【1960年生まれ・COPD発症・現代アート制作と読書で日々是好日】

【1960年生まれ・COPD発症・現代アート制作と読書で日々是好日00001】

 コロナ禍が始まった2020年に還暦を迎えたが特に感慨もなかった。20歳の頃には自分が還暦まで生きるなどとは想像さえもできなかっただろう。コロナ禍もなんとか落ち着いてきたようにも思える2023年になり、63歳を迎えた。それはどうでも良いことなのだけれど、若い頃の無理のし過ぎで2018年だったか2019年だったかCOPDを発症した。その当時は、呼吸器内科に行き、吸入薬を処方され、急いで走ったり慌てて自転車に乗ったりしなければ、特に苦しむこともなかったが、コロナ禍を迎えた2020年にバイト先が在宅勤務となり、私物のノートパソコンで作業するようになったのは通勤の煩わしさがなくなり、幸運だったが、2021年の夏になると在宅勤務による運動不足によるものか、COPDの症状が悪化し、数メートル歩くだけで、息切れが激しくなり過呼吸気味になって不自由極まりない状態と化した。この悪化のおかげで、外出は自転車でクリニックや書店に行くくらいしかできなくなった。電車に乗って出かけるなどもってのほかとなった。病状六尺じゃないが、ほぼほぼ、ひきこもりとなったのだ。

 2023年の秋を前に会社の方針で在宅勤務が終了となり、通勤が困難気味なためもあり、話し合いの結果、9月中旬をもって退職することとなった。しかし、9月に入ってから精巣上体炎を2回も発症、10月中旬から抗生剤による腸炎をこれも2回も発症したので、この退職しての一時期は、次の職場に就くまでの神様がくれたロング・ヴァケーションかと前向きに考えておきたい。 しばらくは、自作の制作、読んでおきたかった書籍の読書、そして休養と養生に専念したい。まあ、いずれにしろ、自転車で2~3キロくらいしか外出できないので、自動的に休養と養生にはなるのだけれど、。
 旧式iBook G4に作成したiTunesから音響系、ジャズ、クラシック、ロックを延々と流し、報道系のTV番組を見つつ、作品と読書と病状が悪化しないよう養生するだけの毎日。それが現在の自分。

 昔の探偵小説などで安楽椅子探偵などという自室にこもって、助手や刑事からの情報を集めるだけで見事に犯人を当ててしまうシーンがあったが、あれを現代アートで実践できたら、けっこう、本気で考えている。そう、COPDの症状で数メートル程度を歩くだけで息切れや息苦しさ、過呼吸気味の呼吸困難を起こしてしまうので、自室でノートパソコンと画材や文具だけで現代アートを制作し、公開や、人の手を貸してもらい展示なんて、まさに理想形態だと言える。それが、今の自分の最大の夢想であり課題であると言えるかもしれない、。
 妻の勧めで今年からメルカリを始めた。自室で聴かないCDや読まないだろう書籍(特にマーキングなどしていないもの)を出品し、購入されたポイントで今は入手困難な書籍などを購入。これが意外にも便利で、特に1980年代に発売され、増刷されずに品切れとなっている三浦雅士『疑問の網状組織へ』や倉林靖『意味とイメージ』、宇佐美圭司『デュシャン』などが古書感が満載でも通読できる状態で入手できたのは、素晴らしかった。

 ただし、メルカリも最近では許容されない転売が横行し非難されることもあるので、出品商品を良く確認しないといけない。たいていは、定価より安く、概ね半額以下くらいに価格を設定していて、買い忘れていて在庫切れや廃刊・廃盤になってしまった商品を新しく、もしくは、改めて購入するには非常に有効で有意義である。ただし、最近の美術館で開催された美術展のカタログ=図録は小部数を印刷して売り切って在庫を抱えない方針のようなので、それを見越して、市場に出回っていない図録は、概ね1万円超えで出品されていて、オークションではないので、この高額設定には腹が立つばかりだ。せめて1000円~2000円くらいの上乗せ価格ならまだしも、数万円というぼったくり価格もあり得ないだろう。しかし、それもまたフリーマーケット・アプリの醍醐味とは言えるのだろうが、。

 自分の作品は0.8mmもしくは約0.8mmの点=・をひとつ、みっつ、ふたつ描くだけの究極の作品である。それは『究極藝術宣言』として文章化し、コンセプトは「ART=・」と表記されるもの。しかし、それらはマレーヴィチやジャッド、デュシャンやウオーホルらの作品を参考にさらに徹底化=究極化したもなので、なかなか一般に認知されず居場所はどこにもない状態だ(だからこそ「ART=・」の一歩も二歩も手前の状態を作品化する点や円や線の作品、線描による作品も同時進行している)。
 しかし、それこそ居場所がどこにもない、ということは、ことの始めから分かっていたはずではある。そう、居場所が不在ということであり、どこにもない場所とは、場所の不在か、それは藝術の不在か、不在の藝術か。神はどこにもいないが、神が降り立つための依り代は日本全国に数えきれないくらいある。究極の藝術「ART=・」には、芸術が降り立つ依り代でもあるのではないか。いや、究極の藝術作品「ART=・」それ自体が、藝術そのものなのだ。

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