来るこの仕事に、やりがいと喜びを感じている。

 しかしそんな反面、「何かに情熱を注いでいる」友人たちのことを、羨ましいと思うのも事実だった。大変で苦しみながらも楽しそうに話す友人を見ると、自分はどうなのだろうといつも考えさせられる。人との比較は良くない。しかし、比較してしまうということは、現状に心底満足できていない状態の裏返しだ。自分は現在地点に満足しておらず、流れに身を任せつつ現在を静観しているだけで、自分の気持ちを「騙して」いるのかもしれない。

 たとえ高価なコナコーヒーでも、明らかに薄いコーヒーが美味しいと感じるはずがない。濃くて苦くて風味のあるコナコーヒーこそが美味しいのだ。それと同様に、いくら自分の好きな物書きをしているからと言っても、胸を張って熱狂していると言えない状態に満足できるはずがないし、おそらくそこには成長もない。苦しんで苦しんで得た達成感や、その苦しい過程にのめり込む熱狂こそに充足感を得られると。

 もっともっと自分自身と向き合って、好きなことを追求し続けなければ、いつの間にか置いてけぼりになってしまう。騙すことはやめて、もっと正直に生きねばと強く思った、2015年成人の日だった。

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