社会の壁を溶かし膜に変える中心の無いネットワーク 市民型公共事業・霞ヶ浦アサザプロジェクト(7)
第7回は、管理の発想が壊す自然と社会、制度と法律を先行させない、モデル事業の罠など。
問いに応える中から様々なネットワークが生れてきた。
アサザプロジェクトは、霞ヶ浦流域全体(約2200㎢)を視野に入れた取り組みを行ってきた。プロジェクトを開始した1995年以来、私たちは、どのようにしたら広大な流域全体へ、効果の及ぶ事業を展開できるのか、26年間ひたすら問い続けてきた。
問いと向き合う中から生まれてきたキーワードが、「中心の無いネットワーク」や「分散した多様な個によるネットワーク」、「個々の人格が場として機能するネットワーク」、「子どもの感性で広がるネットワーク」、そして「自然のネットワークに重なる人的社会的ネットワーク」だ。
私たちは、それらのネットワークの実現を通して、霞ヶ浦を再生に導こうと考え、様々な取り組みを展開してきた。
自然は管理と縦割り(ゾーニング)の発想によって損なわれていく。
霞ヶ浦の水質汚濁や生態系破壊の背景には、自然の繋がりを損なう、集中化や縦割り(部分最適化)といった発想がある。自然には、中心が無い。自然は、縦割りではない。だから、中心(集中)や縦割り(ゾーニング)といった発想に偏った、今の社会のあり方を変えない限り、自然との共存も霞ヶ浦の再生もありえない。
それでは、どのようにしたら湖や流域の繋がり(中心の無いネットワーク)を損なうことなく、社会を営むことができるのか。
そのような問いに応え、新しい社会の営みを実現しようと、私たちは、上記のネットワーク展開を試みて来た。
私たちが、縦割りや部分最適化といった発想に止まっている限り、失われた自然の繋がりを取り戻すことはできない。環境保全や自然保護も、ゾーニング(保護区)や管理といった発想に依拠する限り、自然の繋がりを損なう社会のあり方から出ることはできず、どのような取り組みをしても対症療法や影響緩和策(ミチゲーション)の域に留まり続けるだろう。
当然、霞ヶ浦も同じだ。霞ヶ浦の水質浄化事業には、行政機関がこれまで1兆円以上も費やしてきたが、抜本的な効果が得られなかった。霞ヶ浦の再生にまず必要なもの、それは大胆な発想の転換だ。
制度や法律を先行させると、事業は部分最適化に向かい自己完結する。
人々は、解決の見通しのつかない問題や課題に直面すると、すぐに新たな制度や法律の制定を求めようとする。しかし、人々が求める制度や法律の背後にも、管理やゾーニングといった発想があることを忘れてはならない。それらに過大な期待を持つと、行政の権限が増し、社会の縦割り化や中央集権化、管理社会が進んでしまう。とくに、環境保全策に付き物の規制や制限を求め続けていくと、統制社会に向かって行く危険がある。
また、人々が制度や法律の制定を前提に活動すると、活動にバイアスがかかり、それらの枠組みに適合した縦割りの発想に収束するようになる。
行政が民間の成功事例をモデル化して普及を図ろうとする場合にも、同様のバイアスがかかる。成功事例が、制度化や法律化の対象になると、行政の縦割りの枠に嵌め込まれ、自由な発想や展開を阻まれて形骸化するからだ。
制度が作る金の動きによって縛られる。
制度や法律に伴う事業では、金(補助金など)の動きが、制度の枠組み(縦割り)の中で収まるように設計される。そのように設定された金の動きが、人や物の動きを縛る。さらに厄介なことは、創造性や課題意識を欠いた団体や組織が、そのような金に群がり流れを強化してしまうことだ。そうなれば、既得権益が広がり、自然の繋がりを維持することも、取り戻すこともますます難しくなる。
補助金に依存する体質が、社会を停滞させている。
制度や法律による取り組みや技術は、縦割りの枠組みに中で部分最適化が進み必ず自己完結する。制度や法律には予め適用範囲が定められ、その範囲内で人や金の動きが完結するように設計されるからだ。だから、それらは社会に発展的に広がることはない。それらを持続させるためには、補助金等を出し続けるしかない。実際、補助金が切れた途端に消滅した事業は、全国に無数にある。
公共事業や補助金制度に依存する体質は、社会の至る所に見られる。そのような体質は、政治家や官僚との癒着、既得権益、利権、さらに汚職にまで繋がっていく。この国の政治風土を作る要因のひとつになっていると言ってもいい。そして、縦割り行政を利用し、縦割りに依存する社会がある。
このように閉じた狭い繋がりが、金の動きを支配し、開かれた社会への変革を拒み続け、社会に自然や人々の繋がりを広げる動きを阻害し続けている。だから、これらを放置している限り、自然は再生しない。
狙われる成功事例
先述したように、行政が、どこかで成功した民間の事例をモデルにして、制度や法律を作り、全国への普及を図ることがある。しかし、これは発想からして間違っていると思う。
ある地域で、地元の特性や文脈を生かして成功した事業や手法を、モデルにして普及させようとしても、条件の異なる他地域で定着する保証はない。
人の思考はどうしても、成功事例から方法(やり方)を抽出して、方法の普及(マニュアル化)を図るという安易な流れに乗りやすい。
ある地域の成功事例から私たちが学ぶべきこと。それは、方法=答えではなく、その地域の問い=問題や課題と人々がどのように向き合っているのか(姿勢)ではないか。多様な人々によって問いの共有がどうしてできるようになったのか。それが、鍵だ。
モデル化という罠
成功事例をモデルにした行政の普及事業に取り込まれることは極めて危険である。先述したように、モデル事業の普及は、民間主導事業の行政主導事業への読み替え(矮小化や形骸化)や、補助金バラマキの口実にされる例が多いからだ。
そして何よりも、それによって人々の自由な発想が損なわれ、考えが固まってしまう恐れがある。民間によるモデル化でも、営利優先になれば、金の動きに縛られ、発想が固定されてしまう危険が、同様にある。
行政の縦割り(枠組み)や企業の営利優先に囚われない、自由な発想で行われてきた民間の取り組みが、制度の枠組みに取り込まれ、行政の管理(制度)下に置かれることになれば、それまでの広がりや本質的な意味を失い萎縮し形骸化することは避けられない。
そのような動きには、十分に警戒する必要がある。
アサザプロジェクトをモデルにした自然再生推進法の顛末
私たちは、かつて、自分たちの事業(アサザプロジェクト)を法律のモデルにされた経験がある。
アサザプロジェクトを市民と行政の協働事業のモデルとした自然再生推進法が2003年に制定されたが、この法律の施行によって、民間主導のアサザプロジェクトが行政主導の自然再生事業に読み替えられ、形骸化したモデルとして全国に普及が図られることになってしまった。(実は、当事者である私たちには、この法律が国会に提出される直前まで、何も知らされていなかった。)
同法の成立後、モデルとなった霞ヶ浦でも、同法による自然再生協議会が設立したが、これにより、霞ヶ浦で行われてきた市民と行政の協働による取り組みは一変した。再びかつてのような行政主導の流れに戻ってしまったのだ。
湖の生態系を破壊する公共事業が再開された。
同協議会では、霞ヶ浦の生態系に深刻な影響を及ぼしていた水位管理や逆水門の運用など、再生に向けて見直しが必要な重要項目は、国の施策に関わるという理由で、協議の対象から除外されてしまった。
これと同時に、アサザ基金の要望(2000年)によって一旦中止になっていた水位管理が、再開された。(その後、水位操作再開によって湖の生態系はダメージを受け続け、その後ヨシ原は衰退し、アサザの自然群落は消滅してしまった。アサザ基金では、現在も水位操作の中止を国交省に求め続けている。)
一方、同協議会のメンバーとなった市民団体や研究者、関係団体等は、国による湖の水位操作などの管理方針には意見を言わず、国交省が提案した自然再生計画の策定に参加した。協議会が策定した再生計画では、湖内の限られた区域でのミチゲーション(水位管理などによるダメージを緩和する活動)を行うとしている。
私たちは、霞ヶ浦の先の重要課題の解決に向け新たな動きを作っていくために、このような動きとは一線を画すことにした。
あと一歩まで行った重要政策の見直し
実は、同法の成立前には全く別の流れがあった。アサザプロジェクトが提案した、「逆水門の生態系に配慮した運用への見直し」の要望を受け、当時の国交大臣が国会で、私たちが提案した円卓会議を行う旨の発言があったからだ。国は、霞ヶ浦再生に向けて大きな方向転換をしたとして、大きなニュースとなり注目を集めた。
逆水門は、霞ヶ浦と海を結ぶ要の位置にあり、1974年以来閉鎖されていた逆水門の運用見直しは、まさに霞ヶ浦再生の最重要課題であった。閉鎖後、水質は急激に悪化し漁業は壊滅的な影響を受けた。その最重要課題について、利害関係者が集まり話し合う円卓会議の開催を国交大臣が認めたことは、まさに画期的な出来事だった。
これで、市民と行政と利害関係者が連携して、霞ヶ浦再生に向け本格的に動き出すかに見えた。
法律が時代を逆行させた。
ところが、自然再生推進法制定の流れの中で、この流れが一変してしまったのだ。国交大臣が受け入れた円卓会議は、行政が市民の声を聞く意見交換会に変えられてしまい。さらにその後、自然再生推進法の協議会に置き換えられてしまった。そして、先述したように、逆水門の運用は議題から外されてしまった。
皮肉なことに、アサザプロジェクトをモデルにした法律の制定をきっかけに、それまでこのプロジェクトが作ってきた市民と行政の協働の流れを、行政や一部の研究者によって逆転されてしまったのだ。
だが、私たちは、この一連の出来事から多くの教訓を得ることができた。そして、私たちは、次の機会を逃さないよう今も新たな流れを作り、準備を進めている。
(常陸川水門(逆水門)の柔軟運用の提案については、アサザ基金のホームページasaza.jpを参照ください。)
制度に組み込まれることは、絶対に避けなければならない。
このように行政が民間事業をモデルにして制度や法律を作り、形だけの普及をはかっても決して上手くはいかない。人々の生きた豊かな発想が、縦割りの枠に無理やり嵌め込まれ、画一化され形骸化(ミイラ化)されてしまうからだ。
モデルにした事業の様に、多様な人々を結び付けることはできず、新たな分断を生み出すことになる。先述したように、補助金を伴うモデル事業に群がる無批判な団体や組織が出てくるからだ。必要なのは、答え(モデル=成功事例)の共有ではなく、問いの共有を実現することだ。問いの共有を、多様な人々と立場や意見の違いを越えて実現できなければ、新たな展開は不可能だ。
私たちが目指す、新しい現実の生産は、制度や法律に依存する限り実現しない。
事業を広く社会に展開していくためには、事業の中に制度を組み込むことはあっても、制度の中に事業が組み込まれることは、絶対に避けなければならない。制度によって何でも解決できるという発想(思考停止)を捨て、制度を事業に先行させない、常に事業を先行させていくという発想こそが必要だ。
今この時に、新しい現実を生産していないのに、制度や法律などの仕組みを作り、あるいは変えれば、新しい現実が生み出せると思い込むことこそが、幻想である。
このような形で、事業を制度化法律化する動きには、警戒が必要だ。
先述したように、自然再生推進法の制定時に、モデルにされたアサザプロジェクトの当事者である私たちにさえ、法案が国会に提出される直前まで相談も報告も無く、一部の研究者と官僚、議員によって法案作成が行われていた。
私たちに法律ができたら協力すると言って近寄ってきた研究者や官僚、政治家らは、同法が成立すると手のひらを返したように去っていった。いったい誰のための法制化だったのか、これを見れば明らかだろう。
造るに非ず、除くにあり。(田中正造の言葉)
制度や法律も同じだ。それらを作ろうとする前に、私たちがまず考え、今から取り組まなければならないことが必ずあるはずだ。
次回は、社会の壁を溶かすために何が必要か、管理から働きかけへ、社会の里山化をキーワードにした取り組みについて紹介します。
つづく