【論文翻訳】ムハンマド・ファールーク「シャリーアに対峙するスーフィズム?:シャー・ワリーウッラーの存在一性論の形而上学」


1. 概要

 本記事は、Muhammad U. Faruque, "Sufism contra Shariah?: Shāh Walī Allāh's Metaphysics of Waḥdat al-Wujūd," Journal of Sufi Studies 5, 2016, pp. 27-57の全文を日本語に翻訳したものである。

解説

 本論考は、18世紀南アジアのイスラーム改革思想家シャー・ワリーウッラー(Shāh Walī Allāh, d. 1762)のスーフィズム観、とりわけ存在一性論(waḥdat al-wujūd)の解明に光を当てたものである。著者Faruque氏によれば、ワリーウッラーはガザーリーやアヴィセンナ、イブン・アラビーらに匹敵するイスラーム思想の巨匠であるにも拘らず、西洋の学術研究においては彼の重要性や功績があまり認知されておらず、ワリーウッラーに関して英語で書かれた研究書や論考は数える程しかないという。ワリーウッラーは、存在一性論を中心とするスーフィー形而上学についても自身の著作の至る所で論じており、それは彼のイスラーム改革プロジェクトにおいて重要な位置を占めていたが、この点も西洋の学術研究では大いに看過されてきた。
 そのような空隙を埋めるべく著された本論考では、イスラーム思想史上最も物議を醸してきたスーフィズムの教義である存在一性論を、ワリーウッラーがどのように理解したのかが探究される。ここでFaruque氏が提起する「スーフィズム対シャリーア」という図式であるが、これは歴史的に活躍してきた数多くのスーフィーらの言葉や立場を全く考慮していない、研究者らの恣意的な理解であるとして強く批判される。というのも、過去の偉大なスーフィーたちがシャリーアを無視していたという文献学的根拠は一切見られず、イブン・アラビーのような多くの論争を引き起こしたスーフィーでさえ、シャリーア遵守の重要性を強調しているからである。このように研究者らが立てた前提に囚われず、あくまでスーフィーたち自身の言葉に立脚することで、内在的な観点からスーフィズムの問題に迫ろうとするFaruque氏の姿勢は、大いに評価されるべきであると考える。
 本論考を貫くのは、「スーフィズム対シャリーア」という図式が根本的に間違いであり、むしろスーフィズムはシャリーアと調和的であるという点、さらにスーフィズムの一側面である存在一性論もまた、シャリーアを軽視している訳ではないという立場である。Faruque氏はこれらの点を論証するために、ワリーウッラーによるシャリーアの定義を先ずは検討し、その後に彼の存在一性論の具体的分析に入る。ここで著者が入念に考察するのは、ワリーウッラーが、存在一性論における神と宇宙(被造物)の関係性を如何に捉えていたのか、具体的にはこの世の全てが神の「存在」からなる存在一性論の世界観において、彼が宇宙の多性を如何にして保持したのかという点である。というのも、もし多としての宇宙の実在性が一切認められず、神の「存在」のみがこの世に実在するとしたら、ムスリムが神の規範たるシャリーアに従う意味もなくなってしまうからである。Faruque氏はまた、ワリーウッラーの思想をカイサリー(d. 1350)やホージャ・フルド(d. 1601)と比較しつつ論じることで、イブン・アラビー学派研究への貢献も示唆する。

著者紹介

 本論考の著者Muhammad U. Faruque氏は、イスラーム哲学やスーフィズム思想を専門とし、特にこれら二つの分野の重要概念である「自己(nafs/ khwudī)」に関する研究を進めてきた。具体的には、ムッラー・サドラー(d. 1640)やワリーウッラー、ムハンマド・イクバール(d. 1937)、アシュラフ・アリー・ターナヴィー(d. 1943)といった17-20世紀の思想家を幅広く取り上げ、彼らの自己概念を西洋哲学との比較で論じるという手法を用いる。2018年にカリフォルニア大学に提出した博士論文“The Labyrinth of Subjectivity: Constructions of the Self from Mullā Ṣadrā to Muḥammad Iqbāl”は、イラン研究財団の最優秀博士論文賞(2019年)を受賞した。また、この博士論文に基づいた初の単著Sculpting the Self: Islam, Selfhood, and Human Flourishing(University of Michigan Press, 2021年)は、第31回イラン年間最優秀世界図書賞(2024年)を受賞するなど輝かしい実績に満ちている。
 Faruque氏は現在、Cincinnati大学の助教授(Inayat Malik Assistant Professor)と同大学附属タフト研究センターの研究員を務めている。現代の気候変動やAIといった諸問題にも関心が深く、現代世界が抱える課題にイスラーム思想の観点から探究するためのプロジェクトも推進している。Faruque氏の経歴も興味深く、彼はバングラデシュ生まれのムスリム移民であり、元々はロンドン大学で経済学を専攻していたが、その当時2008年に起こった深刻な経済危機をきっかけに、人生や自己の意味について真剣に考えるに至った。そこで自身が信奉するイスラームの知的伝統を深く知る目的でイランに渡り、テヘラン大学の修士課程でイスラーム研究に着手する。2014年に同大学でイスラーム哲学の修士号を取得した後、カリフォルニア大学バークレー校の博士課程に進んだ。その他の詳しい情報は、Faruque氏の大学HP(https://researchdirectory.uc.edu/p/faruqumu)を参照されたい。

2. 全訳

 以下は、Faruque, "Sufism contra Shariah?"の全訳である。アラビア語・ペルシア語の訳出に関しては、著者の意図を最大限汲み取りつつ、訳者の裁量に応じて変更を加えたものもある。参考文献の表記に関しては、全て訳者の手法に統一し、注は全て文末に纏めて配置した。各節の見出しには、当該論考のページ数を記してある。なお、訳文中の()は著者による補足を、[]は訳者による補足を、引用文中の…は中略をそれぞれ意味する。
(※ 当該論考の翻訳・掲載に際しては、著者ムハンマド・ファールーク氏の許諾を得た。)

要旨(p. 27)

 本稿では、しばしば議論の対象とされるスーフィズムとシャリーアの関係性、そしてシャー・ワリーウッラーにおける存在一性論の問題について分析する。スーフィズムあるいはタサウウフをシャリーアの内的真実であると主張するスーフィーがいる一方で、それはイスラームの内的側面であると見做す者もいる。ワリーウッラーは様々な古典文献に依拠することで、存在一性論を受容することが、必ずしも当人のシャリーアへの不従順を意味するものではなく、むしろ神の超越性と現実世界の多性の保持を意味することを強調する。大まかに言うと、彼の存在一性論はイブン・アラビー学派の思想的系譜に連なるが、そこに彼は別の新しい側面を加えているようにも思われる。彼はまた、スーフィー知識人による存在一性論の理解は、一般の人々のそれとは異なるものであるとも主張する。さらに彼は、たとえwujūdが一つであるとしても、存在一性論が宇宙の多性を否定するものではないと断言する。

キーワード:展開存在、宇宙、多性、シャー・ワリーウッラー、シャリーア、スーフィズム、存在一性論、ウジュード

1)序論(pp. 28-33)

 デリー出身のシャー・ワリーウッラー(Shāh Walī Allāh, d. 1762)は、恐らくインドが輩出した最も偉大な学者である。イスラーム思想史において、ワリーウッラーはアヴィセンナ(Avicenna, d. 1037)やガザーリー(Abū Ḥāmid al-Ghazālī, d. 1111)、イブン・アラビー(Ibn ‘Arabī, d. 1240)、そしてムッラー・サドラー(Mullā Ṣadrā, d. 1640)といった一級の思想家たちのうちの一人に数えられるだろう[1]。著述家としての彼は、スーフィー形而上学・哲学・神学・イスラーム法学・ハディース学・神秘心理学・伝記作品といった諸分野で50点以上の作品を残している。それらの作品において、彼は当時のイスラームの知的伝統を復興させるための統一的パラダイムの創出を目指した[2]。インド亜大陸において、ウルドゥー語やヒンディー語、ベンガル語、その他のインド諸言語によってなされたワリーウッラーの思想研究は膨大に存在する一方[3]、この碩学が果たした知的貢献は西洋においてはあまり広く知られていない[4]。彼は長きにわたって、ジャマーアテ・イスラーミー(Jamā'at-i Islāmī)やムスリム同胞団(Ikhwān al-Muslimīn)といったイスラーム復興や改革運動の重要な先駆けと見做されてきた[5]。
 ワリーウッラーの政治的影響を考えると、特に植民地期のインド・ムスリムたちが経験した「アイデンティティーの危機」[6]以降の社会や政治に関する彼の思想については、数百もの書物が著されてきたことは驚くに足らない。それゆえ、多くのムスリム史家たちはしばしばその過去を現代の社会的・政治的関心の観点から捉えようとし、そこから「取捨選択」の力学が作用し始める。例えば、対象とされる思想家(ここではワリーウッラーのことを指すが)の特定の思想に対しては強い関心を示すものの、それ以外の諸側面は意図的に無視されるといったことが見られるようになる。史実を「不可解にする」ところのあらゆる推論に対処し、対象とされる著述家の作品を精緻に分析することで、我々は対象人物の全く異なるイメージに出会うことができる。このことは、多かれ少なかれワリーウッラーの場合にも当て嵌まるのであり、彼の諸作品の多くは存在一性論(waḥdat al-wujūd)[7]や存在顕現説(tajallī/ ẓuhūr)[8]、存在の五次元説(al-ḥaḍrāt al-ilāhiyyat al-khams)[9]といった難解な形而上学の教義を明らかにする目的で書かれている。そして、社会的・法的な問題が主に扱われた『究極の神の明証(Ḥujjat Allāh al-Bāligha)』のような作品においてさえも、共同体生活の複層性に通底する形而上学的視点が散見される[10]。
 これらのことから、ワリーウッラーのより洗練された神秘主義哲学の議論に対してほとんど関心が払われてこなかったことは驚きに値する[11]。このことの潜在的要因の一つとしては、ワリーウッラーの思想が我々の気を挫いてしまう程非常に多岐にわたるものであることが挙げられ、実際に彼の思想は(アラビア語とペルシア語の両言語による)ハディース学から哲学に至る1,200年間のイスラームの学問伝統をも包含している。そこで本稿は、こうした空隙を埋めるための解決策を提示することから始め、具体的にはワリーウッラーの形而上学でも扱われているように、スーフィズム思想の中でも特に議論を呼んできた存在一性論について考察していきたい[12]。本稿はまた、無限定存在(al-wujūd al-muṭlaq)と慈愛の息吹(al-nafas al-Raḥmān)[13]の相違や多性のパラドックスといった、これまであまり顧みられてこなかった事柄に関する哲学的問題をも詳細に検討していく。恐らく、イスラーム思想史において存在一性論より多くの論争を巻き起こしてきた思想は他にないと思われる。存在一性論はある意味で「メタ」教義であり、それは科学における「自然の深淵な法則」の場合と酷似している。なぜなら「自然の深淵な法則」は、その他の「ローカルな」教義全てに通底していることを暗に示しており、同様にある者が存在一性論に取り組むことにも、当人における自己(nafs)の理論に関する内的意味が込められているからである[14]。また、注目すべきことに、現在アズハル大学の大イマーム[を務めるアフマド・タイイブ]やアーヤートゥッラー・ホメイニーらが自著で証言したように、存在一性論は今日の影響力あるムスリム知識人たちの間でも論争の的となっている[15]。
 それにも拘らず、研究者たちの間で「存在一性論」の難解さが明瞭な仕方で解明されてきたことはほとんどない。なぜなら、ほとんどの研究において、一体今は「誰の」型の存在一性論が論じられているのかということを明確にすることなしに、当の「表現」が用いられているからである。しかし、ほとんどの研究では、イブン・アラビーが存在一性論の創始者と考えられているようである[16]。ワリーウッラーにおける存在一性論の問題については、本稿の第4節において、その「起源」や「意味」、「歴史的発展」、そして「解釈学」も含めた上で、彼の著作群における重要な記述の翻訳を通じて詳細に論じることとする。存在一性論を解釈する際の重要な問題は、(所謂)スーフィズムのシャリーアからの分岐であると思われる[17]。このことは、南アジア・スーフィズム研究の文脈で頻繁に言われていることであり、そこでは、存在一性論の支持派はイスラームの規範を無視するような反抗的姿勢を示していると考えられている[18]。そうした研究では、スーフィズムが本質的にイスラームの法学的伝統と相容れないという推論が前提になっている場合が多い。ここで問題となっているのは、スーフィズム研究者の多くが、スーフィー著述家たち(特に存在一性論の支持者たち)は自身の行為全てがシャリーアと完全に一致すると見做しているはずである、という推論と葛藤しているという点である。むしろ、シャリーアの厳格な遵守を唱えるスーフィーたちが自分自身の信条と「矛盾」しているか、あるいは彼らが自身の信条に忠実でないと研究者たちは考えているようである[19]。この「ジレンマ」は、スーフィズムあるいは存在一性論がシャリーアの教義と調和不可能であるという前提に起因するが、それは「誤った問題提起」に他ならない。なぜなら、そもそもそのような問題は一切生じてこなかったからである[20]。筆者は、そうした誤解が生じる要因が、特にこれらの用語の複雑性に対して十分な注意が払われていないからであると推測する。そこで先ずは予備的段階として、本稿ではスーフィズムとシャリーアを以下のように定義する[21]。

 i. スーフィズム——イスラームそれ自体と同程度に多様なイスラームにおける神秘的伝統であり、この語は時にスーフィーたち自身によって論じられる教義や実践の主唱者も含まれる。それゆえ、ある「型」の存在一性論を受容する熱心で影響力あるスーフィーが存在し、彼らは存在一性論がシャリーアの一般的理解に一致すると考えている。

ii. シャリーア——第一に、これは法学(fiqh)でも法源学(uṣūl al-fiqh)でもないし、所謂イスラーム法でもないが、これら全てと密接に関係していることは確かである。シャリーアとは、ムスリムの生活に関する全ての事柄を規定するクルアーンやハディースといったイスラームの諸聖典に基づく預言者的「枠組み」である。このように、シャリーアは法学のみを介して導き出されるところの一枚岩的な構造でも厳格な規範体系でもない[22]。
 
 さらに言えば、存在一性論とシャリーアの関係性も、ワリーウッラーを含むムスリム知識人たちにとっては極めて重要な意味を持つ。なぜなら、もし前者[23]が、その批判者たちの主張に見えるように、神と現実世界との間に一切の相違を認めないとしたら、神を崇拝したり、シャリーアに従ったりする必要が一体あるのかという疑問を抱かざるを得ないからである[24]。
 以下、第2節では、ワリーウッラーの思想形成に影響を与えた18世紀インドのイスラームの歴史的コンテクストを描写していく。第3節では、「物議を醸してきた」スーフィズムとシャリーアの関係性についてより多くの光を当てるために、ワリーウッラーのみならず他のスーフィーたちの見解をも通じて考察していく。その後の第4-5節では、本稿の主題である存在一性論と宇宙の多性の問題について扱う。最後の第6節では、全体の議論を纏めた上で結論を示したい。

2)18世紀ムガル朝インドにおけるイスラーム[25](pp. 33-35)

 ワリーウッラーは主著『究極の神の明証』の序文において、当時の南アジア・ムスリム社会における知的荒廃を嘆いている。 

 私は、自分が無知や偏見の時代の只中におり、それらへの熱情に従っていることに落胆したが、全ての者は自らを破滅に導く意見を高く評価している。というのも、現代的であるということは、意見の相違の基礎であり、著述家たちは誰でも自らを標的にするからである[26]。

 ワリーウッラーは困難な時代を生きていた。ムガル帝国は、2世紀近くの間インドを支配し、当時の世界において最も豊かで安定した帝国の一つを築き上げたが、ワリーウッラーが登場した時代においては既に衰退の一途を辿っていた。ワリーウッラーが4歳の時には、既にアウラングゼーブ帝(Awrangzeb, d. 1707)の長期にわたる統治体制は終わりを迎えていた。その後の60年間において、10人もの異なる者がムガル朝君主の座に就いた。ワリーウッラーの父シャー・アブドゥッラヒーム(Shāh ‘Abd al-Raḥīm, d. 1719)はナクシュバンディー派の導師であり[27]、『アーラムギールのファトワー集(Fatāwā-yi ‘Ālamgīrī)』として知られる大部な法学裁定集の編纂を当時の皇帝から依頼された。ワリーウッラーは当時の政治的・社会的・道徳的な状況に大きな関心を抱いており、ムスリムたちの宗教的・社会的生活の活力が危機に瀕していると感じた[28]。ワリーウッラーによると、当時の法学者たち(fuqahā)はタクリード(taqlīd, 権威への追従)にしか目がなく、裁判官たち(qāḍīs)[29]は偽善的な実践に関わらざるを得なくなっていた。さらに、ウラマーの法学に対する姿勢は、ハナフィー派やマーリク派といった法学派のどちらか一方の権威への追従ゆえに形骸化していた。状況は、自らの祖先の無謬性を無批判に信奉することも加わることでより悪化し、人々もこのことを深刻に捉えていた[30]。ワリーウッラー自身もスーフィー導師ではあったものの[31]、スーフィーたちや彼らの教団の多くにおいて行われていた大衆的な慣習には批判的であった。それゆえ、彼は聖者廟参詣の慣習を批判し、クルアーンやハディースではなく、これ見よがしの破戒や世俗的な詩を重視するスーフィーたちに対して厳しい言葉を投げ掛けた[32]。
 ワリーウッラーはシーア派一般の慣習、とりわけムハッラムの行進に対しては[上記のスーフィーたちの慣習と]同程度に批判的であった。ワリーウッラーの時代においては、スンナ派とシーア派の緊張関係が新たな高みに達しており、「預言者の後継者」といった古くからの問題について議論され、常に注目の的となっていた。ワリーウッラーはスンナ派イスラームの熱心な擁護者であり、彼の法学やタサウウフの問題に関するアジェンダは包摂的・融和的であったが、シーア派を受け入れることは決してなかった[33]。しかし、ここで注記に値するのは、彼がアリーを最初の二人の正統カリフ(アブー・バクルとウスマーン)よりも優れていると見做したものの、預言者ムハンマドが彼の夢の中に登場しその信条を正した後、彼は心変わりしたという点である[34]。
 政治的に見て、18世紀ムガル朝インドのイスラームは深刻な危機に瀕していた。1708-1716年には、北方から来たスィク教徒たちがインド北西部を略奪し、ムガル朝が彼らを包囲するまで支配権を掌握し続けた。一方で、南方から来たヒンドゥー・マラーター勢力はムガル朝の中心地域に侵入し、ムガル朝は彼らにマルワー地域の譲渡を余儀なくされた。1730-1740年代のムガル朝インドは、アフガン人の支配者や軍人からの攻撃を常に受けていた[35]。他の多くのスーフィー導師と同じように、ワリーウッラーも当時の切迫した状況に鑑みて、ムスリムの支配階層や政治指導者に向けて著述することで、統治体制の強化とムスリムの支配を脅かしたヒンドゥー勢力の転覆を促した[36]。全体として、ワリーウッラーは当時の衰退しつつあったムスリム社会の復興を目指していた。このことは『究極の神の明証』のプロジェクトにはっきりと見出すことができ、そこでワリーウッラーは当時のイスラームの困難な状況を打開するための新たな地平を構想したのである。

3)スーフィズムとシャリーア:誤った問題提起(pp. 35-41)

 序論で述べたように、「スーフィズムとシャリーア」[37]を問題提言として示すことはミスリーディングになりかねない。なぜなら、こうした問題提言は、a)両者は互いに還元不可能な二者であり、b)これら二範疇の間には根本的な対立や緊張関係が存在し、c)スーフィズムは本来的にアンチノミー的・反シャリーア的であり、d)イスラーム法学がシャリーアと同一のものであり、e)法学者たちがシャリーアの主たる擁護者且つ道徳的な守護者である、という前提を立てることになるからである。大まかに言って、これら全ては史実のみならず、シャリーアとタリーカ(この場合ではスーフィズム)の関係性についてスーフィーたち自身が述べてきたことにも反する[38]。しかし、もしスーフィズムとシャリーアの間に実際的な対立が全くないのだとしたら、なぜ自らの実践や教義を法学者から擁護しようとしたスーフィーがいたのか、という疑問を抱かれるかもしれない。
 第一に指摘すべきは、ガザーリー[39]やイブン・アラビー[40]、ジャラールッディーン・ルーミー(Jalāl al-Dīn Rūmī, d. 1274)[41]、アフマド・ザッルーク(Aḥmad Zarrūq, d. 1493)[42]、アブドゥルワッハーブ・シャアラーニー(‘Abd al-Wahhāb al-Sha‘rānī, d. 1565)[43]、そしてシャー・ワリーウッラーといった偉大なスーフィーたちはいずれも、元々は伝統的な法学からキャリアをスタートさせているか、あるいはシャリーアに関する問題に通暁していたという点である[44]。第二に、多くの法学者たちがスーフィズムや少なくともその実践を非難する傾向にあったことは事実である。しかし、イスラームの知的伝統はその信仰や実践の大部分を棄て去ったが、その中では様々な学派間での論争が頻繁に観察されたという点を念頭に置いておく必要がある。同じ学派に属するウラマー間でさえ互いに論争が起こることもある。それゆえ、同じ学派に属する学者たち、例えばハディースの徒(ahl al-ḥadīth)が様々なハディース(aḥādīth)の真正性をめぐって対立するといったことは何も珍しいことではない[45]。同じように、ある学派の法学者や神学者が、論争相手が属する他の学派に対して苛烈な非難を行うといったことも頻繁に見受けられる[46]。同様のことは、細かな差異を考慮しても、全ての相異なる学派にも当て嵌まり、そこではある物事や理論の本質をめぐるウラマー同士の対立がしばしば見られる。注意すべきは、イスラームにおいて法学派が一つではないのとまさに同じように、スーフィズムの唯一の形態というものも存在しないということである。このことは先述のスーフィズムの定義と軌を一にする[47]。さらに、イスラーム的な正統性は法学者や伝承主義者のみが占有するものでもない[48]。スーフィーらの立場から見れば、彼ら自身も可能な限り最良の仕方で「イスラームの心」を体現し、預言者ムハンマドの伝統に従っているのである[49]。それゆえスーフィズムの見地からは、スーフィズムとシャリーアの二項対立は全くの見当違いであるか、不適切であると言える。この点についてワリーウッラーは以下のように指摘する。

 先述のことに関して言えば、シャリーアという神の経綸(tadbīr)は二つの方向に発展してきた。第一の方向は、善行や大罪の廃止(tark)、真の共同体の指標の確立などを通じて、改革(iṣlāḥ)の影響力を強めることに関わる。これら三つの事柄のために、諸々の規則や規範が設けられ、シャリーアに従う全ての人々はそれらを遵守することが求められる。これはシャリーアの外面(ẓāhir-i shar‘)であり、イスラームと呼ばれる。第二の方向は、様々な段階の自己(nafs)の浄化(tahdhīb)である。自己の浄化は、四つの諸々の美徳の真実を通じて、またはその美徳の形態からそれが内包する輝きに進むことを通じて、さらには単なる外的な罪の回避からその本質の根絶に発展することを通じてなされる。これはシャリーアの内面(bāṭin-i shar‘)と呼ばれ、またの名をイフサーン(iḥsān[50], 内的な美徳や美しさ)と言う[51]。

  このように、(シャリーアの内面としての)スーフィズムとシャリーア(すなわちイスラームの外面)の関係性に関して明確なことが言われているにも拘らず、現代の研究者の多くはこうしたスーフィズムの真相を問題視する。

 スーフィズムの唱導者たちがイスラームに対して提起した問題はより深刻でさえあった。彼らは、スーフィズムに対する見方やスーフィズムとシャリーアの関係性について誤った情報を広めてきた。彼らにとってシャリーアは真実を欠いた空虚な形態に過ぎず、彼らスーフィーたちの修行道(ṭarīqah)においてシャリーアは必要ないとも考えられている。彼らは躊躇することなく神秘直観(kashf)を預言者の啓示(waḥy)よりも優先させるし、真のタウヒードはイブン・アラビーの存在一性論(waḥdat'l-wujūd)の哲学にあったということを、何の躊躇いもなく述べてしまう。その哲学に影響されたことによって、イスラームと不信仰(kufr)との間の区別を些細なものとして看過する者さえいた(原文ママ)[52]。

 上記の見解は例外的な事例でもなければ、近年の研究に比して完全に時代遅れという訳でもない[53]。多くの示唆に富んだ研究を残している著名な南アジア・イスラーム史家[であるMuzaffar Alam]でさえ、「タサウウフと法学といった形式的なイスラームの間には緊張関係がある」と主張する[54]。Alamの見解によると、イブン・アラビーはムスリムに対して特定の法学派に従うことの必要性を説かなかったという。 

 イブン・アラビーは、法学者たち(fuqahā)によるスーフィーの扱いとファラオによる預言者たちの扱いを比較し、法学者たちを狂信者や宗教的真理の敵対者であると述べた。…イブン・アラビーは、一般的なムスリムは特定の学派を信奉する必要はなく、むしろ自身にとって最も受け入れ易い法(shar‘)の裁定を求めてもよく、自身にとって大いなる恩恵を伴うのであればそれに従うことができると主張した。…(イブン・アラビーの)法学派(madhhab)は、ムスリムの共同体により大きな安らぎを与えるものである。ジャラールッディーン・ルーミーはさらに…[55]。

 上記の引用に加え、全体として彼の論調は、タサウウフの実践者がシャリーアの規範に対して無関心であるということを示しているように思われる。いずれにせよ、(上記の)イブン・アラビーの発言は適切なコンテクストを欠いており、十分な引用であるとも言えない。第一の引用文は、Michael Chodkiewiczの『海岸なき大海(An Ocean Without Shore)』からの孫引きであるが、Chodkiewiczは直後に以下の記述を付け加えている。

 それにも拘らず、イブン・アラビーは法学の必要性と法学者たちに課された監視責任のどちらにも疑問を呈することはない[56]。

 (上記の引用以外の)残りの箇所でAlamは、『ムフイッディーン・イブン・アラビー記念論集(Muhyiddin Ibn ‘Arabi: A Commemorative Volume)』[57]におけるMahmood Al-Ghorabの論考を、本来の論旨から脱線する仕方で引用している。その中のイブン・アラビーの発言は以下の通りである。

私の著作は誰彼からの引用などではない
クルアーンのテクスト——それは私の知識である
預言者の言葉、あるいは人々の合意
それらに基づいて私は判断を下す[58]

 最後に、著名なイブン・アラビー研究者William C. Chittickは、自身の存在一性論に関する画期的論考において、イブン・アラビーのスーフィズム観(この場合は‘irfān)の根底にあるのは、「シャリーアの規則や規範、タリーカあるいは霊的修行道の規律に従うこと」であると述べる[59]。
 スーフィズムと法学の問題に比して、イブン・アラビーやルーミーについて本稿でこれ以上扱うのは適切ではないだろう。『マッカ啓示』でも主張されているように、イブン・アラビー自身が一級の法学者であり、数々の法学的問題への見解を提示している[60]。さらに、Alamが引用したGhorabの論考には、イブン・アラビーの法学観に関する多くの有益な見解が見出され、それは彼がシャリーアに反していたという説とは程遠いものである[61]。存在一性論と目撃一性論のように、互いに全く異なる思想を信奉するスーフィーたちも、シャリーアを自身の霊的修行道において不可欠の要素として受容するという点では、見解が一致している。存在一性論の熱心な信奉者ホージャ・フルド(Khwāja Khurd, d. 1601)[62]は以下のように述べる。

 如何なる個人的な望みや目標を考えることなく、シャリーアを実践に移しなさい。シャリーアによって禁じられている行為については、疑問を付したり、貴方自身のうちにそれらへの嫌悪感を抱いたりすることもなく、ただそれを避けなさい。賞賛に値し且つ優美な性質については、それらに執着することなく手に入れなさい。何事にも固執することなく、そこで起こっていることに満足しなさい。真実在の顕現に注意を払うか、あるいは霊知や観想を主張することなく、シャリーアによって許された喜びを活用しなさい[63]。

 そして、ホージャ・フルドはまた以下のようにも述べる。

 シャリーアによって禁止されていることと、タリーカによって悪と考えられていることは全て同じである。…(彼は)自身の為すこと全てがシャリーアとタリーカの両方に一致しているか否かについて細心の注意を払わなければならず、一性の観想に無頓着であってはならない。なぜなら、それは真実在であるからだ[64]。

 存在一性論の批判者アフマド・スィルヒンディーは、シャリーアに関して以下のように述べる[65]。

 シャリーアには形式と真実という二つの側面がある。[シャリーアに関して]説明することは、書物の字義通りの読解を知識の源泉とする法学者たち(‘ulama-yi zawahir)に委ねられている。優れたスーフィーたちはその真実を明らかにすることにおいて傑出している。…全てのものが一つずつ通り過ぎ(ては私に示され)ることで、私の中の疑念は完全に消え去った。開示されてきたもの全て(kashifiyat)は、少しの矛盾もなくシャリーアの外面と一致する。…真の霊的確証者(muntahi-yi haqiqi)は、自身の内的経験がシャリーアの外面に一致するということを知っている。(表層的な)法学者と高尚なスーフィーの間の相違は、法学者がシャリーアの論題を論理的証明によって知るのに対して、スーフィーはそれを内的開示と味得によって知るという点にある(原文ママ)[66]。

4)シャー・ワリーウッラーの存在一性論の形而上学(pp. 41-51)

 前節では、イスラームの規範というコンテクストにおいて存在一性論を論じるための基盤を明らかにした[67]。Waḥdat al-wujūdという用語[68]は、waḥdaとwujūdの二語からなり、どちらもイスラーム思想史の初期から重要な概念であった。"Waḥda"の語は「一性」という意味であり、「一性の是認」を意味する"tawḥīd"と同じ語根からなる。"Wujūd"に関しては、w-j-dという語根からなり、一般的には「存在」と訳される。しかし注目すべきは、スーフィズムの文脈においてこの語は「見出すこと」あるいは「経験すること」という意味で理解されることが頻繁にあるという点である。例えば、イブン・アラビーはwujūdを「忘我状態で絶対者を見出すこと(wijdān al-Ḥaqq fī al-wajd)」と定義している[69]。それゆえ、wujūdには通常の存在論的意味に加えて、神秘主義的・「主観的」意味も内包されていると言える。この語が持つ意味の二面性は、ワリーウッラーの存在一性論を扱う際により明らかになるだろう。いずれにせよ、存在一性論は絶対者(al-Ḥaqq)の「存在(wujūd)」について言及しているのである。その絶対者とは自明的な一者(wāḥid)であるがゆえに、現実には唯一のwujūdのみが存在し得るということになる[70]。
 ほとんどの二次文献において、存在一性論という語はイブン・アラビーによって創始された特定の「哲学的」立場を示すものであると説明されるが、イブン・アラビー自身の著作にこのような記述は全く見られない。イブン・アラビーによる祈祷書(Awrād al-Usbū‘)などにおいては、"waḥdat al-wujūd-ka"という類語が現れるものの、その語には存在一性論を特徴付ける哲学的含意が一切見られない[71]。我々は存在一性論に特有の歴史的発展に関する議論に回帰するだろうが、この作業はワリーウッラーの存在一性論に対する見方を理解するためには不可欠である。しかし、ここでは初期スーフィズムにおける特定の思想的立場を表す「エンブレム」として存在一性論を捉えることとし、さらにはその歴史的軌跡を描くことを試みたい。(上述の定義のような)存在一性論の観念が見られるようになったのは、恐らくマアルーフ・カルヒー(Ma‘rūf al-Karkhī, d. 815-16)[72]やアブー・アル=アッバース・カッサーブ(Abū al-‘Abbās Qaṣṣāb, fl. 10th century)[73]、ホージャ・アブドゥッラー・アンサーリー(Khwāja ‘Abd Allāh Ansārī, d. 1088)[74]、そしてガザーリーなど初期スーフィーたちの作品においてである。彼らの作品における以下の典型的な記述を引用することで、この点を説明していきたい。 

神以外に如何なる「存在」もない(lā fī al-wujūd illā Allāh)[75]。
絶対的一者以外には何もない(laysa ghayr-hu aḥad)[76]。
神以外のwujūdはなく、「彼の御顔以外のあらゆるものは消滅する」(Q 28:88)[77]。

 この種の記述は無数にある。また、以下のイブン・アラビーの言葉は、彼らの発言がなされた背景とも通ずるものがある。

 神のみが唯一のwujūdである。神以外に存在するものは何もない。…Wujūdは神と同一視され、wujūdが住まう所には神のみがある。…実際のところ、wujūdの全ては一つであり、それと並ぶものは何もない[78]。

 存在一性論の批判者にとって、上記の引用文は存在一性論が神の無比性(tanzīh)を否定し、神と現実世界、あるいは創造者と被造物の間の境界を曖昧にしているように映るだろう。それもそのはずである。というのも、仮にwujūdが神と現実世界の双方を包含するものだとしたら、そこには現実世界の確固とした存在論的地位が果たしてあるのかという疑問を抱かざるを得ないからである[79]。それゆえに、こうした発言を適切なコンテクストの外部に置き、スーフィーたちが神の絶対的な無比性を主張している他の発言を看過することは、存在一性論を汎神論や万有内在論、自然的神秘主義、またはそれと類似の理論と同一視することを容易に招いてしまう[80]。存在一性論に関する諸問題の全てを詳細に論じることは、本稿の論旨から大きく逸れてしまうため、ここでは存在一性論についての誤解を明らかにするための提言を幾つか示すに留めたい。幾人かの神学者らと異なり、イブン・アラビーのようなスーフィーたちは、タウヒードを完全に理解するためには神の無比性と遍在性の双方を同時に認識することが必要であると主張する。しかし、これは神と現実世界の間の決定的な「断絶」の是認を妨げるものではないという。それゆえ、イブン・アラビーは以下のように述べる。

 完全人間(al-insān al-kāmil)は絶対者(al-ḥaqq)に対して二つの視点を有する。それゆえ、神は彼を双眼[の士]に任命したのである。彼は一方の眼によって、「彼」は諸世界から独立した御方である(Q 3:97)という観点から「彼」を崇拝する。それゆえ、彼は「彼」を何ものにおいても、また彼自身においても目睹することはない[81]。彼はもう一方の眼によって…あらゆるものに浸透する「彼」のwujūdを目睹するのである[82]。

 ここまでの説明から、存在一性論の基本的議論の解明に多少の光を当てることができたので、次はワリーウッラーが存在一性論をどのように扱っていたかという点を考察する。但し、Chittickが指摘するように、waḥdat al-wujūdが術語として認知されるに至ったのは、イブン・タイミーヤ(Ibn Taymiyya, d. 1328)が当の表現を痛烈に批判したことに対して、様々なスーフィー著述家たちがそれにタウヒードの教義に一致するような意味を与え、神の無比性と遍在性の均衡を図ることで、イブン・タイミーヤの批判に対処するようになって以降のことである[83]。それゆえ、スィルヒンディーが"waḥdat-i wujūd"と"waḥdat-i shuhūd"という語を、"tawḥīd-i wujūdī"と"tawḥīd-i shuhūdī"という語と互換的に用いたことは不思議ではない[84]。さらに注目すべきは、スィルヒンディーは目撃一性論という新たな表現を生み出したが、それは彼と同時代のスーフィーたちがシャリーアの規範に従うことを避けるための口実であり、またイブン・アラビーや彼の信奉者たちからの批判に彼自身が対処するためでもあったという点である[85]。
 こうした背景とは対照的に、ワリーウッラーは複数の著作において存在一性論について説明しており、それらの中でも『神的教導(Tafhīmāt al-Ilāhiyya)』と『潤沢の恵み(al-Khayr al-Kathīr)』の二作品は特に重要である[86]。以下では、これら二つの著作のうちの重要な記述を翻訳することによって、ワリーウッラーの存在一性論を分析する。注意すべきは、ワリーウッラーは存在一性論を「神秘主義的(主観的)」な存在一性論と「形而上学的(客観的)」な存在一性論の二つに分類しているという点である。先述のように、スーフィーたちにとってのwujūdとは、神を目撃するという主観的体験とあらゆる事物を包含するという客観的現実の双方を意味している。ワリーウッラーは神秘主義的な存在一性論について以下のように説明する。

 存在一性論と目撃一性論という術語は、どちらも神への[神秘主義的]道程(al-sayr ilā Allāh)の文脈で用いられる、ということを知りなさい。(これら二つの用語については)スーフィーたちが存在一性論と目撃一性論の各々に対応する諸階梯(maqāmāt)を有していると言える(かもしれない)。存在一性論とは、全てを包括する真実在の霊知(ma‘rifat al-ḥaqīqa al-jāmi‘a)の中に旅人が消融していくことを意味する。その時の現実世界は、区別や分節を構成する様々な諸判断(aḥkām)——善悪の知識、[人間]理性(‘aql)や聖法(shar‘)が明確な説明を与えてくれるところの知識——の全てが消滅した形で認識される。スーフィーたちの中には、神がその階梯から救い出してくれるまで留まり続ける者もいる。[一方の]目撃一性論とは、凝集と分離(al-jam‘ wa al-tafriqa)といった様々な諸側面の統合を意味する。(スーフィーたちは)物事がある側面からは「一(wāḥida)」であるが、別の側面からは「多(kathīra)」であることを知る。そして、この階梯は他[の諸階梯]よりも優れており、より完全でもある[87]。

 上記の引用から、存在一性論と目撃一性論[88]は、どちらもスーフィーによる異なる階梯への到達を意味していることが分かる。存在一性論の境地に到達することは、より恍惚的な方向性を示しており、そこではスーフィーの心的状態が全てを包括する神の実在のうちに完全に消融する。それゆえ、スーフィーは自分の中の善悪の法的(shar‘ī)区分、あるいは正誤に関する通常の法学的範疇への意識を失ってしまう。要するに、この観点からは、存在一性論の階梯は古典期スーフィズムにおける神秘主義的な陶酔(sukr)の境地を示していると思われる。こうした解釈は、恐らくインド的な存在一性論の伝統において発展してきた革新的なものであると思われる[89]。というのも、イブン・アラビー学派の当面のコンテクストにおいて、こうした解釈は早々に見られるものではないからである。ワリーウッラーによれば、存在一性論の境地において、スーフィーはファナー(自我滅却)の状態を乗り越えることによって、一性と多性の双方を目撃することができるという。すなわち、その時のスーフィーは現実世界の存在者が神に依存しているものの、両者が別々のものであるという事実を見失うことがない。このように神秘主義的な存在一性論について詳述した後、ワリーウッラーは「形而上学的」な存在一性論について以下のように述べる。

 存在一性論に関して言えば、(スーフィー)知識人(al-ḥakīm)[90]の神秘直観(dhawq)は他者のそれと異なる。というのも、彼によれば、全ての可能的存在者(mumkin mawjūd)は実在性(fi‘liyya)あるいは本質(māhiyya)のどちらか一方を有すると考えられているからだ[91]。その実在性というものが意味するのは、[ある事物が]形成される仕方とその事物の形相が実体化する仕方(hay’a taḥaqquq-hu)である。そうすることで、それ(=可能的存在者)は極めて純然たる非存在者(al-‘adam al-ṣirf al-basīṭ)それ自体(nafs al-amr)[92]とは区別される。(その)本質というものに関してであるが、それは(如何なる)不変性(taqarrur)も剥ぎ取られた暗闇や虚構と言えるもので、ある物事が他の物事と区別されるように作用するものでもある。しかし当の本質は、(我々の)知識が超越者たる神との関係を築く以前は区別を有していた。スーフィー知識人は、本質(に関わる議論)がそれに相応しい現実を欠いているため、これ以上突き詰められるべきではないと主張する。それゆえ、彼はそれを看過する。実在性[の概念]に関しては、その顕現(ṣudūr)の側面やそれを存在化する力は必然者(al-Wājib)に委ねられている訳でなく、それらは外的世界において不可能である(mumutani‘a)と考えられる。それらは[また]実体性それ自体の円環から[も除外された]。なぜなら、[それは]本質をほぼ奪われているからである。それゆえ、全ての実在性は必然者のうちに一つの相を有している。…実在性は必然者が無分節であることの要因を説明し、また[必然者]それ自体(‘ayn-hā)における表象でもある[93]。

 上記の引用において注意すべき点が幾つかある。第一に、ワリーウッラーは、存在一性論の一般的理解とスーフィー知識人のより含意的な存在一性論の理解という、二つの理解の中間に位置しているように見える。この場合、前者の一般的理解では、神と現実世界の間のあらゆる区別が消滅している一方、後者の知識人らの理解では、神の超越性が保持されている。ここから、両者の理解は対照的であることが分かる。そこからワリーウッラーは、必然存在と対置される可能的存在者の全てには二つの異なる側面、すなわち実在性と本質があると説明する。可能的存在者は自らの形相が実在化することによって特徴付けられ、純粋な非存在者とも区別されるようになる。当の実在性は、必然者が可能的存在者に対して下すものであるが、もし必然者がいなければ、可能的存在者は自らの本質性を失うこととなる。本質概念に関するワリーウッラーの説明はどこか判然としない。それにも拘らず、彼は本質が空想の産物のようなものであるため、実際のところ、それは存在しないものであると説明しているように見える。本質に対するこのような見方は、大まかに言えば、本節冒頭で述べたような存在一性論をめぐるイブン・アラビー学派のより一般的なパラダイムと軌を一にしている[94]。ワリーウッラーはまた、『神的教導』の別の箇所においても、形而上学的な存在一性論について専門用語をあまり用いることなく説明する。

 (存在一性論と目撃一性論という)これら二つ[の表現]の別の用法は、諸々の事物の諸実在に関する知識(ma‘rifat ḥaqā’iq al-ashyā’)に関わり、それは生滅するもの(al-ḥādith)と永遠なるもの(al-qadīm)の関係性をも映し出す。スーフィーたち[のある一派]によると、現実世界は、唯一の実在のうちに(残存する)偶然性の集まり(a‘rāḍ mujtami‘a fī al-ḥaqīqa al-wāḥida)であり、ちょうど人間の形相と同じ仕方で、蝋で作られた馬あるいは驢馬は、彼らに(共通の実体)としての蝋(sham‘)を有する。蝋は、(「蝋」という自らの真の)名を通じて名付けられる訳ではないものの、当の蝋の本性は如何なる条件下であっても変わることはない。むしろ(蝋は)、自らの形相を帯びた後に名付けられる。実際のところ、これらの形相は蝋のイマージュ(tamthīl)であり、(それらに)蝋が付加されない限り、それらが実在化することはない。[一方、]スーフィーたちの別の一派によると、現実世界は、非存在者の鏡における神の名と属性(al-asmā’ wa al-ṣifāt)の諸々の映しであるという。力(qudra)のような名と属性や無力な非存在者は、(無性という鏡に)映し出される。それゆえ、力という光が無性の鏡に映し出された時、それは可能的な力(qudra mumkina)となる。この点は他の属性の場合にも当て嵌まる。この点はまた、「存在(wujūd)」の場合にも当て嵌まる。存在一性論(という呼称)は第一の派に、目撃一性論(という呼称)は第二の派に該当する[95]。

 上記引用の具体的内容に入る前に注意しておくべきは、存在一性論が、絶対存在(神)と対照をなす可能的なるもの(宇宙)という、両者の厳格な関係性を超克することによって、実在の本性を説明しているという点である。それゆえ、当の実在全体がwujūdの観点から認識されることは何も偶然ではない。というのも、後者はその定義からして、全てを包摂するからである。すなわち、如何なる事物が存在しようとも、それが「存在(wujūd)」を欠くはずがないということである。核心を言えば、存在一性論は神と宇宙の相互的な関係性を描こうとしているのであって、その関係性は、それを特徴付けるところの複雑性によって多層的なものとなる。ワリーウッラーによれば、存在一性論を支持するスーフィーたちは、神以外の全て(mā siwā Allāh)は、それぞれ異なる形相からなるが、実在的には全て同じであるという立場を採る[96]。それゆえ、「蝋」はwujūdの比喩であり、全ての可能的な諸実在が唯一の"wujūd"の特定の限定的形態であることを示している。そして、蝋で作られた様々な形相が全て同一の蝋を共有するのとまさに同じように、それら可能的な諸実在は全て同一の「存在(wujūd)」を共有する。こうした存在一性論の理解は、イブン・アラビー学派の主要人物ダーウード・カイサリー(Dāwūd al-Qaysarī, d. 1350)が示した理解からそれ程かけ離れていない。

 実際のところ、神以外の全ては荒れ果てた大海の波のようである。たとえその波が海中に残存する偶発的なものであり、(見方を変えれば)海とは別物であるとしても、wujūdや実在という点において、それは水と異なることはないということに、我々はほとんど疑問を抱かない[97]。

 しかし興味深いことに、ワリーウッラーは存在一性論の第二の解釈がスィルヒンディーの後継者たちによるものであると述べる。但し実際のところ、その解釈はイブン・アラビーが神の名と属性、そして宇宙に関して述べることと根本的に変わらない[98]。いずれにせよ、これら難解な議論を全て終えた後、ワリーウッラーは自身の存在一性論を以下のように纏める。

 理解を困難にするところの比喩や隠喩の全てが溶解し切った時、この(存在一性論の教義)は、可能的なるものの諸実在(al-ḥaqā’iq al-imkāniyya)[99]が無力且つ不完全であり、必然者の実在(al-ḥaqīqa al-wujūbiyya)[100]が最も完全且つ強力であるという点に纏められよう。それゆえ、可能的なるものの諸実在は非存在(a‘dām)であり、無数の存在者は唯一の「存在(wujūd)」を通じて顕現すると言える[101]。

 ワリーウッラーは存在一性論を論じる際、「展開存在(al-wujūd al-munbasiṭ)」[102]と神的本質(al-dhāt al-ilāhī)たる必然者の間の適切な関係性をめぐる問題をしばしば提起する。ワリーウッラーはここで、ジャーミー('Abd al-Raḥmān Jāmī, d. 1492)を含む多くのスーフィーたちが陥る問題を取り上げる。ワリーウッラーの見方によると、彼らは必然者からの顕現である展開存在と必然者自身を区別できていないという。

 アブドゥッラフマーン・ジャーミー師は、あらゆる存在者の形相(hayākil al-mawjūdāt)に浸透するところの、遍く展開する存在(al-wujūd al-‘āmm al-munbasiṭ)に関して詳細に説明した後、それは必然者そのもの(‘ayn al-wājib)であると述べた。これらの言葉によって存在一性論を支持するスーフィーたち(bi-hādhi-hi al-alfāẓ al-ṣūfiyyūn al-qā’ilūn bi-waḥdat al-wujūd)に対して、必然者の実在が無限定存在(al-wujūd al-muṭlaq) に他ならないことが明かされた時、彼らは神の一性の是認と多神崇拝の拒絶を証明する必要性を一切感じなくなった。それゆえ、神が有する二面性(ithnāniyya)と多性(ta‘ddud)の双方を認識することは、神の自己個体化(ta‘ayyun)や自己限定(taqayyud)を考慮することなしには不可能である。多に関して目撃・知覚・想像されたものは何であれ、相対的には存在するが、絶対的一者の側から見れば存在しない。真相は、無性であるところの非存在が絶対的一者の対極にあるということである[103]。

 ワリーウッラーの見方では、上記のような誤解が生まれる原因は、存在の二つの様相、すなわち「展開存在」と「絶対存在」の二つを混同しているからであり、それによってスーフィーたちはシャリーアの遵守を放棄してしまうのだという[104]。その理由は単純である。もし神の本質とそれによる無数の諸顕現の間に何ら相違がないとしたら、シャリーアの規範に従う動機など生じるはずがないからである。この問題は次章で詳細に検討する。ワリーウッラーはまた、神の顕現と神の名、及びその属性が顕現される場を区別しないスーフィーたちが誤りであるという考えを以下のように示す。

 展開存在が必然者と同一であると考える者は間違っている。なぜなら、その者は顕現者(ẓāhir)としての神とその顕現の場(maẓhar)を区別できていないからである[105]。

 ワリーウッラーのジャーミー批判は、スィムナーニー(‘Alā al-Dawla Simnānī, d. 1336)[106]がイブン・アラビーのことを、絶対存在とその顕現である慈愛の息吹を区別していないという理由で批判した史実と軌を一にする[107]。ムッラー・サドラーによれば、こうした誤解が生じた要因は、イブン・アラビーが「無限定存在(wujūd muṭlaq)」という表現を、必然者自身とその必然者の第一顕現——すなわち展開存在——の双方に適用したからであるという[108]。こうした分かりづらさの原因は“muṭlaq”という語にあり、この語は「何かによって条件付けられた」と「絶対的に無条件の」という二つの対照的意味で用いられるからである[109]。さらにワリーウッラーは、存在者という概念も神と可能的存在者の双方に適用されるがゆえに、前者と後者を同一視するという誤りを犯すスーフィーがいると論じる。

 存在者という概念は、その無限の適用可能性(bī al-iṭlāq al-‘āmm)ゆえに、永遠なる必然者(自身)に(もまた)適用することができる。それゆえ、彼らは必然者と存在者の双方が唯一のものであり、且つ双方が同一であると考えてしまう[110]。 

5)存在一性論と多性の問題:「一切は彼なり」のパラドックス(pp. 51-56)

 存在一性論をめぐる論争の一つに、[存在一性論では]絶対者と諸々の相対者(=宇宙)の双方に同等の地位が与えられているのではないかという主張があり、こうした事態は「一切は彼なり(hama ūst)」という有名な言葉で表現される[111]。しかし既に述べたように、優れた神学者たちは、神の超越性を肯定することなしに神の類似性(tashbīh)のみを認めることはほとんどない。シャーワリーウッラーは、スーフィーたちが存在一性論を支持する一方で、現実世界の多性を否定していないという主張を導くために、幾つかの議論を試みる。なぜなら、彼らにとって現実世界は非存在者との関係においてのみ「存在する」のであって、「真の存在(wujūd ḥaqīqī)」との関係においては[存在し]ないからである。

 スーフィーたちの発言は、可能的なるものの諸実在が非実在的であるということを示唆しておらず、当の諸実在は諸々の(純然たる)関係(iḍāfāt)であり、それは「存在(wujūd)」の混合物(lāḥiqa)である。というのも我々は、「火が空以外の何かであり、それら(=空と火)は空気以外の何かである」というスーフィーたちの言葉を述べているからである。(これと同じように、)人間は馬以外の何かである。そして、もし「存在」が全てを包括するとしたら、スーフィーたちは、諸々の関係の意味がその諸側面に関する対立を生むところの、こうした相違と争うことを望まむことはないだろう。このような意味[における関係]は、多性が実在的であり(al-kathra ḥaqīqa)、一性が仮構的である(al-waḥda i‘tibāriyya)という事実を明らかにする。多性の実在が、固有の諸存在(al-wujūdāt al-khāṣṣa)を構成するところの様々な諸判断(aḥkām)や事実上の相違、諸実在の変転などに見出される当の区別をまさに意味する時、「存在」の根幹(aṣl al-wujūd)と非存在者(‘adam)のうちに見える諸々の相違は、存在者たちの構造を完全に(包括するところの)唯一の展開存在(al-wujūd al-wāḥid al-munbasiṭ)に再び帰することとなる[112]。

 要するに、ワリーウッラーにとって、多性はその諸々の判断や徴(aḥkām wa āthār)が認識される程度には実在的であり、それは単なる非存在者とは区別されるという。しかし最も重要なのは、展開存在の実在が宇宙全体に浸透しているという点である。このことは必然者と可能的なるものの連続性を示唆しているが、それは前者が展開存在を介して後者にwujūdを付与しているからである。この点に関してワリーウッラーは次のように述べる。

 現実世界が絶対者と同一であるというスーフィーたちの言葉は、こうした見方に基づいている。「存在」から(現実世界の)多層的な諸階層に降下する固有の存在者というものを、彼らは否定するつもりはない。むしろ彼らは、ザイド(Zayd)とアムル(’Amr)がある観点においては類似する同種の生物であるが、別の観点においては異なると述べることで、自己降下と自己顕現(tanazzul wa ẓūhūr)が[神の]知的次元でなされるという点を説明しようとする。彼らは、人間と馬が動物性(ḥaywāniyya)という観点においては同一であり、勇気とライオンもまた、勇気という属性が双方に見出されるという点では同一であるとも述べる。同じように、彼らは現実世界が絶対者と同一であると言うが、そのことによって彼らは、現実世界[の実在性]が展開存在と同一であるということを意味する。しかしながら、同様に展開存在はその始源者たる絶対者(al-ḥaqq al-awwal)のうちに留まる。それゆえ、彼らは[絶対者と現実世界の間の]区別を完全に否定することはない[113]。このように理解するスーフィーらの一人は次のように述べた——「存在(wujūd)」の諸次元は各々の支配を有し、もし貴方がその(存在の)階層を保持しないとしたら、貴方は異端者である」[114]。

 上記の引用から、ワリーウッラーによれば、スーフィーたちは宇宙の多性を否定しないということが明らかになった。彼らが現実世界は神と同一であると言う時に想定されるのは、[絶対者ではなく]展開存在の方である。展開存在は絶対者の存在よりも下位の存在であり、さらに言えば、それは[絶対者の]実在のうちに留まる。ワリーウッラーが最後に引用した詩では、wujūdは一つしかないことが説明されており、そうでなければ、「存在の唯一性」というテーゼは不必要なものとなるだろう。しかし、この唯一なる「存在」は宇宙に生を授けるために降下することで、[自らをも]顕現させる[115]。それゆえ、そこには[存在]顕現の最上層から始まり、存在の最下層へと至る存在の諸次元(marātib al-wujūd)がある。重要なのは、wujūdの光があらゆる事物を包含する仕方で諸実在の各次元に顕現するという点である。ここで、展開存在と固有の存在者たちとの関係性の解明に光を当てておくのが適切であると思われる。ワリーウッラーは以下のように説明する。

 それら[固有の存在者たち]のうちの一つは、唯一の存在(al-wujūd al-wāḥid)であり、それは存在者たちの形相(hayākil al-mawjūdāt)を包含し、固有の存在者たちに先行する(mutaqaddam ‘alā al-mawjūdāt al-khāṣṣa)。当の固有の存在者たちは、その(展開存在の)普遍性によって(li’l-‘umūm-hi)[現出する]諸々の自己降下や自己個体化(tanazzulāt wa ta‘ayyunāt)である。この唯一の存在と諸々の本質(māhiyyāt)の関係の真相(anniyya)[116]に関して、後者は前者の(様々な)諸側面であり、その知的形相(al-ṣūrat al-‘ilmiyya)は認識可能であるが、それらがどのようなものであるか(kayfiyya)は知られることがない[117]。

 ワリーウッラーによれば、宇宙の多性は様々な様態を有する神名が顕現した結果であり、神名の一連の自己顕現(tajalliyāt)によって、他のあらゆる諸事物に実在性(fi’liyya)が付与されるという。

 現実世界の顕現に見える様態の多様性は、諸々の神的本質であるところの神名の多様性に起因する。それら(諸々の名)は各々異なる側面を有する。あらゆる結果は一つの(最終的な)結果に帰着する一方、(様々な)側面の全ては一つの(最終的な)側面(jiha)に帰着する。こうした[神名の]一側面は、表題を与えられるものとその物語が語られるものによってではなく、まさに諸々の表題と物語によって必然者から区別される。それゆえ、全ての実在性は純粋な一者に包含されるが、その一者とは必然者である[118]。

 存在一性論の支持者と批判者の対立の中心にあるのは、多性の問題あるいは存在一性論に対する適切な立場である。イブン・タイミーヤのような神学者やワリーウッラーと対立したウラマーは、存在一性論が絶対者の「存在」(wujūd al-Ḥaqq)と宇宙の間のあらゆる区別を曖昧にし、現実世界と神の同一性を明言していると考える。要するに彼らは、(「一切は彼より生じる」の表現に見えるように、)宇宙は神から生じるにも拘らず、[存在一性論では](「一切は彼なり」の表現に見えるように、)宇宙は神に還元されると考えられていると主張する。しかし、上記の引用においてワリーウッラーは、このように過度に単純化された存在一性論における二者の関係性を論駁するための重大な根拠を提示している。この問題は、ワリーウッラーを含むムスリム知識人たちにとって極めて重要である。というのも、もし神と現実世界の間に如何なる相違も存在しないとしたら、神を崇拝したりシャリーアに従ったりする必要性など生じるはずがないからである。それゆえ、ワリーウッラーは絶対者と宇宙の間の複雑な関係性についての説明に膨大な紙幅を費やす。すなわち彼は、存在一性論の世界観が宇宙の多性を否定しないがゆえに、シャリーアの価値をも保持するということを解き明かす。言い換えれば、存在一性論の支持者たちは神と被造物の間の区別をはっきりと認めるということである。なぜなら、そうした区別を設けないことはシャリーアの形骸化を招いてしまうからである。存在一性論をめぐる論争の源泉は全てこの点——神と現実世界は同一か否かという問題——に帰着する。こうした理由から、ワリーウッラーは絶対存在と展開存在の間の区別を明確化することに苦心している。存在一性論が究極的に探究するのは、神と現実世界の関係性やイスラームの信仰告白(shahāda)、そして神の超越性の問題である。それゆえ、ワリーウッラーの前時代人の一人であり、『一性の光(Nūr-i Waḥdat)』という論考でこれら全ての問題を説明したホージャ・フルドに着目するのが示唆的であると思われる。ホージャ・フルドによれば、wujūdの唯一性というのは、イスラームの根本信条「アッラー以外に神はなし(lā ilāha illā Allāh)」という文言への注釈として理解され得るという。

 祈念の道は次の通りである——「神はなし」、すなわち目撃の対象となるもの全ては、それらが[神の]本質の一性のうちに消え去り、その中に消融するという意味において存在しない。「アッラー以外に」、すなわち[神の]本質の唯一性がそれら諸事物の形相として顕現することで、それらは視覚を以て目撃されるようになる。それゆえ、それら諸事物は神のうちに顕現しているのではなく、神がそれら諸事物のうちに顕現しているのである。したがって、神は諸事物の顕現相でもあり非顕現相でもある。それら諸事物のうちにあるのは、神の顕現相と非顕現相に他ならない。ゆえに、それら諸事物は諸事物それ自体ではなく、むしろ本当のところは絶対者なのである。それら諸事物に与えられる名というのは見方に依存し、そうして与えられた名もまた、絶対者と同一である[119]。

 上記のように、ホージャ・フルドは諸事物が如何にして「彼、あるいは彼以外(huwā lā huwā)」になり得るのかという点を説明した後、神の至高なる無比性を確証する。

 一つの見方において、神はあらゆる相互的な関係性とも比較され得ず、宇宙と絶対者の間には如何なる相互的な関係性もない[120]。

 絶対者と宇宙の関係性について、ホージャ・フルドは以下のように述べる。

 絶対者と宇宙の関係性は水と雪の関係性のようなものであるか、あるいはむしろ、それよりも近しいものであるとさえ考えなければならない。…ある事象の発生と[その事象の発生源への]回帰は、無始無終の永遠性のうちに、あらゆる瞬間のうちに起こる。なぜなら、宇宙はまるで大海の波のように、瞬間ごとに真実在に回帰しては、再びその真実在から発出するからである[121]。

 宇宙の性質とその生成原理について、彼は以下のように述べる。

 絶対者は己れ自身の属性群(ṣifāt)を通じて己れ自身を知る。それら属性群は諸事物の実在である。そして、絶対者は己れ自身の属性群を通じて己れ自身を己れ自身のうちに顕す。このようにして顕れたものが宇宙である。それ以外のものが何処にあろうか?その他のものは如何にして存在するに至ったのだろうか?[122]

 ホージャ・フルドの見解では、タウヒード(tawḥīd)とは霊的確証の完成であり、その境地に至ると「我と汝」という範疇が絶対的真理への到達を妨げる障壁となることを認識することが可能となる。言い換えれば、二元性という幻想が消滅し、タウヒードの告白者は、そのタウヒードが告白されている対象以外の何ものでもなくなる。

 タウヒードとは一者の属性であり、私と貴方のどちらか一方の[属性]ではない。私と貴方[という二元性]が残存する限り、そこにあるのは[二者の]関係性であり、タウヒードではない[123]。

 最後に、ホージャ・フルドはアッタールの『鳥の言葉(Manṭiq al-Ṭayr)』における印象的な詩句を引用することで、霊的旅路の性質や旅人の真の「アイデンティティー」について考察する。

 30羽の鳥たち(sī murgh)がスィームルグ(Sīmurgh)を探しに飛び立った。彼らは宿駅(maqām)に降り立った時、自分たち[自身]がスィームルグ(Griffin)であるということを認識した[124]。

6)結論(pp. 56-57)

 本稿では、物議を醸してきたスーフィズムとシャリーアの関係性、及びワリーウッラーの存在一性論に対する立場について考察してきた。再三にわたって述べた通り、スーフィズム「対」シャリーアという問題は、各々が互いに相容れない二つの範疇であるという前提ゆえに生じる。その問題はまた、シャリーアがイスラーム法学(fiqh)やイスラーム法と同義であり、不変の規範や教義の体系を表すと考えられているために生じたという点も指摘した。この点については本稿でも示した通り、スーフィーたち自身がシャリーアを自らの霊的旅路にとって不可欠のものと見做しているという文献中の記述がその根拠となっており、さらに彼らの旅路はムハンマドの模倣(imitatio Muḥammad)にも基づいている。それに加えて、ここまで述べてきたように、多くの偉大なスーフィーたちが法学的問題にも通暁しており、ワリーウッラーもその中の一人であった。
 タサウウフをイスラームの内面と見做すスーフィーがいる一方、彼らの中にはタサウウフをシャリーアの内的真実であると主張する者もいる。ワリーウッラーのようなスーフィーたちは、イスラームの内面をタサウウフと同一視し、さらにそれを「イフサーン」と呼ぶこともあった[125]。また、存在一性論を受容する者はシャリーアの教義に不従順という訳ではないし、それは彼らに対する批判者が頻繁に主張することである。こうした混乱が生じる要因として、存在一性論の批判者たちの目には、当の教義が宇宙を神に還元することを意味し、それがタウヒードの意味——神の唯一性と超越性——をも包含しているという点が挙げられる。確かに、もしある者がこうした存在一性論の理解を信奉するならば、神への崇拝におけるシャリーアの規範や規則の遵守は全く意味をなさないだろう。こうした理由から、ワリーウッラーは神の超越性と宇宙の多性を保持するという正しい存在一性論の理解を詳しく論じると同時に、「真」のwujūdが神のみに属し、可能的存在者は「借り物」のwujūdを有するに過ぎないという点の証明に膨大な紙幅を費やす[126]。
 ワリーウッラーの存在一性論は、大枠としてはイブン・アラビー学派の潮流と軌を一にする一方、彼は別の角度からその問題に取り組んでいるようにも見える。カイサリーのようなイブン・アラビー学派の他の人物は、ワリーウッラーよりも簡明な叙述を心掛ける一方で、ワリーウッラーの説明は時として非常に分かり難く、他の思想家たちと全く同様のことを説明するために難解な専門用語が総動員されることがある。ワリーウッラーの見解では、存在一性論には主観的/客観的という二つの極があるのだという。また彼によれば、必然者と展開存在を一括りにしてしまうスーフィーがおり[127]、それは神と宇宙の同一視という過ちを犯すことになるという。実際のところ、宇宙全体を包み込むのは展開存在を通じて発出する神の自己顕現である。このようにして、ワリーウッラーは現実世界に対して神の超越性を保持する。
 当然のことだが、存在一性論は多性に対するジレンマをも提示する。存在一性論はwujūdが唯一であることを主張する一方、絶対者の超越性の保持をも志向する。それゆえ、我々は「彼、あるいは彼以外」[128]の束縛から永遠に逃れることはできない。諸々の実体は自らの"wujūd"の観点からは「彼」であり、このことはそれらが非存在ではないことを暗示する。しかし同時に、それらは「個別化されたwujūd」の一つであるがゆえに、「彼」にはなり得ず、このことはそれらの存在が限定や条件を課されていることを示唆する。その一方、絶対者のwujūdは「条件付けられていること」それ自体をも超越しており、絶対的に無限定なのである。


[1] ワリーウッラーの自伝として、Shāh Walī Allāh, Anfās al-‘Ārifīn (al-Juz‘ al-Laṭa’if fī Tarjamat al-‘Abd al-Ḍa‘īf), Urdu translation of the Persian original by Sayyid Muḥammad Fārūqī al-Qādirī, Lahore: al-Ma‘ārif, 1974がある。彼の生涯については、‘Abd al-Ḥayy Nadwī, Nuzhat al-Khawāṭir, vol. 6, Hydarabad, Deccan, 1957, pp. 398-415; Raḥmān ‘Alī, Tadhkira-yi ‘Ulamā-yi Hind, Lucknow: n. p., 1899, p. 250; S. A. A. Rizvi, Shāh Walī Allāh and His Times, Canberra: Ma‘arifat, 1980, pp. 203-228; Ghulam H. Jalbani, Life of Shah Waliyullah, Lahore: Ashraf, 1978; J. M. S. Baljon, Religion and Thought of Shāh Walī Allāh Dihlawī, Leiden: Brill, 1986, pp. 1-14; M. K. Hermansen (tr.), The Conclusive Argument from God (Ḥujjat Allāh al-Bāligha), Leiden: E. J. Brill, 1996, pp. xxiii-xxxvi; idem, Shāh Walī Allāh’s Treatises on Islamic Law, Louisville: Fons Vitae, 1996, pp. xxii-xxiiiなどを参照のこと。

[2] ワリーウッラーの改革運動については、例えばJonathan A. C. Brown, Misquoting Muhammad: The Challenge and Choices of Interpreting the Prophet’s Legacy, Oxford: Oneworld, 2014, passim; Abdulhasan A. Nadvi, Saviors of Islamic Spirit, vol. 4: Hakim-ul-Islam Shah Waliullah, Lucknow: Academy of Islamic Research & Publications, 2004, pp. 91-114などを参照のこと。

[3] Rizvi, Shāh Walī Allāh and His TimesやBaljon, Religion and Thoughtを除けば、ワリーウッラーに関して英語で書かれた「学術的な」研究論文はないに等しい。ワリーウッラーの全作品において、特にスーフィー形而上学や哲学、神学の分野に関して非常に多くの議論を展開しているにも拘らず、彼に関する研究蓄積が非常に乏しいという状況は驚きに値する。

[4] M. Ikrām Chagatai (ed.), Shah Waliullah (1703-1762): His Religious and Political Thought, Lahore: Sang-e-Meel Publications, 2005, passimでは、南アジア諸言語でなされてきたワリーウッラーに関する研究が概観されている。

[5] より詳しくは、Sayyid Abū al-A‘lā al-Mawdūdī, Tajdīd wa Iḥyā-yi Dīn, Lahore: Islamic Publisher Ltd., 1999, p. 89ff.; ‘Azīz Aḥmad, “Political and Religious Thought of Shāh Walī Allāh of Delhi,” The Muslim World 52, 1962, pp. 22-30などを参照のこと。

[6] インド・イスラームと「アイデンティティー」の問題に関する歴史研究については、Carl. W. Ernst, Eternal Garden: Mysticism, History, and Politics at a South Asian Sufi Center, Albany: SUNY Press, 1992, pp. 18-22; William C. Chittick, In Search of the Lost Heart: Explorations in Islamic Thought, Mohammed Rustom et al. (ed.), Albany: SUNY Press, 2012, pp. 153-154などを参照のこと。

[7] 特に、Walī Allāh, al-Tafhīmāt al-Ilahiyya, Hyderabad, Sindh: Shāh Walī Allāh Academy, 1967, vol. 2, pp. 135, 143, 246, 249, 261-271; idem, al-Budūr al-Bāzigha, Hyderabad, Sindh: Shāh Walī Allāh Academy, 1970, pp. 4-9; idem, al-Khayr al-Kathīr, Bijnor: Madina Press, 1933, pp. 36-39; idem, Lamaḥāt, Hyderabad, Sindh: Shāh Walī Allāh Academy, 1964, pp. 1-9; idem, Saṭa‘āt, Hyderabad, Sindh: Shāh Walī Allāh Academy, 1964, pp. 2-14などを参照のこと。

[8] Walī Allāh, Tafhīmāt, vol. 1, pp. 191, 212; vol. 2, 159, 257; idem, Lamaḥāt, pp. 60-70.

[9] Walī Allāh, Hama‘āt, Hyderabad, Sindh: Shāh Walī Allāh Academy, 1964, pp. 22-23; William C. Chittick, “The Five Divine Presences: From al-Qunawi to al-Qaysari,” The Muslim World 72, 1982, pp. 107-128.

[10] Walī Allāh, Ḥujjat Allāh al-Bāligha, vol. 1, Hermansen (tr.), The Conclusive Argument from God, pp. 37-48, 53-56, 287-298. アラビア語版として、Ḥujjat Allāh al-Bāligha, ‘Uthmān Jum‘a al-Dumayriyya (ed.), Riyadh: Maktaba al-Kawthar, 1999がある。『究極の神の明証』は社会的・法的問題を主に扱った作品であるが、そこにはイマージュの世界(‘ālam al-mithāl)や溢出、霊魂(rūḥ)、そして死の性質といった学術的考察に値するような議論が見られる。本書は広範囲にわたる知識人たちの関心を惹く目的で執筆されたが、重要なことに、そこでは「イマージュの世界」といった概念のようなスーフィーの思想は、預言者のハディース集(aḥādīth)に根拠があるということが証明されている。ワリーウッラーにおける「イマージュの世界」の概念については、Fuad S. Naeem, “The Imaginal World (‘Ālam al-Mithāl) in the Philosophy of Shāh Walī Allāh al-Dihlawi,” Islamic Studies 44(3), 2005, pp. 363-390が参考になる。また、ワリーウッラーの神秘心理学に関する意味論的分析については、M. K. Hermansen, “Shāh Walī Allāh’s Theory of the Subtle Spiritual Centers (Laṭā’if): A Sufi Theory of Personhood and Self-Transformation,” Journal of Near Eastern Studies 1988, pp. 1-25を参照のこと。

[11] Baljonの研究はワリーウッラーの神秘思想に対して一定の関心を示してはいるものの、残念なことに翻訳や術語の解釈における誤りが目立つ。別の角度から見ると、このことは驚くには値しないと考えることもできる。なぜなら、現代のインド亜大陸における学術研究は、イギリス式の教育の影響を大いに受けたせいか、政治的関心の外にある思想にほとんど興味を示していないからである。

[12] ワリーウッラーの存在一性論に関する先行研究については、Rizvi, Shāh Walī Allāh and His Times, pp. 265-267; Baljon, Religion and Thought, pp. 56-63などがある。前者は大部な研究書ではあるものの、ワリーウッラーを中心に論じたものではない。その大部分はワリーウッラーの思想に影響を与えた政治的・社会的背景を理解するには有用であるが、存在一性論についての議論は僅か数頁に限られており、当の教義の哲学的意義を明らかにしているとは言えない。この点に関してはBaljonの研究の方が参考になるだろうが、どちらの研究も存在一性論の議論を、彼の『神の教導』(に加えて他の作品への数度の言及)のみに依拠して展開しており、存在一性論に対抗する理論であるスィルヒンディーの目撃一性論(waḥdat al-shuhūd)と如何なる関係性にあったかということ示すだけで手一杯のように思われる。対照的に、本稿はワリーウッラーにおける存在一性論の思想をイブン・アラビー学派のコンテクストの中に位置付けようとするものであり、アブドゥッラフマーン・ジャーミー(d. 1492)といった大きな影響力を持った人物に対するワリーウッラーの反応の解明にも光を当てていきたい。

[13] これらの語の説明に関しては、本稿の第4節を参照のこと。

[14] 自然の深遠な法則には、特にニュートンの万有引力の法則や運動の法則、そしてあらゆる熱力学の法則も含まれる。重要な点として、自然法則があらゆる自然現象に影響を及ぼすように、存在一性論のようなメタ教義は、例えばその基本的枠組みに沿うべき自己の理論を有する必要がある。それはすなわち、こうした枠組みにおける自己の概念が二元的であってはならないということであり、もし二元的であるならば、存在一性論の宇宙論的原則が損なわれることになるからである。

[15] ホメイニーによって書かれた存在一性論に関する作品として、Āyātullāh Khumaynī, Misbah al-Hidāya ilā al-Khilāfa wa al-Walāya: Ta’līfāt Āyātullā al-Khumaynī, Beirut: Mu‘assasat al-Wafa’, 1983; idem, Ta‘līqāt ‘alā Sharḥ “Fuṣūṣ al-Ḥikam” wa “Miṣbāḥ al-Uns” li-Āyātullā al-Khumaynī, Muḥammad Ḥasan Rahīmiyyān (ed.), Tehran: Pasdar-i Islām, 1985などがある。他方、アフマド・タイイブは 存在一性論に関する自身の著作に加えて、フランス語で書かれたイブン・アラビーの研究書二冊をアラビア語に翻訳している——Aḥmad al-Ṭayyib (tr.), Mu’allafāt Ibn ‘Arabī Tārīkh-hā wa Taṣnīf-hā, Cairo: Dār al-Ṣābūnī/ Dār al-Hidāya, 1992 (Historie et classification de l’oeuvre d’Ibn Arabi: étude critique); idem (tr.), al-Wilāya wa al-Nubuwwa ‘inda al-Shaykh Muḥyī al-Dīn ‘Arabī, Marrakesh: Dār al-Qiba al-Zarqā, 1998 (Le sceau des saints, Prophétie et Sainteté dans la doctrine d’Ibn ‘Arabī); idem, Dirāsāt al-Faransiyyīn ‘an Ibn ‘Arabī, Cairo: Dār al-‘Ulūm al-Qāhira, 1996. アフマド・タイイブの学問的背景については、https://themuslim500.com/profiles/ahmad-muhammad-al-tayyeb/を参照のこと。加えて、インド・イスラーム党(Jamā‘at-i Islāmī Hind)の指導者アブドゥルハック・アンサーリー('Abd al-Ḥaqq Anṣārī, d. 2012)は、存在一性論について幅広く論じた著作を残している—— Abudul Haq Ansari, Sufism and Shariah: A Study of Shaykh Ahmad Sirhindi’s Effort to Reform Sufism, Leicester: The Islamic Foundation, 1985, pp. 101-139; idem, “Shāh Walī Allāh Attempts to Revise Waḥdat al-Wujūd,” Arabica, 1988, pp. 197-213. 彼の生涯については、https://jamaateislamihind.org/eng/prof-m-abdul-haq-ansari-is-no-more/を参照のこと。アンサーリーの研究では、ワリーウッラーの存在一性論について考察されているものの、彼の理解を当の教義が辿ってきた歴史的発展のコンテクストの中に位置付ける試みはなされていない。さらにアンサーリーは、存在一性論に対して明らに偏った見方を示しているため、存在一性論の概念分析において正確さを欠いていることは否めない。

[16] 例えば、Muzaffar Alam, “The Debate within: a Sufi Critique of Religious Law, Tasawwuf and Politics in Mughal India,” South Asian History and Culture 2(2), 2011, pp. 138-159; Ansari, Sufism and Shariahなどを参照のこと。

[17] この問題に関しては、本稿の第2節でより詳しく分析される。「シャリーア」という語は英語の語彙において既に通用しているため、アラビア文字の転写規則は適用しない。

[18] 例えば、Simon Digby, “Abd al-Quddus Gangohi (1456-1537 A. D.): The Personality and Attitudes of a Medieval Indian Sufi,” Medieval India: A Miscellany 3, 1975, pp. 1-66を参照のこと。

[19] Alam, “The Debate within: a Sufi Critique of Religious Law,” p. 144ff.

[20] この問題の包括的分析については、本稿の第3節を参照のこと。

[21] シャリーアは今や非常によく知られた語ではあるが、残念なことに、研究者サークルの間でさえこの語が「イスラーム法」と翻訳あるいは定義されることがあり、大きな混乱を招いている。そうした理由から、第一にシャリーアとは何を意味するのか、ということをはっきりさせておく必要があると考える。シャリーアやその定義に関する諸問題について幅広く論じられた研究として、Bernard G. Weiss, The Search for God’s Law: Islamic Jurisprudence in the Writings of Sayf al-Dīn al-Āmidī, Salt Lake City: University of Utah Press, 1992; Wael Hallaq, “What is Sharia?” Yearbook of Islamic and Middle Eastern Law, 2005-2006, vol. 12, Leiden: Brill, 2007, pp. 151-180などがある。

[22] 分かり易い例は、社会的・精神的作法を意味する「アダブ(adab)」である。「アダブ」は複数の意味を持つ幅広い語であり、ムスリムたちの社会生活においては極めて重要な役割を果たしている。

[23] すなわち存在一性論のこと。

[24] 詳しくは、本稿の第5節を参照のこと。

[25] 18世紀ムガル朝インドにおけるイスラームについては、Muḥammad Hashīm Khāfī Khān, Muntakhab al-Lubāb, 4 vols, Calcutta: The College Press, 1860-74; Mīr Ghulām Ḥusayn Khān, Siyar al-Muta’akhkhirīn, Delhi: Idārah-yi Adabiyāt-i Dehli, 1973の二つは必須の資料であり、本節でも適宜参照した。

[26] Walī Allāh, Ḥujjat, p. 8 (trans. Hermansen).

[27] Ibid., p. xxiv; Rizvi, Shāh Walī Allāh, ch. 4; Walī Allāh, Anfās, p. 202ff; idem, Tafhīmāt, vol. 1, pp. 15-16.

[28] Walī Allāh, Ḥujjat, pp. 7-10; Rizvi, Shāh Walī Allāh, p. 289ff.

[29] カーディー(qāḍī)とは、イスラーム法によって裁定を下すムスリム裁判官のこと。

[30] Hermansen, Shāh Walī Allāh’s Treatises on Islamic Law, pp. xxviii-xxxii and p. 127ff; Rizvi, Shāh Walī Allāh, pp. 245–249.

[31] Walī Allāh, Fuyūd al-Ḥaramayn, Karachi: Muḥammad Sa’īd, n. d., pp. 127, 228–238, 297–298; idem, Tafhimāt, vol. 2, pp. 59, 112, 136-137, 145, 150, 160.

[32] Rizvi, Shāh Walī Allāh, pp. 313-314.

[33] Walī Allāh, Izālat al-Khafā’ ‘an Khilāfat al-Khulafā’, Lahore: Suhail Academy, 1976.

[34] Shāh Walī Allāh, Fuyūd, p. 228; cited also in Rizvi, Shāh Walī Allāh, p. 249.

[35] 例えば、Mahmood A. Ghazi, Islamic Renaissance in South Asia (1707-1867): The Role of Shah Wali Allah and His Successors, New Delhi: Adam Publishers, 2004, pp. 52-65を参照のこと。

[36] Walī Allāh, Ḥujjat, p. xxviii.

[37] ここで言うスーフィズムには、存在一性論の世界観も含まれるということを付け加えておきたい。

[38] この点に関しては、Walī Allāh, Hama‘āt, pp. 11-14, 16-20を参照されたい。その中でワリーウッラーは、スーフィズムの伝統全体の起源とその発展について解説している。また、シャリーアとタリーカの関係性については、Sayyid Ḥaydar Āmulī (d. 1385), Asrār al-Sharī‘a wa Aṭwār al-Ṭarīqa wa Anwār al-Ḥaqīqa, Riḍā Muḥammad Ḥidarj (ed.), Beirut: Dār al-Ḥādī, 2003, pp. 8-15, 73-89, 120-128; ‘Abd al-Salām Muḥammad al-Bakkārī, al-‘Aqīda, al-Sharī‘a, al-Taṣawwuf ‘inda al-Imām al-Junayd Abī al-Qāsim al-Khazzāz al-Baghdādī, Casablanca: Markaz al-Turāth al-Thaqāfī al-Maghribī, 2008, p. 25ffなどを参照のこと。

[39] イスラーム法史におけるガザーリーの意義については、Michael Cook, Commanding Right and Forbidding Wrong in Islamic Thought, Cambridge, U. K.: Cambridge University Press, 2000, p. 340ff. ガザーリーはまた、al-Mankhūl min Ta‘līqāt al-Uṣūlとal-Mustafa min ‘Ilm al-Uṣūlという二冊の法学書を著している。

[40] イブン・アラビーの法学思想については、その広大さのため、未だ十分な検討がなされているとは言えないが、この分野における有用な研究は幾つか出ており、例えばEric Winkel, Islam and the Living Law: The Ibn al-Arabi Approach, Karachi: Oxford University Press, 1997, chaps. 3-4; idem, “Ibn ‘Arabi’s Fiqh: Three Cases from Futūḥāt,” Journal of the Muhyiddin Ibn ‘Arabi Society 13, 1993などがある。

[41] ルーミーとシャリーア、もしくは外的イスラーム一般との関係性については、Franklin D. Lewis, Rumi: Past and Present, East and West; The Life, Teachings, and Poetry of Jalal al-Din Rumi, Oxford: Oneworld, 2000, passim; Annemarie Schimmel, Rumi’s World: The Life and Works of the Great Sufi Poet, Boston: Shambala, 2001, passimなどを参照のこと。

[42] アフマド・ザッルークは第一世代のスーフィーであったと同時に偉大な法学者でもあった。彼については、Scott Kugle, Rebel between Spirit and Law: Ahmad Zarruq, Sainthood, and Authority in Islam, Bloomington: Indiana University Press, 2006, pp. 11-220を参照のこと。

[43] シャアラーニーは法学書を何冊か著しているが、最も有名なのはal-Mīzān al-Kubrā, ‘Abd al-Waris Muḥammad ‘Alī (ed.), Beirut: Dār al-Kutub al-‘Ilmiyya, 1998であろう。彼の生涯については、M. Winter, “al-Sha‘rānī,” in Encyclopedia of Islam, New Edition, Leiden: E. J. Brill, 1954-2004 (以降El2と略記), loc. cit.; Michael Winter, Society and Religion in Early Ottoman Egypt: Studies in the Writings of ‘Abd al-Wahhāb al-Sha‘rānī, New Brunswick, NJ: Transaction Books, 1982, p. 10ffなどを参照のこと。

[44] このような人物は無数にいるが、彼らの諸作品や社会的地位に鑑みて、シャリーアとスーフィズムとの間に「本質的」対立はないということが示されていることは確かである。

[45] イスラーム史においてこうした現象は至る所で見られた。ハディースあるいはその学者の様々な地位については、Ibn Ḥajar al-ʿAsqalānī, Tahdhīb al-Tahdhīb, 12 vols., Muṣṭafā ʿAbd al-Qādir ʿAṭā (ed.), Beirut: Dār al-Kutub al-ʿIlmiyya, 1994, passimを参照のこと。特定のハディースの真正性をめぐる論争については、Imām Nawawī, al-Tarkhīṣ bi'l-Qiyām li-Dhawī al-Faḍl wa al-Mizya min Ahl al-Islām, Aḥmad Rātib Ḥammūsh (ed.), Damascus: Dār al-Fikr, 1982, p. 40ffを参照のこと。初期ムスリムの伝承主義者と法学者の地位をめぐる論争については、Ibn Ṣalāh, ʿUlūm al-Ḥadīth li-Ibn al-Ṣalāḥ Abī ʿAmrū ʿUthmān ibn ʿAbd al-Raḥmān al-Shahrazūrī, Beirut: al-Madīna, al-Maktaba al-ʿIlmiyya, 1972, passimがある。

[46] 例えば、Muḥammad B. ʿAbd al-Karīm al-Shahrastānī, al-Milal wa al-Niḥal, vol.1, Muḥammad Fahmī (ed.), Beirut: Dār al-Kutub al-ʿIlmiyya, 1992, pp. 38-132; Walī Allāh, al-lnṣāf fi Bayān Sabab al-Ikhtilāf, Lahore: Hi’at al-Awqāf bi-Ḥukūmat al-Panjāb, 1971などを参照のこと。また、Hermansenによる同書の翻訳であるShāh Walī Allāh’s Treatise on Islamic Law, chaps. 1-3, 3-43やCook, Commanding Right and Forbidding Wrong in Islamic Thought, pp. 87-105, 307-459なども比較参照のこと。

[47] すなわち、スーフィズムはイスラームそれ自体と同程度に多様であるが、このことは存在一性論を受容するスーフィーたちが何らかの仕方でイスラームの教説に忠実ではないということを意味しない。

[48] 法学者たちについて、あるスーフィーは次のように述べている——「法学者は自分自身に対して寛容でなければならないし、宗教における自身の立ち位置を把握する必要もある。つまり、法学者は真の人間が体得したものを自身も体得するまでは、神秘主義のような高尚な領域に無闇に手を突っ込むべきではないし、そうしたことは彼の知識の範囲を超えている。」(Muḥammad b. ʿAlī al-Khurūbī (d. 1556), al-Risāla al-Khurūbiyya, as cited in The Qurʾān and the Prophet in the Writings of Shaykh Aḥmad al-‘Alawī, Khalid Williams (tr.), Cambridge: Islamic Texts Society, 2013, p. 115.)

[49] Walī Allāh, Hama’āt, pp. 11-12.

[50] 強調は筆者。この場合、スーフィズムとイフサーンは同一視されている。

[51] Walī Allāh, Alṭāf al-Quds, Gujranwala: Madrasa Nuṣrat al-‘Ulūm, 1964, p. 53; G. H. Jalbani and D. Pendelberry (tr.), The Sacred Knowledge, London: Octagon Press, 1982, pp. 25-26.(原文のペルシア語に基づいて大幅に改訳した。)

[52] Ansari, Sufism and Shariah, p. 6.

[53] 確かに、Arthur Buehler, “Aḥmad Sirhindī: A 21st-Century Update,” Der Islam 86, 2009, pp. 122-141やDavid Damrel, “The ‘Naqshbandi Reaction’ Reconsidered,” in David Gilmartin and Bruce Lawrence (ed.), Beyond Turk and Hindu, Gainesville, FL: University Press of Florida, 2000, pp. 176-198といったスィルヒンディーに関する研究では、[スーフィズムやスーフィーたちに対する]こうした見方が扱われているものの、スーフィズムとシャリーアの間にあると主張される緊張関係は、研究者たちに様々な問いを提起し続けている。この点に関しては、BuehlerとDamrelの研究の後に発表されたAlamの研究(The Debate within)において示されている。

[54] Alam, The Debate Within, p. 144ff.

[55] Ibid., p. 144.

[56] Michael Chodkiewicz, An Ocean Without Shore: Ibn ‘Arabi, the Book and the Law, David Streight (tr.), Cambridge: Islamic Texts Society, p. 21.

[57] Mahmood Al-Ghorab, “Muhyiddin Ibn ‘Arabi Amidst Religions (adyān) and Schools of Thought (madhāhib),” in Stephen Hirtenstein and Michael Tiernan (ed.), Muhyiddin Ibn ‘Arabi: A Commemorative Volume, Shaftesbury: Element Books Limited, 1993, pp. 199-227.

[58] Ibid., p. 200.

[59] Chittick, In Search of the Lost Heart, p. 74.

[60] 詳しくは、脚注30を参照のこと。

[61] Al-Ghorab, “Muhyiddin Ibn al-‘Arabi Amidst Religions (adyān) and Schools of Thought (madhāhib),” passim.

[62] ホージャ・フルドはスィルヒンディーのスーフィー導師バーキー・ビッラー(Bāqī Billāh, d. 1603)の息子であり、存在一性論の優越性を主張し続けた。詳しくは、Chittick, In Search of the Lost Heart, p. 154を参照のこと。

[63] Ibid., pp. 158-159.

[64] Ibid., pp. 168-169.

[65] スィルヒンディーの存在一性論については、Yohanan Friedmann, Shaykh Ahmad Sirhindi: An Outline of His Thought and a Study of His Image in the Eyes of Posterity, Montreal: McGill University Press, 1971, pp. 569–577を参照のこと。

[66] Aḥmad Sirhindī, Maktūbāt-i Imām Rabbānī in Arthur Buehler (tr.), Revealed Grace: The Juristic Sufism of Ahmad Sirhindi, Louisville: Fons Vitae, 2011, pp. 106, 125.

[67] つまり、ここまでの議論によって、スーフィーたちは存在一性論をイスラーム思想の中心に位置付けていることが明らかになった、ということ。

[68] 本節で扱う存在一性論についての議論は、Chittickがイスラーム初期からその後の時代における存在一性論という語の「歴史」を扱った先駆的・網羅的な研究に依拠している。さらに興味をお持ちの読者諸賢には、William C. Chittick, “A History of the Term Waḥdat al-Wujūd,” in In Search of the Lost Heart, pp. 71-88を参照されることをお勧めする。ワリーウッラーの存在一性論について論じるためには、この用語の歴史や意味合いに関する基礎的知識を要するため、この点についての多少の導入的説明をしておく必要があると思われる。

[69] William C. Chittick, “Waḥdat al-Shuhūd,” in EL2, loc. cit.

[70] こうした定義は、(当の言い回しそれ自体は用いられなかったが)最初期におけるwaḥdat al-wujūdの描写を幾つか検討することでより鮮明になると思われる。

[71] 詳しくは、Janis Esots, “Mulla Ṣadra’s Teaching on Wujūd: A Synthesis of Philosophy and Mysticism,” Ph. D. diss., Tallinn University, 2007, pp. 25-26を参照のこと。

[72] Muḥammad b. al-Ḥusayn Sulamī, Ṭabaqāt al-Ṣūfīyya, Leiden: E. J. Brill, 1960, pp. 83-90.

[73] Chittick, “A History of the Term Waḥdat al-Wujūd,” p. 71.

[74] S. de Laugier de Beaureceuil, “ʿAbdallāh Anṣārī,” in Encyclopaedia Iranica, available online at http://www.iranicaonline.org/articles/abdallah-al-ansari.

[75] この言葉は様々な著述家たちによって頻繁に引用されている。例えば、‘Ayn al-Qudāt Hamadānī, Tamhīdāt, p. 256; al-Ghazālī, Mishkāt al-Anwār, Abū ’Alā al-Afīfī (ed.), Cairo: al-Dār al-Qawmiyya, 1964, pp. 55などを参照のこと。また、Ghazālī, The Niche of Light, p. 16; idem, Iḥyā ‘Ulūm al-Dīn, vol. 4, p. 230も比較参照されたい。この言葉とそれに関連するより詳細な議論については、Qāsim Kākā’ī, Waḥdat-i Wujūd bi-Riwāyat-i Ibn ‘Arabī wa Māyistar Ikhārt, Tehran: Hirmis, 2002, pp. 148-171を参照のこと。

[76] Anṣārī, Ṭabaqāt al-Ṣūfīyya, pp. 172, 174, 180 as cited in Chittick, “A History of the Term Waḥdat al-Wujūd,” p. 72.

[77] al-Ghazālī, Mishkāt al-Anwār, p. 55.

[78] Ibn ‘Arabī, al-Futūḥāt al-Makkiyya, vol. 2, Beirut: Dār al-Ṣādir, n. d., pp. 54, 69, 114, 160, 216, 516 etc.

[79] 注意すべきは、スーフィー自身にとって、こうした発言は何の問題も引き起こさないということである。なぜなら、彼らにとってタウヒードは「絶対者以外に真実在的であるものは何もない」という意味に理解されているからであり、それはすなわち、唯一の真実在があるということを意味するからである。但し「相対的にのみ実在的」であるところの現実世界の正確な存在論的位置については、次のパラグラフで解明することとしたい。

[80] Chittick, “A History of the Term Waḥdat al-Wujūd,” pp. 72-73.

[81] 強調は筆者。

[82] Ibn ‘Arabī, al-Futūḥāt al-Makkiyya, vol. 3 (Beirut edition), p. 151, as cited in Chittick, “A History of the Term Waḥdat al-Wujūd,” pp. 76-77(若干の改訳あり).加えて、William C. Chittick, The Sufi Path of Knowledge: Ibn al-‘Arabī’s Metaphysics of Imagination, Albany: SUNY Press, 1989, p. 368も参照のこと。

[83] Chittick, “A History of the Term Waḥdat al-Wujūd,” p. 83ff.

[84] 例えば、Chittick, “Waḥdat al-Shuhūd,” in EL2, loc. cit.を参照のこと。また、スィルヒンディーの著作におけるtawḥīd-i wujūdīとtawḥīd-i shuhūdīの間の差異については、Aḥmad Sirhindī, Intikhāb-i Maktūbāt-i Shaykh Aḥmad Sirhindī, Faḍl al-Raḥmān (ed.), Karachi: Iqbāl Academy, 1968, p. 44ffを参照のこと。

[85] Ibid. ワリーウッラーとスィルヒンディーの存在一性論や目撃一性論に対する理解の相違点や類似点については、より精緻な分析が必要である。但し、残念ながらこの点は本稿の議論の対象外である。

[86] 具体的に新たな内容を示している訳ではないが、ワリーウッラーは自身の多くの著作において存在一性論に言及している。例えば、Walī Allāh, al-Budūr al-Bāzigha, pp. 4-11; idem, Lamaḥāt, pp. 1-8; idem, Saṭa‘āt, pp. 2-14などに存在一性論に関する記述が見られる。また注意すべきは、『存在一性論と目撃一性論の調和(Fayṣala-yi Waḥdat al-Wujūd wa al-Waḥdat al-Shuhūd)』という論考が実際にはワリーウッラーの『存在一性論と目撃一性論の確証に関するマダニーの書簡(al-Maktūb al-Madanī fī Taḥqīq Waḥdat al-Wujūd wa Waḥdat al-Shuhūd)』の翻訳であるということであり、さらにその論考はイスマーイール・マダニー(Effendī Ismā‘īl al-Rūmī al-Madanī, 没年不詳)という人物からの「存在一性論と目撃一性論の和解は可能か否か」という問いに対する答えでもあるということでもある。そして、この論考はワリーウッラーの『神的教導』に再掲されており、それを筆者は本稿においても用いた。この点に関しては、Baljon, Religion and Thought, p. 60も参照のこと。

[87] Walī Allāh, Tafhīmāt, vol. 2, p. 263.

[88] 目撃一性論やスィルヒンディーの当の教義に対する立場に関しては、Chittick, “Waḥdat al-Shuhūd,”; Friedmann, Shaykh Aḥmad Sirhindīなどを参照のこと。

[89] このような存在一性論理解はスィルヒンディーに端を発すると思われるが、両者の関係性についての詳細な考察は本稿の論旨から外れる。

[90] ワリーウッラーは「哲学者」とスーフィーを明確に区別しているため、ここではḥakīmという語を「スーフィー知識人」と訳している。

[91] 哲学(falsafa)におけるfi‘liyya概念は、wujūdが有する二つの側面のうちの一つであり、もう一つの側面はquwwa(潜在性)である。当該コンテクストでは、fi‘liyyaを有する存在者の全ては神にその顕現の源があるということになる。

[92] nafs al-amrは「事物それ自体」もしくは「あるがままの事物」を意味する論理学の用語であり、事物が心の中に存在するのか、それとも外的世界に存在するのかということは問われない。また、nafs al-amrは英語への翻訳が特に不可能な用語であるとも言える。

[93] Walī Allāh, al-Khayr al-Kathīr, pp. 36-37.

[94] この点に関しては Chittick, The Sufi Path of Knowledge, pp. 74, 80も参照のこと。

[95] Walī Allāh, Tafhīmāt, vol. 2, pp. 263-264.

[96] Ibid., pp. 263, 267, 273-274. このことは言い換えれば、可能的存在は自身の如何なるwujūdも持たないということである。この種の形而上学において、彼らのwujūdは絶対者の「存在」(al-wujūd al-Ḥaqq)によって成立している。

[97] Dāwūd b. Maḥmūd al-Qayṣarī, Rasā’il-i Qayṣarī, Tehran: Intishārāt-i Anjuman-i Islāmī-yi Ḥikmat wa Falsafah-yi Īrān, pp. 12-13.

[98] Walī Allāh, Tafhīmāt, vol. 2, p. 264.

[99] 可能存在に対するもう一つ別の表現、すなわちmumkin al-wujūdである。

[100] 必然的実在とはすなわち、必然存在のことである。

[101] Walī Allāh, Tafhīmāt, vol. 2, p. 264.

[102] al-Wujūd al-munbasiṭは「慈愛遍き息吹(al-nafas al-raḥmānī)」とも呼ばれる。天使や楽園、そしてあらゆる実体を包含する宇宙全体は、この実在を通じて顕現する。このal-wujūd al-munbasiṭという表現は「配置された存在(deployed exsistence)」とも訳され得る。別の観点からは、al-wujūd al-munbasiṭは神の行為(fi‘l Allāh)としても理解可能である。

[103] Walī Allāh, al-Khayr al-Kathīr, p. 38. ジャーミーの存在一性論については、‘Abd al-Raḥmān al-Jāmī, Naqd al-Nuṣūṣ fī Sharḥ Naqsh al-Fuṣūṣ, William C. Chittick (ed.), Tehran: Imperial Iranian Academy of Philosophy, 1977(特にp. 65ff)を参照のこと。

[104] Walī Allāh, al-Khayr al-Kathīr, p. 37-38.

[105] Ibid., p. 39.

[106] J. van Ess, “Ala-Al-Dawla Semnani,” in The Encyclopedia Iranica(https://www.iranicaonline.org/articles/ala-al-dawla-semnani).

[107] Ṣadr al-Dīn Shīrāzī (Mullā Ṣadrā), Īqāz al-Nā’īmīn, Tehran: Anjuman-i Islāmī-yi Ḥikmat wa Falsafa-yi Īrān, 1985, p. 19ff; idem, al-Ḥikma al-Muta‘āliya fī al-Asfār al-Aqliyya al-Arba‘a, Ghulām Riḍā Āwānī et al. (ed.), Tehran: Bunyād-i Ḥikmat-i Islāmī-yi Ṣadrā, 2001, vol. 2, p. 354ff.

[108] Ṣadrā, Īqāz, pp. 20-24.

[109] すなわち、無限定存在(wujūd muṭlaq)は必然存在(wājib al-wujūd)あるいは展開存在のいずれかを指すということである。もしくは、それが「絶対的に条件付けを欠いた存在(wujūd lā bi-sharṭ maqsamī)」と「非限定相の存在(wujūd lā bi-sharṭ qismī)」の各々を指しているということである。

[110] Walī Allāh, al-Khayr al-Kathīr, p. 39.

[111] ザイヌッディーン・ハーフィー(Zayn al-Dīn Khwāfī, d. 1435)というスーフィーは、「一切は彼なり」に対抗して「一切は彼より生じる」の立場を熱烈に支持した。この「一切は彼より来る」という表現は、Anṣārī, Intimate Conversations (Munājāt), W. M. Thackson (tr.), New York: Paulist Press, 1978, p. 215; Annemarie Schimmel, Mystical Dimensions of Islam, Chapel Hill: University of North Carolina Press, 1975, pp. 147, 274, 283, 362, 376などに見られる。

[112] Walī Allāh, Tafhīmāt, vol. 2, p. 275.

[113] Ibid., pp. 275-276.

[114] Ibid., p. 276.

[115] この記述の「緊張状態」は、「降下という行為」が一時的な出来事であることを示唆してはいるものの、実際にそれは永遠的な出来事なのである。

[116] "Anniyya"の文字通りの意味は「それら性/それらであること」。

[117] Walī Allāh, Tafhīmāt, vol. 2, p. 268.

[118] Walī Allāh, al-Khayr al-Kathīr, p. 37.

[119] Khwāja Khurd, Nūr-i Waḥdat, p. 162 as translated in Chittick, In Search of the Lost Heart.

[120] Ibid., p. 165

[121] Ibid., p. 164.

[122] Ibid., p. 161.

[123] Ibid., p. 167

[124] Ibid., p. 161. Cf. Farīd al-Dīn Aṭṭār, Manṭiq al-Ṭayr, M. J. Mashkūr (ed.), Tehran: n. p., 1337 sh., p. 260ff.

[125] 詳しくは、本稿の第3節を参照のこと。

[126] つまり、神から借りられたということ。

[127] 詳しくは、本稿の第5節を参照のこと。

[128] 「彼、あるいは彼以外」とは、人間を含む宇宙の存在論的地位であり、その地位とは究極的には両義的なものである。(上記のような理由から、)我々は宇宙に「絶対的な」独在性を認めることも、逆にそれを神であると断言することもできない。

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