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西田幾多郎の絶対無の概念は、必要ですか?ーChatGPTに聞いてみよう020

Model: GPT-4

場所論について学びたいと思っています。ハイデガーと西田幾多郎の場所の概念の違いについて、まず教えてください。

場所論は、場所や空間に関する哲学的な考察を指します。ここでは、ハイデガーと西田幾多郎という二人の哲学者の場所の概念について説明します。

1.ハイデガーの場所論

マルティン・ハイデガーは、ドイツの現象学派の哲学者で、彼の場所に関する考察は主に「存在と時間」の中で展開されています。彼は、場所(Ort)や空間(Raum)という概念を通して、人間の存在(Dasein)を考察しています。

ハイデガーによれば、場所は単なる物理的な座標ではなく、人間の生活や活動が行われる文脈や背景を提供する「世界」の一部であり、人間は常にその中で生きている。彼は場所を「開かれた場」(Ereignis)と呼び、そこで人間が存在することで、意味や価値が生まれるとしています。つまり、場所は人間の存在と密接に関連し、人間の生活の中で意味を持つものであるとされています。

2.西田幾多郎の場所論

西田幾多郎は、日本の哲学者であり、彼の場所論は「場所」(basho)という概念を中心に展開されています。彼の場所論は、東洋哲学の要素が強く反映されており、日本の伝統的な思想や文化に根ざした独自の哲学を提案しています。

西田の場所論は、全ての存在は相互関係の中で成立しているという観点から、場所とは物事が結びつく相互関係の空間であると考えています。彼は、絶対無(zettai-mu)という概念を用いて、場所を説明します。絶対無は、全ての存在が根源的に依存する原理であり、場所はこの絶対無によって生成されるものであるとされています。

つまり、ハイデガーの場所論は、人間の存在や活動に焦点を当てた、より人間中心的な哲学であり、場所が人間の生活や意味形成と密接に関わると考えています。一方、西田幾多郎の場所論は、物事の相互関係性と絶対無を重視し、より宇宙論的で普遍的な視点から場所を捉えています。

ハイデガーの場所論では、人間の存在(Dasein)が場所を形成し、場所は人間の行為や意味形成の文脈に依存しています。このため、ハイデガーの場所論は、個々の人間の経験や世界観に関連する概念を重視する傾向があります。

一方、西田幾多郎の場所論は、相互関係性と絶対無の概念を用いて、場所が生成される原理を説明しています。彼の哲学は、東洋哲学の思想や日本の伝統文化を反映し、全ての存在が相互依存し、互いに関連する場所の中で成立しているという考え方を強調しています。

要するに、ハイデガーと西田幾多郎の場所論の違いは、前者が人間中心的で個々の経験や世界観に焦点を当てた哲学であるのに対して、後者は普遍的で相互関係性を重視する哲学であると言えます。両者の哲学は、場所の概念を通して、人間の存在や宇宙の構造を理解しようとする試みであり、それぞれ独自の視点から場所論を展開しています。

両者は相互補完的なのでしょうか。それとも、全く別の概念で関連性を見るのは間違っているのでしょうか

ハイデガーと西田幾多郎の場所論は、異なる視点から場所や空間を考察しているため、関連性を見出すことは可能です。両者の哲学は、それぞれ独自の概念やアプローチを持っていますが、相互補完的な側面もあります。

ハイデガーの場所論は、人間の存在や行為を中心に考察しているため、場所が個々の人間の経験や世界観にどのように関わるかについて深い洞察を提供しています。一方、西田幾多郎の場所論は、相互関係性と絶対無の概念を用いて、場所が全ての存在とどのように関連しているかを説明しています。

これらの視点は、相互補完的であると考えることができます。ハイデガーの人間中心的なアプローチは、場所の概念を具体的な人間の経験や文化的背景に関連付けるのに役立ちます。一方、西田の普遍的で相互関係性を重視するアプローチは、場所の概念をより広い宇宙論的な文脈に置くことができます。

ただし、両者の哲学が完全に一致するわけではなく、それぞれ独自の概念や視点を持っています。したがって、両者の場所論を互いに関連付ける際には、その違いや独自性に留意しながら、相互補完的な側面を探ることが重要です。全く別の概念として扱うのではなく、異なる視点から場所や空間を考察する二つの哲学として、両者の関連性を探求することは有意義です。

ハイデガーが「世界内存在」という時、その「世界」とはどれくらいの広さの世界を想定しているのでしょうか。西田が宇宙論的ということですが、ハイデガーの「世界」は、人間の認知が及ばないがゆえに、宇宙までは広がらないということでしょうか。

ハイデガーが「世界内存在」と言及している「世界」は、物理的な広さや宇宙の範囲という意味ではなく、人間の存在や行為、経験が行われる文脈や背景を指します。彼の「世界」の概念は、人間の生活、関心、意味付けなどの総体を意味しており、主に人間の認知や行為に関連する範囲に焦点を当てています。

ハイデガーの「世界」は、個々の人間が生きる環境や文化、歴史などの具体的な背景に関連しているため、その広さは人間の認知や経験に基づいていると言えます。したがって、彼の「世界」は、宇宙全体を包括するような宇宙論的な視野ではなく、むしろ人間中心的な視点を持っています。

一方、西田幾多郎の場所論は、相互関係性や絶対無の概念を用いて、場所が全ての存在とどのように関連しているかを説明しており、より広い宇宙論的な文脈に焦点を当てています。このため、西田の場所論は、人間だけでなく、宇宙全体の相互依存性や連関性を考察する視点を持っています。

要するに、ハイデガーの「世界」は、人間の認知や経験に基づく範囲であり、宇宙全体まで広がることは想定されていません。しかし、彼の「世界」の概念は、人間の生活や行為に関連する文脈や背景を理解するための重要な哲学的枠組みを提供しています。

ハイデガーの言う「世界」とは、ユクスキュルのいう「環世界」に近いわけですね。

はい、その通りです。ハイデガーの「世界」とユクスキュルの「環世界」(Umwelt)には類似点があります。どちらも、個々の生物(特に人間)の認知や経験に基づく独自の世界を指しています。

ユーグ・フォン・ユクスキュルは、生物学者であり、彼の「環世界」の概念は、生物種ごとに異なる知覚や行動の範囲を持つという考えに基づいています。彼によれば、個々の生物は、自分たちにとって意味のある刺激やサインに基づいて、独自の「環世界」を形成し、その中で生活しています。

一方、ハイデガーの「世界」は、人間の存在や行為が行われる文脈や背景を指し、人間の生活や関心、意味付けなどが行われる総体を意味しています。彼の「世界」の概念は、人間の認知や行為に関連する範囲に焦点を当てています。

ユクスキュルの「環世界」とハイデガーの「世界」は、両者とも個々の認知や経験に基づく独自の世界を指しているという点で類似しています。ただし、ユクスキュルは生物全般に焦点を当てているのに対して、ハイデガーは特に人間の存在や行為に関心を持っています。両者の概念は、異なる学問的背景から生まれているものの、個々の生き物(特に人間)が独自の世界を形成し、その中で生活しているという点で共通しています。

そうした「世界」の中にいるという意味で、ハイデガーは人間を「世界内存在」という言い方をしていますが、その時の「内」とは、物理的な内部にいるということではなく、むしろ存在が世界を認知すると同時に作り出し、その世界に包まれているのだという、いわば人間の存在と世界との相即関係を指摘しているのですよね。

はい、その通りです。ハイデガーが「世界内存在」と言っている「内」とは、物理的な内部にいるという意味ではなく、人間の存在が世界を認知し、同時に作り出し、その世界に包まれているという相即関係を指摘しています。

ハイデガーの哲学では、「世界内存在」は、人間が自分自身の経験や関心によって世界を形成し、その世界に関与するという意味で用いられています。人間の存在は、世界を理解し、意味を創造し、他者と共に生きることによって、その世界に組み込まれています。

この概念は、人間の存在が世界と切り離された独立したものではなく、世界と相互作用することによって成立するという考えに基づいています。人間は、自分自身の行為や認知を通じて、世界と関わり合いながら、その世界を作り出しているのです。

したがって、「世界内存在」という言葉は、ハイデガーが人間の存在と世界との密接な関係性を強調するために用いた概念であり、人間が世界を認知し、作り出し、その世界に包まれているという相即関係を示しています。

一方西田の場所とは、我と汝がで合う場所として設定されました。そこでは、自他が非分離となるということが重要でした。西田の場合、自分と他者とが相即関係にあるわけです。

はい、その通りです。西田幾多郎の場所論では、「場所」は我と汝が出会い、相互作用する場として捉えられています。彼の哲学は、自己と他者が非分離であり、相互依存し合う存在であるという考えに基づいています。

西田幾多郎の「場所」の概念は、相互関係性と絶対無の概念を用いて、すべての存在が互いに関連する場所の中で成立しているという考え方を強調しています。自己と他者は、相即関係にあり、互いに影響し合いながら存在するものとされています。

この視点は、東洋哲学の思想や日本の伝統文化に影響を受けており、全ての存在が相互関連性の中で連続しているという宇宙論的な考え方を提示しています。西田の場所論は、我と汝が出会い、相互作用する場としての「場所」を通じて、自己と他者が相即関係にあるという重要な概念を提供しています。

西田において、場所が先立つのでしょうか。それとも他者との出会いが先立つのでしょうか。ハイデガー同様、場所は物理的なものではなく概念的なものでありますが、その場所というものが立ち上がるタイミングをどのように考えていたのか知りたいです。

西田幾多郎の場所論では、場所は我と汝が出会い、相互作用する概念的な空間として捉えられています。彼の哲学では、場所と他者との出会いは、相互に関連し合っています。言い換えれば、場所は他者との出会いがあって成り立つものであり、同時にその出会いが場所を生み出す要素でもあります。

西田の場所論では、場所は物理的なものではなく、すべての存在が相互に関連し合う概念的な空間として理解されています。このため、場所というものが「立ち上がるタイミング」というのは、自己と他者が相互作用し、その関係性が形成される瞬間にあたります。

彼の哲学において、場所とは、相互関係性と絶対無の概念を用いて、すべての存在が互いに関連する場所の中で成立しているという考え方が強調されています。場所は、我と汝が出会い、相互作用し、互いに影響し合いながら存在するものとされており、自己と他者の相互作用が場所を生み出す過程と捉えられています。

つまり、西田幾多郎の場所論において、場所と他者との出会いは相互に関連し合っており、場所は自己と他者が相互作用する過程で形成される概念的な空間として理解されています。

西田はなぜ絶対無ということを言わなくてはならなかったのでしょうか。自己と他者がであう場所が、無であるというのは、例えば概念を適用して認知するようなことではなく、対象そのものを純粋経験するという(いわばフッサールの現象学的な)状況を表現するためのものだったのでしょうか。それ以外にどのようが含意があったのでしょうか。

西田幾多郎が絶対無という概念を導入した理由は、彼の哲学の根底にある宇宙論的な視点から来ています。彼は、すべての存在が互いに関連する場所の中で成立しているという考え方を提示しており、絶対無は、すべての存在が繋がり合っている根源的な無の状態を指します。絶対無は、場所が自己と他者の相互作用から生じるという考え方と関連しています。

絶対無という概念は、自己と他者が出会う場所が、無であるという考えを表現していますが、これは、対象そのものを純粋経験するという状況を示すものと捉えることができます。つまり、自己と他者の出会いや相互作用が、概念や認知の枠組みを超えて直接的に経験される状況を指しています。

フッサールの現象学との関連性も指摘できますが、西田の場所論は、東洋哲学や日本の伝統文化に根ざした独自の思想です。絶対無は、個々の存在が相互に関連する場所の中で成立し、自己と他者が出会い、相互作用する場を提供するという意味でも重要な概念です。

絶対無には、他にもいくつかの含意があります。例えば、絶対無は、無限の可能性を持つものとして捉えられることがあります。無の中から、さまざまな存在や関係性が生まれるという考え方が含まれています。また、絶対無は、自己と他者の区別を超えた根源的な統一性を示すものとも解釈されます。これは、全ての存在が相互に関連し、互いに依存し合うという西田の宇宙論的視点を反映しています。

まだ納得しづらいです。無限の可能性を言うのに、無というのは変な感じがします。根源的な統一性も、それを無というのは、なんだかよくわかりません。一即多・多即一という西田の概念は、自己と他者の捉え方として理解できるのですが、なぜそれが絶対無でなくてはならなかったのか。 例えば仏教において龍樹が議論した「空」の概念ように、そうした自己と他者の関係性の一時性、ある種の儚さみたいなものを表現しようとしたのでしょうか。

すみません、説明が不十分でした。西田幾多郎の絶対無という概念は、一般的な無とは異なる意味で用いられています。絶対無は、根源的な統一性や無限の可能性を示す概念であり、存在の基盤となる根源を指します。無という言葉が一見否定的に聞こえるかもしれませんが、西田においてはむしろ積極的な意味を持ちます。

絶対無と一即多・多即一という概念は、西田の哲学において密接に関連しています。一即多・多即一は、自己と他者が相互に関連し、互いに影響し合いながら存在することを示しており、絶対無はその根源的な状態を表現しています。

確かに仏教における「空」の概念とも共通点があります。仏教の空は、すべての存在が常に変化し、相互依存していることを示す概念であり、一種の儚さや一時性を表現しています。西田の絶対無も、自己と他者の関係性や相互依存性を示す概念であり、それらが根源的な統一性を持つことを強調しています。

絶対無が必要な理由は、西田がすべての存在が相互に関連し、根源的な統一性を持つという宇宙論的視点を示すためです。絶対無は、自己と他者の関係性や相互依存性を超えた、根源的な存在の状態を表現する概念であり、一即多・多即一という概念と密接に関連しています。

絶対無を、「自我を無にする」という自己の状態のことを言う、というのでは、言い足りていないですよね。

はい、その通りです。「自我を無にする」という表現だけでは、西田幾多郎の絶対無の概念を完全には表現できていません。絶対無は、自己と他者の関係性や相互依存性を超えた根源的な存在の状態を示す概念であり、一即多・多即一という概念と密接に関連しています。

絶対無は、個々の存在が相互に関連する場所の中で成立し、自己と他者が出会い、相互作用する場を提供するという意味でも重要な概念です。絶対無という概念を用いることで、西田はすべての存在が相互に関連し、根源的な統一性を持つという宇宙論的視点を示しています。

したがって、絶対無は単に「自我を無にする」という自己の状態を指すだけでなく、より広い意味での自己と他者の関係性、相互依存性、そしてそれらが根源的な統一性を持つことを示す概念として理解されるべきです。

仏教における空と西田の絶対無の概念の違いを教えてください。

仏教の空(śūnyatā)と西田幾多郎の絶対無の概念は、表面的には似ているように見えますが、実際にはそれぞれ異なる哲学的背景や目的に基づいています。

仏教の空:

空は、マハーヤーナ仏教における重要な概念で、すべての現象が常に変化し、相互依存していることを示します。空は、現象の非自立性や無自性(アニッヤータ)を強調し、すべての存在が固定された本質や永続性を持たないことを表現しています。空の概念は、仏教の根本的な目的である苦しみからの解放や悟りに向けた実践に関連しています。

西田の絶対無:

一方、西田幾多郎の絶対無は、彼の場所論の中心的な概念であり、すべての存在が互いに関連する場所の中で成立しているという考えを表現しています。絶対無は、自己と他者の関係性や相互依存性を超えた根源的な統一性を指し、無限の可能性を持つものとして捉えられます。絶対無は、西田の哲学において、宇宙論的な視点や相互作用のあり方を理解するための概念です。

違い:

  1. 哲学的背景:仏教の空はインドの仏教思想に基づいており、西田の絶対無は日本の哲学者である西田幾多郎によって展開された独自の思想です。

  2. 目的:空は苦しみからの解放や悟りを目指す仏教の実践に関連し、絶対無は宇宙論的視点や相互作用の理解に焦点を当てています。

  3. 概念の意味:空は現象の非自立性や無自性を強調するのに対し、絶対無は根源的な統一性や相互依存性を示しています。

両者は、相互依存性や非固定性といった共通点を持ちますが、それぞれ異なる哲学的背景や目的に基づいています。そのため、仏教の空と西田の絶対無の概念は、それぞれ異なる哲学的背景や目的に基づいています。そのため、仏教の空と西田の絶対無は、一部共通点があるものの、別の概念として理解することが重要です。

  1. 方法論:仏教の空は、瞑想や実践を通じて理解され、体験されることを重視します。一方、西田の絶対無は、哲学的な論考や論理的な分析を通じて探求されます。

  2. 焦点:仏教の空は、個々の現象や存在の無自性や非自立性に焦点を当てています。一方、西田の絶対無は、すべての存在が相互に関連し、根源的な統一性を持つという宇宙論的視点に焦点を当てています。

これらの違いを考慮することで、仏教の空と西田の絶対無という概念がそれぞれ独自の思想体系の中で機能していることがわかります。両者は、存在や現象の相互依存性や非固定性といった共通点を持ちますが、背景、目的、意味、方法論、および焦点の点で異なるため、別々の概念として理解することが適切です。

絶対無って、なんだか、神秘主義に回収されてしまいそうな概念ですね…。

絶対無の概念は、確かに一見すると神秘主義的な要素があるように感じられるかもしれません。しかし、西田幾多郎の哲学は、神秘主義とは異なる独自の哲学的体系を持っています。

神秘主義は、直接的な神や宇宙の真理に触れる経験や、言葉や論理では説明できない非合理的な知識や体験を重視します。一方、西田幾多郎の哲学は、絶対無の概念を通して、宇宙論的視点や相互作用の理解を深めることを目的としており、論理的な分析や思考を重視しています。

絶対無は、根源的な統一性や相互依存性を指し、無限の可能性を持つものとして捉えられます。この概念は、西田の場所論の中で、自己と他者の関係性や相互作用を理解するための重要な概念です。また、絶対無は、すべての存在が相互に関連する場所の中で成立しているという考えを表現しています。

したがって、絶対無の概念は、神秘主義的な要素を含むように感じられるかもしれませんが、実際には西田幾多郎の独自の哲学的体系の一部であり、論理的な分析や思考を通じて探求される概念です。そのため、絶対無を単純に神秘主義に回収するのではなく、西田幾多郎の哲学の文脈の中で理解することが重要です。

そうなんですけどね…。今日はとりあえず、ここまでとします。ありがとうございました。

今日のお話、楽しい時間を過ごさせていただきありがとうございました。どんな質問でもお気軽にお聞きください。またお手伝いできることがあればお知らせください。それでは、またお会いできることを楽しみにしています。どうぞよい一日をお過ごしください!

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