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価値と時代の変化 - 自分の分身がもう一つの自分として存在する今

備忘録的に今朝考えたことを書き殴っていく。


現在進行形でもそうなっているように、

1. 今後はよりリアルの場で生身の人間がサービスを受けてそれによるメリットを受ける場合



2. 自分の分身のアバターみたいなものがより評価されたり、よく見えるようにするためにお金を払う場合に加えて1が行われたのちに、2のメリットも提供される場合

の大きく分けて二つで世の中には市場ができている。

1.の例としては、とくにオフライン完結で、生身の人間として生きていくために必要なこと、例えば介護だとか、とりあえず清潔に保つための散髪屋、整体、病院など。とくに表面的に見えるものではないけど生命を維持したり、最低限社会の構成員として生きていくために自分。整えるのに必要なもの。ひとまず生きていくためめに食べたりするものが売ってるスーパーやコンビニもその類い。

2.はいわゆるデジタルファッションのカテゴリーであるが、例えば、今それなりに高いレストランとか、良いホテルとか観光地に行って、写真や動画を撮らない人はほとんどいなくて、その後にはインスタとかSNSで共有するところまでがある意味セットになっている。正直、オフラインで良い気持ちになってるけれども、それだけではなく、さらに実際に会ってない人に自分はこんな良い経験もしたんだぞというある意味自慢がしたいという需要が根強く存在しており、そういう気持ちを表現できる事象を広義的な意味で「デジタルファッション」とここでは呼ぶ。

今回は特に、2について、今後の数年や10年後などを考えるために考察を行っていくが、

実際、年々人によってはオフラインでその場で楽しんでいることももちろん重要であるが、それを写真や動画に残して、オンラインで自分のアイデンティティとして見せるということに重きが置かれている人もいるような気がして、

そう考えると、自慢ができる概念や事実だけ担保できれば、それはその人にとって、オンライン上の自分の分身が他の人から羨ましがられて、とくに対面で褒められたりするわけでもないのに、満足できるように人間は進化してきている気がしている。

正直言って、SNSの自分はある今広義的な意味での自分の分身であり、そこにいる自分が本当のリアルの世界の自分であるとは限らないが、今の時代ではそれはそれでまた一つの自分として認識できるようになってきている。

オンラインゲームでもそうだし、動物の森なり、アメーバピグなり、とになく自分の分身と自分であると認識して、生身の人間と同じレベルで喜び、悲しみを感じれるほどシンクロしてきている。

1と2の大きな違いで言えば、

1は個体として一つしか存在できないが、

2はそれこそプラットフォームごとに複数の人格を持つことができてしまう。ある意味天井はない。

じゃ、本当の自分ってなに?

って話になると思うが、それはどれも本当の自分ということができ、そこに優劣はない。

21世紀を考えるにあたり、これまでとの大きな違いはそこで、そして理解できない人が多い点はそこであるが、特にZ世代はこういう気持ちである人がとくにデジタルネイティブである彼らは当たり前のように考えている可能性は高い。

そういう意味でも、「価値」って常に変化しており、感じる人間たちの価値観が違うと、より評価される価値も変わってくる。

日本でみても、例えば縄文時代にモテた人、戦国時代にモテた人、明治時代にモテた人、昭和にモテた人、そして平成や令和の時代にモテる人って、まったく同じではないし、

国が違うとその点も微妙に文化的な違いから価値観も変わってくるから、そこも普遍的ではない。

だから、「価値」というものは今後も多様化し、さらに自分の分身がどんどん増えていくため、サービスを提供する側は生身の人間だけを見るのではなく、その生身の人間を中心にした、分身たちをも見てあげる必要があり、そこに市場のポテンシャルは存在する。

実際、存在するテクノロジーや使われるツールはその時代の人間の価値観に影響を与えることはいうまでもないし、それによって優先される価値もどんどん変わっていく。

価値は水もので、「今」のタイミングで「今の人たち」に提供している価値が必ずしも5年後、10年後も同じレベルの価値として認識されるという保証はない。

ただ、逆に昔のものがよくなったりなど、そういう現象はよく起きていて、それはファッションの世界ではわりと普通に起きていること。例えば今の若者のファッションは80-90年代の時代のファッションの復刻版みたいなものであったりするから、廃れた価値がまたカムバックするという可能性も存在している。

いずれにせよ、時代は常に変化しているが、物事をよりシンプルに考えるためな、その時代、その時代でいったいどんなものが価値として評価されているのかについては、社会の変化に伴ってしっかりと追っていく必要はある。結局、自分のなかでは価値でなくても、相手にとって価値であればそれはお金なりを払う意味のあるものになるわけだから、サービスってそこまで複雑なものではない。