網膜的音楽のブルース
音楽は想像的imaginativeなメディアだ。時に記憶に作用して脳内に「風景」をもたらし、時に映像と結びつき人々に特定の情動を引き起こしたりと、音楽はその抽象性ゆえに多分にイメージ―想像という行為との強い関係を持っている。そのような前提に立った時、音楽における視覚的要素(それが必然性を伴わない場合; たとえば演奏者の身体や楽器のフォルムなど)などの具体性はある意味「余剰」だといえるだろう。
ぼくがエクアドルで制作した≪pureno≫は、あえてこの「余剰」を強調した作品となっている。
アップライト・ピアノの内部の弦と空間をナイロン糸で接続することで空間全体を巨大な楽器とみなし、その糸(配置・接触を作者がコントロール―作曲しており、弾くとハーモニーが立ち上がる)と人々が「あそぶ/戯れる」ことによって成立する音楽作品。このように視覚的要素という「余剰」が前景化する音楽作品を、ぼくは<網膜的音楽>と名付けた。
音楽におけるディスコミュニケーションは、「現代音楽」であれポップスであれ極度に個人化した技法や文法、意味内容に由来する「批評の機能不全」という事態をもたらした。この作品における「余剰」—視覚性は、人々がobjective(モノ)に「直面」することによって生まれる言説を引き出すためのトリガーであり、それに起因するコミュニケーションを志向した一種のアクセシビリティーとして存在している。
20世紀の黒人奴隷たちが苦痛を軽減させるために歌った労働歌(ワーク・ソング)がブルースとなり、やがて白人へと伝播しジャズやポップスにつながっていったという歴史がある。ブルースの語源である「blue devils」は「憂鬱」を意味する慣用表現だ。ぼくは音楽に絶望している(「絶望」に直面している)、だからこそ自分の作品にその「絶望」と「未来」を託したい。黒人たちの憂鬱と絶望から生まれたスウィング=リズムの揺れという、ある種の「余剰」が新たな音楽へとつながり、多くの「言葉」を生み出したように。
(なお≪pureno≫は現在、台東区上野桜木にて常設展示中
住所:東京都台東区上野桜木1-7-5 ハウス上野の山 B1)