うしろめたさの人類学

 世の中、どこかおかしい。放縦がまかりとおっているようでいて、どこか窮屈だ。それぞれが自分は心を少し病んでいるような気分になっているのに、表向きは個人や個性をアイデンティカルな金科玉条にする。
 政策や市場は明るい解決をめざしているのだが、いろいろなところに暗がりが見え隠れする。社会にも自分にも「ひずみ」がおこっているように感じる。何をしていても、なんとなく「もやもや」や「うしろめたさ」があとをひいているのは、そのせいかもしれない。
 われわれは交換する動物である。交換によって社会をつくり、市場をつくり、国家をつくり、家族を構成してきた。その交換の大半が、いまはお金を媒介するようになった。食品や商品を買うにはそれでも割り切れるようになったことがふえたかもしれないが、感情や共感の交換はそれではおこりにくい。だからバレンタイン・チョコを渡すときには値札をはずし、気持ちをあらわす言葉を付けたりする。取引の交換ではなくて、贈りものですよというかっこう、すなわち贈与というかっこうをとる。
 けれども、贈与はさまざまな社会の「きまり」で制限されている。贈与者が何かのアドバンテージをもっているようにもなる。だから議員たちは選挙民に団扇を配ったりメロンをあげたりしてはいけない。では贈与にひそむ気持ちを経済にするには、どうすればいいのだろうか。年賀状かお中元を続けるか、さもなくば、経済そのものの「きまり」に少しずつでも「ずれ」をおこすしかないだろう。
 今日、明快なことは制度や法律の「きまり」の中で許されたことにしかおこらないようになってきた。どんなところにもコンプライアンスが先行するのだ。そのぶん、そうではない行為や気持ちには、どこか「うしろめたさ」がのこるようになってきた。
 そういう「うしろめたさ」をどのように解釈すればいいのだろうか。人類学者は何を準備すればいいのだろうか。本書はそういう気持ちで綴られた。

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