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なんかこう、気持ちの動きを言葉にしてみたかった

コロナとの生活に慣れてきた今日、早朝散歩という余生ルーティンが加わりつつあるリューキですおはこんばんにちは。

「ロバート・ツルッパゲとの対話」

この本を読んでなんか思うところがあって文章にして吐き出してみたくなった。いつもなら吐き出してみたくなる気持ちで終了するところ、しっかり文字にしている。ヒマってすごい。

まずこの本、なんの本なの?っていうところからなのだけど、読了してもよくわかりません。なんなの?これ

著者の写真家でありアートディレクターであるワタナベアニさんが心に飼っている架空の哲学者、ロバート・ツルッパゲとの対話と見せかけた冗談を交えた風刺画のような。

日本人的なダサいとこを連ね、

「じゃあどうすりゃいいかって、そりゃお前哲学っしょ。知を愛しなさいよ。知ることも考えることもしないからダサいんじゃ」みたいなことが書いてある。

グサってくるような批判もあるけど、美意識を研ぎ澄ますには切り捨てるものをはっきりさせとかないといかんのだなと改めて感じる。

思うところがあるというのは、後書きの一節

「読んで役に立つ(本)ってのは全般的にダサいんだよ」


僕たちは今、コロナに直面して、急激に世界の構造が変わっていく様を目の当たりにしている。

今まであった、「理屈はわかるけど、実現するには色々大変だから時間かかるよね」な次の未来のはなし。

AIによる無人化、ベーシックインカム、テレワーク、VR。

こういった類の、もうちょっとかかるはずだった未来が急激に押し寄せてきているのを実感しているのは、僕だけではないはず。

アフターコロナの話は良識あるひとたちが色々喋ってくれているので割合するとして、僕がしたいのはもっと漠然とした話。

僕たちのような一般市民(というか僕に至ってはアラサー職歴無しフリーターのド底辺)が今やるべき事はなんだろうかというと、「役に立たない」を研ぎ澄ませることにあると思う。

概念的な意味での「役に立つ」という事はもう人間の歴史の中である種、過去に極めた人間がいることによって出尽くしていて、その事柄には情報革命(スマホ)によって、簡単に手に取れる時代になった。その形はこれから更に手に取りやすくなっていく。5Gなんかによって情報量が増えるから尚更。

じゃあ「役に立たない」ってどういうこと?っていうと、

「意味」だ。

たとえば折り紙が2枚あったとして

・自分が尊敬する人(たとえば芸能人)の鶴

・よく知らない人の鶴

どっちが欲しいかなんて聞かなくても分かるくらい、ほぼ全員が前者を選ぶと思う。同じ紙で、同じ鶴なのに。

じゃあ次に、

・自分が尊敬する人の鶴

・よく知らない人が作る見た事がない折り紙

どっちが欲しいだろう。同じ紙。
そこにさらに見た事ない折り紙に「芸術的な」とか「美しい」とかついたらどうだろう。
僕は見たことがない方が欲しい。同じ紙なのに。

さらにいえば、
「自分が尊敬する人が作る見た事がない美しくて芸術的な折り紙」

だとどうなる。競争率があがって大金払う奴が出てきそう。同じ紙なのに。

なにが言いたいかって、ただの紙についてる価値はなんなのかと言うと、「意味」だ。役に立たない紙である事には変わりはないのだ。

では「意味を付加できる能力」ってどうやって養えるかと言うと、僕の持っている答えは、

知的好奇心。

こうやって書くと中国語っぽいね。

様々な情報に触れられるようになったからこそ、これが必要なのだ。
たくさんの情報に好奇心により触れ、自分がなにが好きなのかを見定め四捨択一し、自分が何をやりたくないのか見定め、切り捨て、研ぎ澄ましていく。その先にできたものが「自分らしさ」で、ただの紙にさえ、価値を付加できる能力が身につく。かもしれない。

それが今まで絵画や音楽、アートだったかもしれないが、これからはそれだけとは限らなくて、タピオカのような、よくわからん価値が付加されたものを、僕たち一般ピーポーが生み出していく。

だけどそこで終わりじゃない、この波はすでに起きていて、よくわからん、ヘンテコな物は既に生み出されている。その先に必要なのが美意識なのかもしれない。哲学なのかもしれない。それらが良質な「意味」を生み出すんじゃねなんて漠然と考えてる。

知的好奇心を養うのは哲学だ。
哲学とは知の愛し方を学ぶ学問だ。受け売りだけど。

それと「意味」には、そこにかけた時間が割と強く関わってくる。ワクワクしながら日々積み重ねるのが大事だ。うん。

部屋に引きこもっていなきゃいけないこの時期にこそ、やらなくていい事、やるべき事をじっくり考えるべきだとおもってる。

日々、ご機嫌でいるために。



🤲