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社会の壁を溶かし膜に変える中心の無いネットワーク 市民型公共事業・霞ヶ浦アサザプロジェクト(5)

第5回は、民主主義、距離と隔たりに宿る知性、市民参加から行政参加へ、開かれた技術、問いの共有などについて紹介します。

距離と隔たりに宿る知性と民主主義

 中心に組織の無いネットワークでは、取り組みがバラバラになってしまうのでは?という疑問を持たれるかもしれない。
 アサザプロジェクトは、確かに、分散した多様な個によるネットワークの展開や個々の人格が総合化の起きる場として機能するネットワークの展開を目指している。

 ここで言う分散とは、距離と隔たりに宿る知性のネットワークを意味している。知性の働きは、距離や隔たりを多様性へと昇華させ、人に対話を促す。知性は、安易な融合や集中を受け入れない。
 アサザプロジェクトでは、このような分散のイメージと、自然のネットワーク(霞ヶ浦流域を覆う水系や生き物の道など生態系)のイメージを重ね合わせながら、様々な事業を展開してきた。

 今世界中で、民主主義が揺らぎ始めている。民主主義の危機という言葉も方々から聞こえて来る。ポピュリズムの政治家が次々登場し、人種や民族や宗教の下に、或いはSNS上で、意見やアイデンティティーを同じくする人たちが集まり、排他的な塊(答えの共有)を作る動きが、世界中で活発化している。

答えの共有から問いの共有へ。

 民主主義とは、単に隔たりを無くしたり、距離を縮めたり、まして融合を目指すものではない。人々が安易な融合を求めれば、民主主義は簡単に壊れてしまう。
 民主主義は、人々の間にある距離や隔たりに知性を宿らせ、知性によるネットワークを創るプロジェクトだ。だから、ネットワークの中心には、常に問いがある。問いは、距離や隔たりが、対立や差別など無理解の壁(答えの壁)に変わるのを、防いでいる。
 人々が立場や意見の違いを越え、本質的な問いを共有することで、民主主義は持続する。でも、その問いに、明確な答えがあるわけではない。だから、民主主義は、どこまでも未完のまま続くプロジェクト、終わりなき対話としてある。

 多様な人々を結び付けるもの、それは、問いの共有であり、答えの共有ではない。答えの共有は、多様性を認めない独裁政治や全体主義、排他主義に向かう恐れを孕んでいるからだ。

 答えの共有は、分かりやすい。だから、人々は簡単に答えを受け入れ、考えることを止めてしまう。人々が答えの壁を築き、問いを排除すれば、民主主義は機能しなくなる。

 民主主義は、問いの共有と対話を人々に促し続けることで持続する。まさに、終わりなき対話だ。
 霞ヶ浦再生を目指すアサザプロジェクトは、問いの共有をベースにしたことで、広大な流域にネットワークを広げ、多様な組織や人々と協働する事業を実現することができた。アサザプロジェクトは、民主主義とは何かという問いと共に展開してきた。

ひとりひとりの小さな物語が出会い、問いが共有される広場が中心にある。

 アサザプロジェクトは、人々が問いに応えることで生まれた「小さな物語」が集い、出会い、そこから更に新たな物語が共有され、新しい事業(物語)が動き出していく広場のようなものだ。そこには、人々を融合に導くような大きな物語(答えの共有)は無く、自然の繋がり(ネットワーク)に重なる小さな物語たちのネットワークがある。
 問いは集まって、互いに深まることはあっても、大きな塊になることはない。人々の問いは、分散して、繋がっている。ひとりひとりの問いは、連鎖しながら繋がっていく。より小さく、より深く、より広く。

 このような場を、「新しい公共」ということもできる。新しい公共では、個々の人格が総合化(問いに応える物語)の起きる場となり、誰もが良き出会いの連鎖(ネットワーク)に入る機会を得ることができる。
 人々を共感や信頼や協働へと導くのは、人々を結ぶ問いであり、問いと向き合う人々の誠実さだ。人々による問いの共有が、展開し続けるネットワークの中心には常にある。

 アサザプロジェクトで人々を繋げる問いは、霞ヶ浦が人々に投げかける問いだ。その問いに応えることで、プロジェクトは展開していく。
 その問いに応えるために、専門家の指導は必要ない(対話は必要だが)。各々が自分の方法で生活文脈を生かしながら応えていけばいい。そのように応えていくことで、人々の間に対話が生まれ、小さな物語たちが共有されていく。

 わたしは、こうした人々の繋がりを、共同体やコモンズやコミュニティとは呼ばず、あえてネットワーク、或いは中心の無いネットワークと呼ぶことにしている。
そのような開かれた場(新しい公共)を自然のネットワーク上に創り、霞ヶ浦流域全体に広げていくことを、アサザプロジェクトは目指している。

市民参加から行政参加へ。

 公共事業や行政組織に、問題があることは確かだ。しかし、公共事業や行政の改革を制度論や組織論として進めることには限界があると思う。今の社会のあり方を含め、これまでの議論の枠組みを越えた、より広い視野での見直し論が必要ではないか。

 市民型公共事業アサザプロジェクトでは専門分化した組織(行政等)を否定も排除もしない。行政の内部にいても、縦割り組織のあり方に疑問を持っている人達は決して少なくないからだ。
 それらの人達と、問いを共有することは十分に可能だと思う。アサザプロジェクトは、問いの共有によって展開していくプロジェクトだからだ。(私たちは、政治主導とは異なる改革、矮小化された政治から生きるための政治への改革を目指している。)

 対話は、問いを共有することから始まる。
 縦割り組織を、壊すのではなく、むしろ活かすために、私達は縦割り組織を中心の無いネットワークの一員として位置付け、外部とのコミュニケーションや協働を促し、それぞれの専門性や機能をより効果的に発揮させようと考えている。
 私は、これを行政参加と呼んでいる。つまり、縦割り部分最適化した行政を、全体最適化の流れの中に招き入れていくという取り組みだ。行政参加の発想は、懸案になっていた行政課題の解決(これまで組織の縦割りによって阻まれていた施策の実現)にもつながるはずだ。

人格を持つ技術への転換

 行政参加を実現するのに必要なのは、地域のネットワークを活かした発想や、地域の人々の生活文脈をベースにした創意工夫だ(ブリコラージュ)。つまり、部分最適化した行政施策を、地域の様々なものと組み合わせ、あるいは自由にアレンジして、全体最適化の流れに乗せていくという発想(政治)だ。


 例えば、アサザプロジェクトでは、霞ヶ浦の波浪対策に使われていた石材を、水源地の荒廃した森の整備により発生する木材や間伐材に替え、魚礁となる消波施設を造ることを、森林組合や漁協と共に国交省に提案した。これを国交省が採用したことにより、波浪対策と同時に、水源地の森林整備と湖の環境保全、漁業振興、雇用創出などの効果を引き出すことができた。

 そのような縦割り組織への働きかけには、専門家による閉鎖的な技術から、開放的な技術への発想転換、つまり、地域の人々が自分の方法で考え総合化する場として機能する人格を持つ技術を活かす発想が必要となる。
 技術を、部分最適化した閉じた技術から、全体最適化へ向かう開かれた技術へと転換していけば、多様な人々や組織が当事者として、プロジェクトに参画できるようになる。
 そのような発想は、縦割り組織と癒着し閉じた技術によって起きている環境問題などの解決にもつながると思う。

膨大な資金も大きな組織も必要ない。

 アサザプロジェクトが、ピラミッド型社会の中での「市民参加」という発想から別次元へ進んで、ネットワーク型社会の中での「行政参加」の実現を目指していることは、これまで述べてきたとおりだ。しかし、その実現に大きな力は要らない。

 既存の社会資源の読み替えや新たな価値の付加によって、良き出会いの連鎖をつくることができれば、ネットワークの展開には莫大な資金力も大きな組織も、まして権威や権力も必要無い。必要なのは、多様な人々や組織による問いの共有と対話だ。
 柔軟さと非暴力によって、人々の創造力は多様性に向けてどこまでも開いていくことができる。民主主義は、誰もが参画できる創造的なプロジェクトだ。そのような創造的な衝動を、いま人々を突き動かしている消費衝動と拮抗させ、置き換えていくことができないだろうか。

 行政参加は、多様な人々や組織が問いのネットワークで繋がり、縦割り組織を包み込み(壁を溶かし膜に変え)、縦割り組織をネットワークの一員として受け入れることで、実現する。
 それは、人々が知らず知らずの内に共有していた、縦割り行政や矮小化した政治による限界と諦めから、人々が解放されることを意味している。
 非営利組織NPOはそのようなネットワーク展開を実現させる上で、重要な機能を担うことが期待できると思う。(社会のホルモンとして機能するNPOについては次回紹介します。)

                             次回につづく


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