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人をこれ以上分割不可能な個人(individual)に分けながら、普遍を追求した近代の帰着したところ

近代という時代・運動が面白いのは、人を、文字通りそれ以上分割(devide)できない個人(individual)へと分割し、個人の単位での「自由」を保証していく一方で(結婚や移動、職業選択の自由)、普遍的な価値を追求したという点。近代以前は、そうした自由が保証されていなかったし、個人は家や集落、階級などに縛られていたが、そこからの開放は、別の不自由を生み出していた。

個人が下す「自由な」決断というのは、結局、さまざまな文化的なコードなどによって、柔らかく成約されていた。日本はわかりやすいが、「他人に迷惑をかけてはいけない」という規範から、さまざまな同調圧力がかかる。この同調圧力は、いろいろな「普遍性」を身にまとって、個人に圧力をかけてくる。コロナ禍で明らかになったのは、そんな日本だけでなくヨーロッパにだって実は「近代的な自由」などはなく、個人の行動の自由は制限されてしまうということだった。「科学の普遍性」は、いともかんたんに、新しい規範で人々をしばる。

その意味で、科学のもたらす普遍的規範に反旗を翻し、マスクもつけないアメリカのトランプ的「自由」は、面白い。銃を持ち、個人を個人で守ることが保証された社会は、近代がもたらしたもうひとつの社会だろう。いくら殺人事件が増えようとも、コロナ感染者が増えようとも、「自由」を保証し続ける社会である。そしてその社会がもたらしたのは、深刻な分断であった。誰がなんと言おうと、科学的に否定されようがどうしようが、「陰謀論を信じる自由」があるのだ。別の言い方をすれば、左派のほうが教条主義的で窮屈になり、右派のほうが(やぶれかぶれの)自由があるような現在の状況にたどり着いた。そしてその右派も、類型化されていく(個人の自由にもとづく多様化というよりも)。

郡部の「忘れられたひとたち」の支持に支えられるトランプ、日本で言えば地方のマイルドヤンキーの支持に支えられる自民党という構図は、反近代的にみえるけれども、実は近代の帰着でもある。

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