夢の続き 西国三十三か所霊場 満願後記
2009年の記録を残したいと願い、これまで過去の記録をアップ致しました。下の日記は帰ってきた日に記したものです。日記達はあえて編集せず、mixiに投稿したものをそのまま転記しております。ですので多少の若者感や誤字脱字をご容赦頂ければ幸いです。
今でも思い返すと沢山の思い出があふれ出してきます。それぞれの思い出が今もなお心の中で輝いていて、この経験が今の坊主人生にとても大きな作用をしてくれました。しがない日記ですが一人でも楽しんで頂ければ何よりです。そして今も精神的な病気で苦しんでおられる方に少しでも元気になるきっかけになれば何よりです。
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以下、当時の日記です
昨日電車で自坊へ戻りました。歩いて帰るのも当初は予定してましたが、まいっかー と荷物を送り帰ってきました。
今回の行脚で考えたことを並べてみます。これは自身の頭の整理も兼ねています。
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一つ目
自分はとても恵まれた環境にいる、ということ。
五体満足で時間もある。知り合いの寺の小僧は一日の休みさえない状態です。彼から見たら僕は羨ましいでしょう。
歩いていると、自分は何をやってんだろって何度も考えました。
歩いている、それはもちろん。
じゃなぜ歩いているのか。歩いて何になる?修行?修行ってなんだ?修行して何のためになる?人のため?自分のため?何を得たい?
そんな時、ふと通りすがりで仲良くなった方々に頂いた言葉で目が覚めます。
「いいことやってるねぇ!」
僕はただ僧服を着て、何キロも歩いているだけなのに、感謝される。僕の中では修行らしい修行でもないのに、この姿に感動して感謝してくれる。それは紛れもなく自分を励ます言葉たちでした。
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二つ目
坊さんは所詮、人の金で生きているということ。
坊さんは何かを生産して売る、というモンではありません。基本的にみなさんのお賽銭やお布施を頂いて、その中で生活します。
今回の行脚はいろんな人達のお賽銭やお布施が回り回って僕にやってきた、ということで、それをみなさんが願いを込めて投じた賽銭をこんな形で使って本当にいいんだろうか、とお金を使う度に思っていました。
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三つ目
頑張っていると、必ず誰かが見てくれているということ。
これまで精神的に病んでた時は常に孤独感がありましたが、一人で歩いている間はそういったものが全くありませんでしたね!宿で泊まっている時も、ご飯を食べるときも休憩するときも歩いている時もずっと一人で、話し相手なんていませんでしたが(中山寺~花山院は別です(笑))、寂しいなぁって思ったことが全然なかったんですね。これには驚きました。
歩くことが心を満たし、疲れて折れそうになった心を周りの方々が支えて持ち直してくれる。札所が見えてくる度に小さな達成感を感じ、数を重ねるに従って自信がついてくる。
前にやった比叡山の修行は十数人との修行で、寂しさなんて全くなかったのですが、今回は一人でもみんなと修行している時と同じ感覚を味わうことが出来て嬉しかったです。きっとこのスタイルが今の自分に合っているんでしょうね。
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自分でも驚いたのは、行脚の途中で精神的に崩れることがなかった。ということです。僕はずっと頭痛持ちで、ストレスでひどいときは2,3日痛くて動けないことがあるのですが今回一度もなし。
理由のない不安感やめまいにおそわれることなく、気がつけば満願ですよ。ほんと自分の体は不思議です。たぶんきっと、自分が思っている以上に体は丈夫で、環境に適応できるのでしょう。その力を過小評価しすぎて今まで何もやらなかった、だけだと感じました。
要は心、なんでしょうね。ついこないだ抗うつ剤を絶ってから何度も戻したいと思いましたが、思い切って行脚してみるとできてしまいました。もちろん、偶然かもしれませんし、またぶり返すかもしれません。
ただ、この行脚で痛感したのは、心次第、ということ。
その心を動かすには何かしらの体を使った動作が必要だということ。
それは歩くことだったり、山を登ることだったり、祈ることだったり。自分にとってたまたま歩くことがいい治療法だっただけで、他の方に無理に勧めることはしません。僕は、運良く、どんづまりのひきこもりから脱却したいしたいと悩んだらボツンと歩くことが浮かびました。
人間ってのはとても面白い生き物です。
さ、ちょっと頭が熱っぽくなってきたので、今日は早めに休みたいと思います。
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