見出し画像

社会の壁を溶かし膜に変える中心の無いネットワーク 市民型公共事業・霞ヶ浦アサザプロジェクト(6)

第6回は、社会の壁を溶かし膜に変える。破壊-構築のサイクルからの脱却。社会のホルモンとしての機能。批判を恐れず作り手になる等。

壁を壊すのではなく溶かし、膜に変える。

 アサザプロジェクトは、自然のネットワークに重なる人的社会的ネットワークを、地域の人々の生活文脈に沿って広げ、縦割り組織の壁を越えた繋がりを社会に生成させようとしている。つまり、社会に縦割りの壁を越えた出会いの場を開き活性化させようとしている。
 この取り組みは、従来の組織改革「組織の壁を壊し、取り払い、再構築する」という発想(力の論理)とは異なる。組織の仕切りは残しつつも、壁は溶かし、外部とのコミュニケーションを促がし膜に変えるという発想(非暴力)で展開されている。

破壊−構築のサイクルから抜け出す。

 これまで政治主導の行政改革が、失敗を重ねてきた背景には、破壊や構築という発想があったのではないか。この破壊―構築―破壊―構築の繰り返しでは、組織を隔てる壁の再構築が繰り返され、むしろ、壁は厚くなっていくように見える。
 後で述べるように、政治主導という発想自体が、選択肢を狭め政治を矮小化させていないか。政治が縦割り組織に横串を入れると言ったところで、発想は同じだ。私たちは、政治や組織の概念そのものを変えていく必要があると感じている。
 行政などの組織変革に求められるのは、上記のような組織構造の作り替えよりも、組織という概念に変容を及ぼす外部とのコミュニケーションではないか。求められるのは、組織をデザインする選択肢を増やすことではなく、組織に変革を及ぼす場を社会に開くことだ。
 では、どのようにしたら、そのような場を開くことができるのだろうか。

それには、縦割りの組織と社会の両方に変化を及ぼす、新しい政治が必要だと考える。

 新しい政治とは、政治家や専門家に委託や依存をしない(矮小化された政治に頼らない)、人々の暮らしの現場に根を張る生きるための政治だ。
 生きるための政治は、政治の概念を議論していても生まれては来ない。それは、人々が新しい現実を生産する現場から生まれて来るからだ。
 アサザプロジェクトは、ネットワーク展開を通して、矮小化された今の政治とは異なる、新しい政治・生きるための政治を作ろうとしている。それは、霞ヶ浦再生を目指す私たちが、その実現に向けて、新しい現実の作り手となる為の政治だ。
 人々の現場にしっかりと根を張る政治、生きるための政治があって、議会政治もまともに機能させることもできるのではないか。

NPOを社会の触媒やホルモンとして機能させる。

 私たちの身体に中心は無い。私たちの身体は、多様な器官同士を結ぶ複雑なコミュニケーション(ホルモンや情報伝達物質によるネットワーク)によって、全体最適に維持され続けている。
 私(身体)という全体的な効果がどのようにして現れ、維持されているのか、まだに解明されていない。今あるのは、全体というよく分からないものへのオマージュだ。
 実は、この全体へのオマージュが、アサザプロジェクトを底から突き動かしている。霞ヶ浦全体、流域全体、流域社会全体などの「全体」へのオマージュが、私たちを常に既存の様々な枠組みの外へと誘い出し、新たな創造へと私たちを駆り立ててきた。
 霞ヶ浦という鏡には、私たちの社会の全体像が映し出されている。霞ヶ浦という鏡があったから、私たちは流域全体・社会全体へのオマージュを持ち続けることができた。

 考えてみてほしい。もし、私たちの身体が、今の社会や組織の様に縦割り化していたら、私たちは生きていられるだろうか。もちろん不可能だ。そう考えると、今の社会がどこまで持続するのか不安になってくる。実際、地球環境問題など人類の生存に関わる深刻な問題の原因の多くは、私たちが作ってきた社会や組織のあり方にあるのではないか。

 社会の肥大化や複雑化が進む中、縦割りの社会システムを維持することは、より困難になっている。今の社会を維持しようと、増税や組織の削減や合理化といった緊縮政策を続けているが、格差や矛盾は深まるばかりで、まったく先が見通せない。
 実際、政治家や専門家が改革と言えば、組織削減や整理や合理化(公共サービスの低下)、増税くらいしか出てこない。「他に解決方法が見つからない」、「仕方がない」「やれることをやるしかない」などと言って、政治家はこれまでも人々を納得させてきた。
 そのような諦めによる合意形成が繰り返され、人々は諦めに慣らされ、無気力無関心へと流されていった。その結果が、今日の閉塞状況ではないか。

 この様な閉塞状況から抜け出すためには、政治家や専門家などと諦めを共有しない、縦割りの壁を壊すのではなく溶かす、新しい政治、生きるための政治をつくらなければならない。(壊すという政治家の勇ましい言葉には騙されないこと。)
 アサザプロジェクトは社会や組織に触媒やホルモンの機能を導入することで、矮小化した政治から、生きるための政治への転換を目指している。

小さな組織が、社会に眠る膨大な資源を浮上させる。

 全国各地でNPOによる活動が盛んになり、様々な地域で、多様な活動が行われている。NPOに期待される機能は地域により様々だと思うが、私にはその多くが、これまで行政が担ってきた公的な機能を代替あるいは補完する形に収まっているように見える。
 実際、財政難で維持できない行政機能をNPOに委託する例は多い。しかし、これらの流れは結局機能不全を起こした、縦割りシステムの延命策になっていないか。
 行政の下請けをするNPOは少なくないが、それでは、縦割り行政の抱える限界(社会の閉塞状況をつくる諦め)の中でしか活動できない。もちろん、今日の社会問題の本質にはアプローチできない。

 アサザプロジェクトが、NPO等に求める機能は、それらが社会の中で触媒やホルモンの役割を担い、離れた組織同士を結びつけ(ブリコラージュ)、ネットワークによって組織の壁を溶かし、コミュニケーションを生む膜に変え、社会に潜在する機能や価値を浮上させていくこと。つまり、生きるための政治の実践だ。

大きな資金も権威も要らない。

 人や組織が、想定外の出会いや付加価値の連鎖(良き出会いの連鎖)を生み出す場になれば、社会は大きく変わるはずだ。それに必要なのは、資金力や政治力、大きな組織や権威によるお墨付きといったものではない。むしろ、それらは良き出会いの連鎖を妨げる。
 社会に変革を起こす組織に必要なものは、体内で働くホルモンのように、微量(小さい組織)で多様な器官と器官を結ぶ繋がりを作り、社会を活性化させ、社会全体に波及する効果(全体最適化)を生み出す構想力と行動力だ。
 全体を覆うネットワーク(全体というよく分からないものへのオマージュ)によって、人々や組織が縦割りの壁を越えて自由に動き、出会うことで、新しい現実の生産が至る所(人々の現場)で行われる動的な社会を、アサザプロジェクトは目指している。それは、成長から変容へ、生成へと、成長至上主義に凝り固まった経済の発想からの転換を社会に促していく。

小さな組織が動きビジョンを浮上させる。

 そのような変容を社会に実現するには、フットワークが良く、タイミングを逃さずに、機敏に動くことができる小さい組織や個人、グループが適している。
 このような組織の動きが広がれば、地域や社会に潜在していた多様な人々や組織を結ぶ無数の繋がりが一気に浮上する。縦割りの壁に阻まれ潜在していた繋がりを浮上させることで、人々の社会に対する見方を大きく変えることができる。人々が、足元に潜在していた資源や価値、意味の豊かさや広がりに気づき、未来に展望を持つことができるようになるからだ。
 このような人々の気づきがなければ、霞ヶ浦の再生や地球環境の保全は、人々の共感や参加を得ることができず、実現できないと思う。

 上記のような動きを社会に創ることで、私達は初めてビジョンというものを手にする。それによって、私達は増税や組織削減、合理化、緊縮といったネガティブな現状維持の発想や、環境破壊を黙認する経済成長至上主義(或いは技術革新によって解決できるという楽観主義)による矮小化したビジョンから脱却できるようになるはずだ。
 それは、問題解決型から価値創造型へのポジティブな転換でもある。

組織のネットワークが壁になる。

 NPOや社会起業家といっても、分野の縄張りを張ったり、組織を集めネットワークを作って市場の取込みを図ったり、行政とのパイプ作りに専念したりといった発想では、社会の中で触媒やホルモンの機能を持つことはできない。
 このような発想は、組織のネットワークの維持や既得権者の立場を守るなど、本来のミッションを忘れ、自らの組織の安定を優先させ、社会に新たな縦割りの壁(囲い込み、安全地帯)を築いてしまうからだ。それはやがて、縦割りの壁に制約されずに動く、現状に変化を及ぼす者に対して、反発を感じ排除するようになる。

 アサザプロジェクトを展開する中でも、市民主導の動きに最も反発したのは、行政との関係を優先する市民団体や研究者だった。彼らの批判の矛先は霞ヶ浦に大きなダメージを与える公共事業にではなく、市民型公共事業(アサザプロジェクト)に向けられた。

批判を恐れず新しい現実の作り手になる。

 社会が、批判する側と批判される側に分かれている限り、現状改善はできない。公共事業等の行政批判は大切だが、批判する側にも主体的に問題を解決しようする動きがあれば、状況はもっと良い方向に変わるはずだ。
 今は、市民が地域や社会の作り手であるという意識が薄れ、過度な行政依存に陥っている。地域づくりは行政に任せておけばいいという姿勢は、無関心層の拡大にも繋がっている。
 社会の閉塞状況を打破するには、市民が再び社会の作り手(主役)に成らなければならない。縦割り化した行政組織に任せている限り、現状は変わらないからだ。しかし、作り手になるということは、同時に批判を受ける側になるということでもある。
 アサザプロジェクトでも、事業を実施する中で、様々な問題や課題が浮き彫りになった。
 そのような時は、問題や課題をオープンにして、多くの人たちと共有し、共に学習していく姿勢が不可欠だ。また、批判にはきちんと向き合い議論を重ねる努力も怠ってはならない。しかし、批判する側にも、共に学習して行こうとする姿勢がなければ、誹謗や中傷へと発展し、発展的な議論を妨げてしまう恐れもある。

批評家として安全地帯に安住していても何もできない。

 批判する側に安住する人たちは、先述した市民団体や研究者もそうだが、何か問題を見つけると、事業や組織を全否定しようとする傾向がある。このように、作り手と同じ土俵には乗らず、自分はいつも安全地帯にいながら、批判に終始していては、社会を変えることも展望を見出すこともできない。作り手としての意識を欠くから、発展的な意見や提案もない。

 1980年代以降、霞ヶ浦の環境保全をうたう数多くの市民団体や研究者の団体が設立されてきたが、今はそのほとんどが消滅している。それらの団体に共通していたことは、無批判に行政に追従したことや、批判に終始し作り手としての自覚がなかったことが挙げられる。批判する側に立つか、批判される(しない)側に立つか、市民団体の多くはそれぞれ安全地帯に安住した。その結果、行政に取り込まれた一部の団体を除き、多くが消滅していった。

答えの共有から問いの共有へ。

 私たちは、そのような安全地帯から抜け出し、作り手として世間に身を晒す覚悟でアサザプロジェクトを開始した。追従者でも批評家でもなく、作り手になるために。自分たちが、新しい現実の作り手にならなければ、何も変えられないと気付いたからだ。市民団体や環境団体といった分類からも外れた作り手(無縁者)として。
 私たちはプロジェクトを展開する中で、批判をしつつ、批判を受けるという姿勢で常に臨んできた。作り手に成るためには、批判を受ける覚悟と同時に、明らかになった問題や課題をオープンにし、それらを多様な人々と共有し議論し、それを機会に協働の輪を広げ、壁を乗り越えていく(新しい現実を生産していく)、新しい政治つまり、生きるための政治が必要だからだ。

 生きるための政治は、答えの共有から問いの共有への転換でもある。問いの共有とはオープンな学習の場でもある。行政や政治家が決めた答えを共有するのではなく(答えを同じくする人達の数の力で動く政治ではなく)、多様な人々と問いを共有する場を作り、問題や課題を開かれた場で議論し、人々が学習を通して繋がり合う、生きるための政治をアサザプロジェクトは目指している。

                            次回に続く
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?