ニューウェーブを知らない私に
現代短歌シンポジウム ニューウェーブ30年
ニューウェーブは、何を企てたか
というイベントに行ってきたのですが、この記事は、シンポジウムに参加する前の私が、事前提供されていた資料を読みながら、あれこれと思考を巡らせたことを、3点にまとめたものになります。(イベントの前日にツイートしたものとほぼ同じ内容です。)
〈Ⅰ〉
小池光さん、荻原裕幸さん、加藤治郎さん、藤原龍一郎さんによる「誌上シンポジウム 現代短歌のニューウェーブ-何が変わったか、どこが違うのか」(『短歌研究』1991年11月号)のなかで、加藤治郎さんはこのように指摘しています。
この紀野恵の登場で何が変わってきたかというと、自我意識の希薄化で、歌の価値は、言葉そのものの豊かさと韻律の面白さに傾いた、そういった時点があったと思う。
(会話体について、)では、なんで他者がこういう形で侵入してきたかというと、自我意識の希薄化というか、自分を語る時に何か他者との関係でないと語れない、という、そういった関係性に基づいているということがあると思うのです。
ここから私が想像したのは、「自我の希薄化」というよりも、短歌の世界にも「間主観性」が導入されていったのだろうか、ということです。心理学的に言えば、H. S. サリヴァンの「関与しながらの観察」、R. ストロロウの「間主観的アプローチ」につながるものであるように思いました。
もっとも私は「それ以前の短歌史のなかで、自我がどのように表出されてきたのか」というポイントを十全に把握できていないので、このように思うのかもしれないのですが。
〈Ⅱ〉
今回、三輪晃さんが作成してくださった、シンポジウムの資料「ニューウェーブが指向したもの」では、ニューウェーブ短歌のキーワードとして、下記の3点が挙げられています。
◎ ニューウェーブ短歌のキーワード
1 主体:作中主体≠作者(内面)、作中における「私」の不在
2 言語表現:解釈不能・音読不能の記号的表現
3 口語:会話表現を取り入れた、柔らかな口語
また、荻原裕幸さんと加藤治郎さんの対談「場のニューウェーブ」(『未来』2001年7月号)では、加藤さんが荻原さんのエッセイを引用して、このように述べている箇所が見受けられます。
加藤:さて、最後に、近刊の荻原さんの歌集『デジタル・ビスケット』に触れながら今後の展望をお伺いしたいと思います。『新鋭十人』(1998年)の「ぼくであることの奪還」というエッセイで「自分の等身大の日常の中に感じているあのかけがえのなさ」と書かれています。それを奪還するんだと。これは、塚本や寺山の〈私〉の拡大、仮構とは反対のポジションにあると思われます。
塚本邦雄さんや寺山修司さんに代表される前衛短歌のキーワードが〈私〉の拡大、仮構であり、ニューウェーブ短歌のキーワードが〈私〉の不在(あるいは、希薄化)であるとするならば、そこには、ある種のエナンティオドロミアが生じていたのだろうか、ということです。自我というものの捉え方、表し方、バウンダリーなどについても想像を膨らませると、強引ではありますが、前者の〈私〉は精神病的であり、後者の〈私〉は神経症的であるとも言えるのかもしれない、と思いました。
そのように考えると、先述した文章における、荻原さんの「等身大」という言葉は、人間性心理学における「あるがまま」の思想につながっていくのだろうかと思うのです。対談のなかでは、次の短歌が引かれています。
きみとゐる「いま・ここ」を強く肯へば二人を包む鰻のけむり(荻原裕幸)
「いま・ここ」という言葉は、まさに人間性心理学のひとつであるゲシュタルト心理学のキーワードですが、昨今流行しているマインドフルネスのキーワードでもあります。つまるところ、〈私〉は私に、回帰していったのであろうか、と思うのです。
〈Ⅲ〉
大辻隆弘さんの論考「ニューウェーブ、やや懐古的に」(『レ・パピエ・シアン』第52号(2003年5月号)には、次のような言葉があります。
ニューウェーブ短歌は決して「私」を欠落させたわけではない。むしろ、意識的な「私」の領域の根底にある不気味なものを、新たな手法によって明るみに出したのだ、と私は思った。
『不気味なもの』というと、S. フロイトの同名の論文('Das Unheimliche’(1919)))を思い出すのですが、それは少し置いておきます。この論考では、大辻さんが、加藤治郎さんの短歌と穂村弘さんの短歌を比較しながら、お二人の短歌における「無意識」について考察されています。まずは、加藤さんの短歌について。
これらの歌において加藤は、確実に私たちの肉体や意識の深層を明るみにひきだそうとしている、と私は感じた。それは意識的な領域のみを「私」として捉えていたそれまでの短歌とは異なる、あきらかにもう一歩踏み出した「私」の深化である。深層意識の表出を目指すことで、加藤は近代短歌的な「私」があくまでも意識的な領域にとどまっているということを暴露しようとしているのではないか。
そして、穂村弘さんの短歌について。
たぶんこれらの歌は、「おもしろい」とだけ言ってしまって、それで終わりにしてよいのだろう。(中略)およそ現実的にはありえないナンセンスな光景だが、流星の光跡や月の光の揺らめきは読者の胸に確実に届けられる。おそらくこれらの歌には、加藤の歌のように個人の無意識を摘出するような思考は皆無だ。
九十五年以降の閉鎖的な時代感覚のなかで、若者の間では、穂村弘の歌が愛好されるようになった。専門的で難解な加藤の歌よりも、一見かろやかで切ない表情を見せる穂村の歌が、より広く愛好されていくようになる。そのなかで、加藤治郎が行った「私の深化」というマニアックな課題は次第に忘れ去られていった。
個人的に言えば、とある人間が何かを創作する限り、その創作されたものには、そのとある人間の無意識が表出されており、それは不可避なのではないかと、私は思っています。そんな私が、大辻さんの文章を読んで想起したことは、加藤さんの短歌と穂村さんの短歌では、表出している無意識のレベルが異なるのではないか、ということです。
加藤さんの短歌が「個人の無意識を摘出するような」短歌であり、穂村さんの短歌が「現実的にはありえないナンセンス」な短歌であるとすると、まず初めに考えたことは、加藤さんの短歌は「個人的無意識」的であり、穂村さんの短歌は「集合的(普遍的)無意識」的なのではないか、ということです。「個人的無意識」、「集合的(普遍的)無意識」という言葉は、C. G. ユングによる分析心理学の用語です。
但し、ここで使用されている「個人」という言葉は、加藤治郎さんというたった一人の人間を表す「個人」であるのか、あるいは、特に誰ということを示していない「一個人」(ゆえに誰にでも当てはまる)という意味での「個人」であるのか、少し判断に迷うところがありました。もし後者であるならば、加藤さんの短歌にも、「集合的(普遍的)無意識」的な側面があるようにも思われます。
とすると、表出している無意識のレベルが異なる、というよりは、むしろ加藤さんの短歌も穂村さんの短歌も「集合的(普遍的)無意識」的であるけれども、その表出の方法やヴォリュームが異なるのではないか、と思ったのでした。
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