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下北沢JM整体院長 前村良佑 人生プロフィール

皆様初めまして!

下北沢JM整体 院長 前村良佑です!

今回は初めてnoteを作成してみました。様々な方に私の生い立ちから知ってもらおうかと思います!

勝手に語りますww

私は神奈川県三浦市生まれです!神奈川の最南端に位置する海に囲まれた市で育ちました!母親は美容師で実家は美容室!父親は海上自衛官という少し特殊な家庭だったかと思います!

幼少期から身体は人の2倍は大きかったようです!笑

小さい頃から身体を動かすのは好きな方でしたし、とにかく大きかったので相撲の大会に出たり、父親の影響で柔道を習い始めました!

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中学では柔道部に所属し毎日練習でした!!あんまり休みがなかった記憶だけが良く覚えています!

実は相撲で神奈川県チャンピオンになって相撲で全国大会にも出場しちゃいましたww


初めての挫折と夢を切り替えた高校時代

高校では東海大浦安高校に柔道推薦で入学して、15歳で親元を離れて寮生活を始めました。今ではこの経験が自立への第一歩でしたね。

ここでは全国から強豪が集まります。正直あまり真剣に練習にも取り組めない時期がありました。中学の頃から私はサボりグセも酷くてちょっと怪我したら休む、そんな選手でしたが、二年生の12月に団体戦のレギュラーに選ばれました!そうなったらやる気を出して頑張ったのを思い出します!ただそんな時に怪我をするもんなんですね。朝起きると右肘が全然動かないし激痛だったんです。ただトレーナーもいないし、練習を休んだらもうレギュラーに戻れないと思い根性で練習を続けました。(多分人生でも一番根性出しました)

ただ三週間ほど経っても痛みも取れないし、可動域もほとんど改善しませんでした。

これはまずいかなと思い休みの日に整形外科を受診。

診断結果は骨折と靭帯断裂、しかも骨折はもう癒合していて変形したままの状態だと、オペも勧められましたがそうしたらもう夏の大会には戻れません。

私はこの高校生活で柔道は諦めようと決心しました。

中途半端な気持ちで大学で柔道を続けても親にも申し訳ないと思い、別の進路を歩むことにしました。

ここでやっと柔道整復師という名前を知ることになるんですね。

まず第一目標はトレーナーになって、母校に恩返しをしたいという思いでした。

もう自分のような選手を出さないようにする。

ここでトレーナーのことを色々と調べていくと、医療系の国家資格を持った方が良いと聞きました!

そこで最初は病院のリハビリの人!そう理学療法士の存在を知るんです!

まずは専門学校を調べると、結構倍率高かったんですよね。笑

柔道ばっかりで全然勉強してこなかった私ですから、受験嫌だなーと感じていましたが、もう後には引けません。

専門学校の見学や体験授業などを受けて西葛西にある専門学校に決めました!

そこならAO入試で多分受かりそうみたいなイメージでした。笑

ただし当時はAO入試を受けるにも体験授業などを3回ほど受けなくてはいけませんでした。

3回目の体験授業の終わりになぜか私だけ別室に呼ばれ、学校のお偉いさんに囲まれました。

俺なんかやったかな?

もしかていきなり無理とか言われるのかなと思っていると、、、

『なんで東海大浦安高校で柔道やってたのに柔道整復師科に来ないんだ?』

えっ?

もう高校で柔道は引退しようと思ってと告げると、、、

『柔道の特待で取るから柔道整復師科に来ないかと、、、』

てか柔道の特待あんの?※今は多分ないです

また柔道もできる!!

そんな軽い気持ちと将来の夢や目標を話しをすると、それなら柔道整復師でできる!!

そう言われたなら、気持ちはもう柔道整復師です。笑

そして高校を卒業間近に三年生を送る会が柔道部で行われ、そこで将来の夢を語りました。

『柔道整復師になって、東海大浦安高校のトレーナーになります!』

『そして必ず高校日本一になります!!』

その夢を持って専門学校に進みました!

世の中を甘く見ていた専門学校時代

ここからが本当に大変でした。

まずは何にびっくりしたかというと、届いた教科書の多さと中身の濃さでした。

これを見たときは資格取れないかも、、、

そんな不安ばかりが頭をよぎりました。

一人暮らしで仕送りはなかったもで、毎日がアルバイト生活の日々、、、

新しい環境に私は腐りました。笑

○全然勉強しない。
○毎日のように深夜まで遊ぶ。
○学校をサボる。
○一丁前の夢や希望だけ語る。

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もう思い出すだけで恥ずかしいですねww

このようなやつを厨二病と言うのでしょう。

生理学なんて臨床の現場で必要ない!!

解剖学よりドンドン技術力を磨かないとダメだ!!

こんな風に思っていました。

はい。 
痛いやつです。

結局は生理学は臨床の現場でもめちゃくちゃ大切だし、解剖学わからないと技術力は身につかないんですよねww

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毎日アホなことばっかやってましたねww

これはこれで今となっては大切な思い出です!!

学生時代に多くの友人には恵まれて、その事に関していえば感謝しかないです。

ですが、整骨院でアルバイトしながら臨床の勉強は大好きでした!

当時はセミナーや医療系の関連書籍は高くて手が出ませんでした。

なので休みの日は新宿の本屋さんまで行ってよく立ち読みばかり何時間もしていました。

※当時の本屋さん本当にごめんなさい!!

国試の勉強は疎かになってしまい、臨床の勉強ばっかり、、、

今思うと良くなかったと反省しております、、、

話は変わり、専門学校二年生の終わり頃から、勝手にトレーナー活動なんかもやってました、当時はmixiの全盛期!コミュニティでアマチュアのスポーツ団体の方に連絡して、無料でトレーナーやるのでやらせてください!!

結構いろんなチームにトレーナーの真似事でやらせてもらいました!

今でもあんなに未熟な自分を受け入れてくださったチームの方々には本当に感謝です!

そして三年生の時には最大の壁が待っていました!!

柔道整復師国家試験

本当に勉強できなくて、、、

というか勉強のやり方がわかってなかったんです、、

国家試験1ヶ月前から缶詰め授業と言われる、文字通りの朝から晩まで教室に缶詰め状態での地獄の勉強がスタートします。

この間は人生で一番勉強しましたね。

この時も仲間や先生方に助けられました。

勉強できない私に必死に教えてくれたり、夜遅くまで残ってプリントを用意してくださった先生方には今でも頭があがりません。

そして試験当日を迎えました、緊張でほとんど寝れなかった記憶があります。

試験終わって一度専門学校に戻り、自己採点。

結果は、、、、、

めっちゃ高得点で合格してましたww

マークシートのミスさえなければほぼ合格間違いなし!!

この時は嬉しくて泣きながら親に電話しました。笑

そして母校の恩師に柔道整復師になれましたと報告の電話すると、先生からトレーナーとして帰ってこいと言っていただいたのです!

そして晴れて柔道整復師として、社会人になることができました!!

魔の社会人一年目

私は専門学校3年時から、先輩が新しく立ち上げた整骨院で就職をする前提でアルバイトしていたので、そのままその整骨院にお世話になることになりました!

誘って頂き、入社したのですが条件として、母校のトレーナー活動をしたいとお願いをして入社。

ここからが本当に大変でした、、、

簡単に並べると、、

○一年目から院長
○月水金は介護施設でお昼休みに機能訓練指導員
○火木は専門学校の柔道部のコーチ
○土日はトレーナー活動

そうです。

休みなかったww

この時は若いからこんなことできたけど、今じゃ正直辛いですね!!

でもこの経験が今の自分を作ってくれたので後悔はないですし、むしろ感謝しています。
同級生の5倍は経験つめたんじゃないですかね?笑

この時社会人一年目で22歳の時に東海大浦安柔道部のトレーナーにもなり、一年生として入学してきたのが、今専属トレーナーをしているウルフ・アロン選手です。

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一年生からスタメンだった彼はよく私と一緒に行動していました。
単純に寂しがりやだったんだと思いますww

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夢だった全国制覇

日本一も経験することができました!!

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一緒に勝って喜び、一緒に負けて泣く
トレーナーは私にとって青春をもう一度思い出させてくれる大切な場所です。

写真の彼らももう社会人となり、今でも大切な後輩であり仲間です。
一緒にお酒飲むと、親になったような喜びですね。

そして気づけば私が25歳の時に独立開業を意識するようになります。
独立は30歳前までにするのが私の目標でしたので、この目標の為に私は会社に退職の旨を伝えましたが、もう少し手伝って欲しいとのことでしたので、独立準備とフリーランスとして活動し始めました!!

簡単にはいかない独立と挫折、人に裏切られた人生のどん底


この頃一人暮らしから、実家に一度引越しをします。
実家に戻ったのは実家で開業しようとしていたからなのと、祖母の認知症、祖父の体調不良もあり、家族を少しでも助けにならなければと、実家に一度戻りました。
ただ仕事は東京だったので、週に三日ぐらいしか実家にいなかったんですけどね、、、

この頃の私は、、、

○トレーナー活動
○独立開業準備
○美容サロンの運営
○出張整体
○介護事業のお手伝い
etc,,,

お金はないけど毎日めまぐるしく働いていましたね、、、

もともとがあまり休むタイプの人間じゃないから、ここでも忙しく働いていました。

この時は人生のどん底だったかもしれません。

○人に騙されて給料の未払い
○地元で開業予定にしていた不動産が急に全部他に取られる。
○祖父の余命宣告


もうこの業界で働くの辞めようかと思っていました。
なんの為に働いているのか、自分は将来どうすればいいのか、
この頃はまわりには明るく振舞ってもいつもどうしようか悩んでばかりいました。
人に騙されても人を信じて、交通費は自分持ちで給料が支払われない、貯金はなくなり、祖父や祖母の介護。


その時にあるお客様でいる人にワラをもすがる思いで相談したのがツイッターでもおなじみのP社長です!!

メンタルやられていたからなのか、本当に今思えば失礼なことでしたが、様々な共通点もあり、人柄も素晴らしかったので、P社長に相談すると本当に親身になって相談に乗ってくれました。

今本当にこの人がいなければ私の人生は終わっていたと思うし、この人のおかげで変わることができたんです。
そして独立開業を1ヶ月前に控えたその時に余命宣告を受けていた祖父が亡くなりました。

相撲や柔道が大好きで、いつも私の味方になってくれた祖父。

体調が悪くなってきた祖父に何かプレゼントしようと、見たいスポーツあるかと聞いたら、良佑の柔道の試合みたいと言われた時はびっくりしましたが、久しぶりに柔道着きて練習して、試合出ましたよ。笑

2週間前まで入院してたのに、試合見に行くんだって、わざわざ東京まで試合の応援にきてくれた祖父。

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最後に独立した姿を見せてあげられなかったことが後悔が残りますが、逆に決心は固めることができたと思います!

今でも感謝しています!

ありがとうおじいちゃん!!

そして紆余曲折ありながらも、独立開業の日を迎えるのです!!

最悪のスタート?準備が全然できなかった独立開業!!

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2017年12月04日

下北沢JM整体院開業!!

実は前日はグランドスラム東京と言われる、日本で唯一開催される国際大会にトレーナー帯同していました!!

そうなんです、開業前日もトレーナーやっててクタクタのままで開業しました、、、

ホームページも看板も電話も何もない状況からのスタート。
もう開業から2週間は寝てたのか記憶に全くございません。
またこの辺の話しは別の機会に書きますかね。
お楽しみに!!!笑

とにかく最悪なスタートを切った私ですが、、、、

一人治療院で開業から3ヶ月目で黒字転換!!
今もおかげさまで赤字にはなっていません。


そもそもなぜ整体にしたのか?

よく言われるのですが、柔道整復師だから必ず接骨院にしなければいけないのか?
そして保険請求のあり方については疑問点は多々ありました。

もちろん外傷を診ることは素晴らしいと思いますし、多分ですが骨折・脱臼の整復などもそこそこ経験できた方でもあります。
もちろんtwitterでお見かけする外傷のスペシャリストの先生方には足元にも及びませんが、、、

まあ自分らしく楽しくやりたい!
これが一番の理由かもしれませんww

今後は接骨院もやりたいとも思っていますし、、、
これで失敗したらもうこの業界は諦めようと思っていましたから、、、
まずは東京で裸一貫で自分の存在意義を証明したかったんだと思います!

場所は下北沢に決めたのは、先輩から場所を居抜きで譲ってもらえたのと、小田急線ならウルフも通えるしなーとか、渋谷、新宿から一本で来れる立地の良さがあるなーとか、お恥ずかしいですが、あんまり深く戦略的なものはなかったかと思います、、、

そして激動の2019年、、新しい相棒を手に入れて、、

開業して一年お陰様で新規のお客様をお断りしなければいけないくらいにお店は絶好調でした。
毎日朝から晩まで施術の日々に休みもろくに取れなくて、、
※それは単純に私が悪いですww

そろそろ新しいスタッフとか入れないとやばいかなと思っていた矢先にこの男が現れました。

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そう吉澤先生です。

彼は知っている人もいるかと思いますが、地元が同じ神奈川県三浦半島の出身で
同じ小学校だったんです。そして私の弟の同級生でした。
よくウチにも遊びに来ていました。

彼が専門学校に通学していた際に、柔道を練習したくて弟に連れてこられて、道場で一緒に練習しました。
同じ柔道整復師を目指していた彼はその後を色々と相談をしてくることがあり、よく連絡をとっていました。
そうしたら急に下北沢で働きたいと言ってきたので、これは鴨がネギ背負ってきたと思い、今でも共に働いてもらっています。

彼の勉強熱心なところや人脈を広げる柔軟な姿勢は本当に素晴らしいです!
完璧にやりたいようでどこかマヌケな彼がいてくれたおかげで今は本当に助かっていますし、今では彼がいてくれないと仕事がまわりません。
弟のような可愛くも頼もしい相棒を手に入れました。

彼が入社してくれてからも仕事は絶好調!
色々と忙しい日々でした!

そして2019年はオリンピックの前年度となり、東京で世界選手権が行われます!
※柔道はオリンピックの開催前年度は開催地で世界選手権を最近は行います!

そしてウルフは2019年も100キロ級で日本代表に選出されました!

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突然訪れた人生の転機、、、

8月25日から世界選手権は開催され、ウルフは8月30日に出場予定の為、8月23日からウルフのケアに行く予定で仕事のスケジュールは夕方までで予定を組んでいました。

ですが、、、

8月23日のAM5:30に一本の電話で起きました。

父からの電話でした。

普段は家族から電話をくることなんて滅多にないし、しかもなんでこんな早朝にと思いました。

父から兄が倒れたとの一報でした

うちは三人兄弟で私は次男で二つ上には兄がいます。

その兄が倒れた?

寝起きだったものですから、よく事情がわからず、なんで?どうして?と聞いても父もまだよくわからないと。

でも心の中で、現代の医学なら大丈夫だろう。
まず死にはしないだろうと少し安心していました。

だって1ヶ月前に一緒にお酒飲んで家族で一緒にカラオケ行ってワイワイやってた人間がって思いますよね?

もう一度寝ようと思ってもなんかそんな時ってソワソワして寝れないもんですよね。

一時間後に今までに聞いたことのない父の震えた声で『拓也が亡くなった。』

30年生きてて今までも色んな経験したけど、本当に頭が真っ白になったよ。

そのあとの電話の記憶が一切ないぐらいに、、、

時刻はAM6:30、、、

どうしたもんかよくわからなくて、色んな人に電話やLINEをしたのはよく覚えている。

その日はすぐに家に帰りたかったけど、自分の足で帰れる自信ないから、吉澤先生に車出してもらって、仕事終わったら車で実家まで送ってもらって、、、

本当に助けられました!! ありがとう!!


兄貴が亡くなった当日に仕事したほうがいいのか、早く実家に帰った方がいいのか迷ったんだけど、俺は仕事を選択した。
もちろんこれを読んでくれている人に親族がなくなったらすぐに駆けつけてほしい!

別にかっこよくもなんともない!!
でも仕事してないと自分保てない感じがしたのと、目の前に苦しい思いや困っているお客様がいると思ったら、なんとなく予約をキャンセルさせてはいけないとその時は思ったんだよね。
それが正解か不正解かも今となってはわからないけど、仕事が生き甲斐だし、楽しいし、きっと兄貴も別にすぐ来なくていいよって言うようなそんな兄貴なんですよww

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激動の一週間

兄貴が亡くなった当日に実家帰った時に冷たくなって動かない、息もしない姿がそこにありました。
どんだけ泣きましたかね?
どんだけ悔しい気持ちになりまたかね?
魂の抜けたような母親が兄貴の頭を泣きながらさすっていましたよ。

兄貴の死因は脳出血。
亡くなっても鼻血が止まらないから、まだ生きているのかと思ったよ。
それを泣きながらティッシュ交換している母親の姿に俺も涙が止まらなかった。

その日は家族で兄貴と一緒に寝ました。
もう20年ぶりぐらいに川の字で寝ましたよ!
兄貴は亡くなって私たち家族に本当の意味での家族の大切さを教えてくれたような気がします。

翌日も予約あったから、早朝から下北沢に戻り、親に無理言って兄貴の葬儀は早めに行ってもらった。
ウルフの世界選手権があるから、8月28日からは合流するからお願いと、、

月曜日の仕事終わりに通夜が行われ、翌日は告別式、火葬場へは家族だけにしてもらいました。

それまではなんかまだ生きてるんじゃないかと思うような感覚があり、やりきれない思いのままに火葬場へ、、、

骨だけになった兄貴を見たその瞬間、もうこれで帰って来ないんだなと思うと、不思議と心が軽くなり、前向きな気持ちになれたことを鮮明に覚えている。

そして試合三日前にウルフと合流して世界選手権も無事に帯同することができました。

これが海外だったらすぐに帰国することができなかったと思うし、日本での開催に本当に救われました。

ウルフの試合終わって、一人で日本武道館の外で疲れすぎて座り込んだ。
人生で一番疲れた一週間だったな。

兄とのエピソード

兄が亡くなって一週間様々な思い出を振り返る余裕もないぐらいに忙しくて、でも振り返ると今の自分がいるのも兄のおかげだと、、、

正直、私の兄は人に紹介できるような兄貴ではなかった、オタクだし、仕事もはたらいていたけど特にやる気もある感じではないし、家族には迷惑かけるし、、、

でもめちゃくちゃ優しい兄貴だった。

俺が高校一年生の時に兄貴は高校三年生。
※兄貴は神奈川の強豪校の相撲部でインターハイや国体選手でした!

進路どうすんの?
夏に兄貴に聞いたときに、

俺は大学の話もあったけど、就職するよ。
お前は頭も俺よりいいし、大学なりなんなり気にしなくていいから行けよって。
金のことは気にすんな。
俺が働くからって。

兄貴は就職してから、当分の間親に給料の一部を渡して家計を助けてくれました。

そんな兄貴の言葉をずっと忘れないで感謝しているよ。

自分でなんでもやれてる気になっていたけど、家族や周りの人に支えられて生かされてるんだと、再認識したよ。

本音言ったら俺が結婚したら結婚式にも来てほしかったし、子供生まれたら抱っこもしてもらいたかったよ!

まあ多分あんまり乗り気じゃないかもしれないけどww

エピローグ


そして現在は元気に仕事してますよ!!!!
コロナウィルスで大変だけど、まだまだ頑張れるってー!!

皆さん私の壮大な人生プロフィールはいかがでしたか?笑

もちろんこれを見てくださった方の中にはもっと壮大な人生を歩まれているかと思います!!

あくまで私の人生なんで、、、ww

今思うことは、兄貴のおかげで家族がより仲良くなれたかなと思います!
もう人生の転機はいっぱいあったし、いっぱい苦労も辛い思いもしたし、普段は人に見せないようにしているけど、SNSを通じて若い世代の人達にこんな感じだったんだと知ってもらえて、俺も頑張ろうとか、ちょっと勇気出たとか、思ってもらえたら幸せです!!

そして家族を大事にできていない人は家族を大事にしてくださいね!
突然目の前からいなくなってさよならも言えないことがこんなにも悔しいことはないよ!!

今の当たり前は当たり前ではないということ!

人生はまだまだ私も勉強中!!


私のセラピストとして大事にしているテーマが、、、

『手で人生を支える』

この中には手で支えると書いて

「技」

すなわち技術なんです。

技術は持ってて当たり前って思ってます!!

もちろんまだまだ未熟です!

だからこそ磨き甲斐があります!!

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そしてウルフはオリンピック日本代表にも選ばれました!!
来年2021年はオリンピックが開催されることを願っています!
そしてそして兄貴は31歳でこの世を去りました。
奇しくも今年の5月17日で私も31歳!

兄貴がなることのできない32歳にまさかの延期したオリンピック!!

これは来年に向けてもっともっと頑張らないと!!

もちろん健康にも気をつけなくちゃ!!笑

そしてオリンピックで皆さんウルフ・アロンをぜひ応援してください!

私の家族で大切な弟みたいな彼ですから、、、ww



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