見出し画像

人格を持つ技術

 アサザプロジェクトを構想していた時に、様々な分野の文献や資料などから発想を得た。とくに、示唆を与えてくれたのが「百姓伝記」(三河国)などの農書だ。農書というのは江戸時代に日本各地で作られた民間の農業技術書だが、現代の技術書とは全く趣が違う。
農書では、自然のきめ細かな観察や人間の五感を重視した技術が論じられている。また、その内容は実に多分野にわたり、その中で個々の技術が論じられている。とくに、わたしが農書から影響を受けたのは、技術を多様な分野を総合する個々の人格の中に位置づけていることだった。

領域を越えた繋がりの中で生きる技術

現代の農業技術書であれば、個々の作物の栽培方法や栽培施設の整備など、それぞれの分野ごとに必要な技術を解説した所謂マニュアル本を思い浮かべるだろうが、農書はまったく違う。そこには、我々が想像するものとは全く違う技術観が描かれている。自然とは何か、宇宙とは何か、良く生きるとは何か、暮らしとは何か、道具とは何か、農業とは何か、危機管理とは等、それらの問いと共に、個々の作物の栽培方法などが丁寧に書かれている。
 もうひとつ、農書を読んでいて驚かされたことがあった。とくに、役に立つとも思えない野山や水辺に自生する草木などについて事細かに記述されていたことだ。
役に立つか立たないか、関係する分野か分野外か。わたしたちは、何でも立場の篩に掛ける習慣が身についているが、農書には全ては繋がっているという世界観があり、その繋がりを生かして、良く生きようとする人生観がある。
 近代農業はどうか。役に立つか立たないか、自分の分野に関係するかしないかといった選別過程を経て、技術が大きな繋がりから、より狭い専門分野へと分離されていく。専門分野の外にあるものは、関係無いもの、役に立たないものになる。
 もっとも、これは技術に限った話ではない。
「それは何の役に立つんですか?」これは、どこでも耳にする現代人の口癖だ。

獣害を作る技術

最近は、農作物への鳥獣害がよく話題になる。近代農業では、技術者の多くは栽培技術の開発を行うときに、野生生物をはじめその土地の生態系を無視した自己完結した空間の中での作物栽培を考えようとする。しかし、土地との繋がりを無視した発想自体が、鳥獣害を誘発していることに多くの専門家が気付いていない。
鳥獣害対策も、自然界の特定の生物を有害と決め付け単純に駆除しようとする姿勢では、明治時代以降の近代化の中で日本狼を害獣扱いして、駆除により滅ぼした姿勢と全く変わらない。何よりも、駆除という発想自体が、短絡的かつ退廃的だと思う。
もともと悪い生物などいない。悪いのは、その生物とわたしたち人間との関係であり、関係を悪化させた原因は、人間にある。
赤頭巾ちゃんの童話に見るような邪悪な狼像は、明治時代以降に欧米から入ってきた。もともと日本狼は、三峰権現の眷属(お犬さま)として人々に親しまれ、古代から大神や大口の真神、かしこき神として畏怖される存在だった。
しかし、人間が変わり、関係が悪化した。狼は駆除対象にされ、その後絶滅した。対話が。管理(駆除)に置き換わった。同じ時期、欧米型の近代農業技術が普及する中で、農書が長い間育んできた技術観や自然観、人間観は忘れ去られていった。

自然と対話する技術

農書に、狼が出てきたかは憶えていないが、鷹やフクロウ、ツバメなどの自然界の捕食者を上手く生かして農業被害を防ごうとする記述が幾つもある。農書には、作物を自然の中で様々な生物との関係を持ちつつ栽培するという技術観がある。それは、自己完結しない専門分化しない、自然に向けて閉じない、開かれた技術観である。

老農がいなくなった世界

多岐にわたる分野を総合化する意志をもつ人格の持ち主が、農書を作った老農たちである。ここで使われている老という字は、ただ年老いるという意味合いではなく、経験を積んだ人に宿る、多様なものを結びつけ統合する力や包容力を表している。

農書を読んでわたしが一番驚いたことは、技術がそれに関わる人の人格と切り離されていないことだ。きっと、老農のような技術観を持った人が、どこの村にもいたのだろう。しかし、このような技術観はずっと以前に失われてしまった。
20世紀は科学技術が暴走した時代だった。原爆や化学兵器、自然破壊、公害、原発事故など数え切れないほどの暴走が起きた。そして、21世紀、技術は私たちの人格や身体さえ作り変えようとしている。私たちの人格から離れ自走し暴走する技術によって、人類はどこに向かうのだろうか。
わたしたちには人格との結びつきを失った技術の暴走を、食い止めることができるだろうか。できることなら、老農と対話してみたい。老農たちは、技術の特殊化や部分最適化を進めることによって起きる弊害を、熟知していたに違ないからだ。

自閉的な空間を拡大する現代技術

近代の技術は、ひたすら部分最適化を突き進み、自己完結した自閉的な空間を作り上げようとしてきた。その最たるものが、原発だろう。夢の核燃料リサイクルなどと謳いあげながら、原発から排出される核廃棄物の処理方法も最終的な処分方法も見つけられないまま操業が継続され、日々危険な核のゴミが増え続けている。
 はじめに技術ありきで、技術の都合に合わせて現実が作り変えられていく。人間の現実さえも。適応や妥協を迫られているのは、いつの間にか技術の側ではなく、人間の側になっている。
農業では、農業機械に適応するように土地が改変され、コメや野菜を作る工場と化し、そこにいた生き物たちは排除されていく。単位面積あたりの生産量あげるために、農薬や化学肥料が多用され、農業排水が流れ込む川や湖が汚染されていく。霞ヶ浦の水質汚濁はその典型だ。霞ヶ浦の中では、国が多額の税金を費やし水質改善事業を行なっているが効果は上がらない。
ある技術を軸に、種子から農薬、機械、設備、流通、金融までが体系化されグローバルなビジネスとして展開されている。その技術に適応しない種子や農家が淘汰されていく。
このまま行けば、技術は、進化の袋小路に入ってしまう。現代の技術は、特殊化を極限にまで進め、自閉的な世界を作り続けていくのかもしれない。人間は技術が創り上げたバーチャルな(自閉的な空間)に取り込まれ、その中で生きるようになるのかもしれない。
もしそうなれば、自らが引き起こした地球環境の変化に適応できず人類は絶滅するかもしれない。ただ、地球を完全に人工的な空間(自閉的空間)へと作り変え管理することができれば別だが。でも、今度は宇宙を作り変える必要に迫られるかもしれない。

リベラル・アーツと技術

発想の転換が求められている。特殊化ではなく、繋がりを持った多様化へ。部分最適化から、全体最適化へと舵を切る必要がある。その土地土地の多様性を活かした問題解決法が試行されるべきだ。力づくではなく、個々の人格を機能させ全体最適化を志向する技術とは、どのようなものか議論しなければならない。
それは、技術者や専門家を育てる大学教育に於いても同様だ。学生が全人格的な完成をめざすリベラル・アーツに、人格を持つ技術の理念を浸透させることが望まれる。技術のあり方は、教育のあり方と重なる。

農書の治水思想からプロジェクトの発想を得た。

農書の中には、治水のあり方について述べたものがある。そこでは、ダムや堰などの建設によって河川を思い通りに制御し管理しようとする現代の力ずくの治水とは、真逆の技術観が示されている。
 甲斐国の農書「川除(かわよけ)仕様帳(しようちょう)」には、治水についてこのような興味深い記述があった。

「鉄砲の弾や矢は固いものに当たればそれを壊すが、幕に当たれば玉も矢も留まり幕も傷つくことはない」

つまり、川の流れを力ずくで抑えてはいけないと説いているのだ。この記述を読んで、わたしには直ぐに思い浮かんだ霞ヶ浦での光景があった。それは、湖面に広がるアサザ群落で目の当たりにした光景だ。
風が吹き大きな波が岸に向かって押し寄せていた時、岸辺から沖に広がったアサザの群落が、押し寄せる波を湖面に浮かべた無数の葉で見事に和らげていたのだ。その時、アサザの岸側に生えていたヨシ群落にはほとんど波が届いていなかった。ヨシ群落は、根元の土砂が波で浸食されると衰退してしまう。当時から、湖畔のヨシ原の侵食が問題になっていた。
自然が残る湖沼では、アサザやモクなど、沖に向かって広がる柔軟な葉や茎を持つ水草群落が波を和らげ、ヨシ原を浸食から守っているのだ。これは、まさに農書にある幕ではないかと気づいた。
当時、霞ヶ浦を管理する建設省は、大きな石やコンクリートブロックで波を抑え岸辺を浸食から守ろうと計画していた。しかし、これらの構造物を設置すると、水の流れが遮断され水質が悪化したり、生き物の移動が妨げられてしまう恐れがあった。
わたしたちは、農書に習い、コンクリートや石ではなく、アサザやモクなどの水草や粗朶(雑木の枝を束ねたもの伝統河川工法で用いる)といった柔軟な素材で抑える計画を作り提案した。このやり方なら、一般市民も事業に参加できる。
農書に書かれた技術は、どれも地元の人たちによる地元の資材を使った地産地消の技術だ。このような技術であれば、こまめなメンテナンスができ、危機にも迅速に対応できる。現代の技術で作られたものは、メンテナンスに費用がかかり危機的状況になっても指をくわえて専門家の到着を待つしかない。

漁師たちから学んだ知恵〜老農は生きていた。

地元の伝統技術からもヒントを得た。そのひとつは、霞ヶ浦の下流部の水郷地帯で行われていたという江戸時代の干拓技術だ。水辺にマコモなどの水草を植えて水の動きを弱め土砂が溜まりやすい環境をつくり、できた浅瀬に泥を乗せて水田にしていくという技術だ。
もうひとつは、むかし霞ヶ浦で盛んに行われた粗朶を使った漁法だ。まず、湖の周辺の雑木林から木の枝(粗朶)を切り出してきて束ねて湖に沈めて置く。しばらく置いて、粗朶の中に入って来たウナギやエビなどを網で獲る。この伝統漁法が昔はどこでも行われていたという。当時の様子を漁師に聞くと、粗朶がたくさん沈めてある場所では波があまり立たず魚やエビもよく集まって来たという。粗朶を使い、波を和らげることができることが分かった。
これらの地元の技術を生かせば、護岸工事で失われた湖の浅瀬や水草群落を、市民の手で再生することができるかもしれない。わたしは、地元の伝統的技術を活かした市民型公共事業を構想し提案した。

 農書は、わたしに地元の声をもっとよく聞けと促してくれた。そのお陰で、わたしは湖畔を歩き、多くの人たちに出会い、様々な人達から知恵を授けてもらえた。

漁師たちからは、むかし湖に魚の住処や産卵場所となる水草を植えた話を聞いた。水草をどのような場所にどのように植えればいいかを、みんな夢中になって話してくれた。まるで自分の身体の一部のように、湖について語る漁師たちの姿が、農書の中の老農の姿と重なっていった。
わたしは霞ヶ浦を歩き、そこに生きる人達と語り合うたびに新しい感覚を得た。様々な「人格を持つ技術」と出会い、知る喜びを感じた。そして、壁を乗り越えるための新しい発想と勇気を得た。現場に生きる人々から得た知恵が、その後アサザプロジェクトの展開を支えてくれた。
人格を持つ技術には、広がりと深さを持つ知性が宿っていることを、わたしは湖畔で出会った人達から学んだ。技術は、人や自然に向けて開かれていくものなのだと確信した。

「種々の新しい感覚を得た。」老農と政治家

治水のあるべき姿を求めて、渡良瀬川をくまなく歩いた田中正造の河川巡視日誌に書かれていた言葉だ。田中正造は、この時すでに七十歳を越えていた。彼は、当時足尾鉱毒事件や渡良瀬遊水池建設による谷中村の強制廃村といった問題と真摯に向き合うために、衆議院議員を辞し現場に入り、人生をかけて闘っていた。
谷中村は川と共に生きる伝統的な輪中集落だった。近代化を急ぐ明治政府は、渡良瀬川上流の山林を荒廃させていた足尾鉱山の公害対策を後回しにして、下流で頻発する洪水や鉱毒汚染の対策として、谷中村を強制廃村にして遊水池化する計画を進めていた。
当時最先端の技術で生じた公害は放置され、その後始末は下流の農村に押し付けられた。近代的な河川行政が強権的に推し進められ、伝統的な農村が消滅した。その最中、田中正造は渡良瀬川を歩き人々から話を聞き、現場を観察し、別の未来を求め種々の新しい感覚を得ていた。彼は、老農のような政治家だったのかもしれない。

今日も、種々の新しい感覚を得た。

わたしは、未来に向けて開かれたその言葉の意味を噛みしめている。


                          2002年6月26日
                                飯島 博

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?