強気の勝負で何が悪い

大学のジャズ研でビッグバンドをやっていて、一年間コンサートマスター(コンマス)をやっていた。
コンサートマスターというと、オーケストラにおける第一バイオリンを連想するが、自分はバイオリンは出来ないし、自分がやっていたのはそういう仕事ではない。
ビッグバンドは金管楽器・木管楽器・リズムセクションを含む十数人でジャズを演奏する演奏形態のこと。ビッグバンドの最大の特徴(吹奏楽やオーケストラとの一番の違い)は、「指揮者がいない」こと。十数人もメンバーがいるのに、指揮者がいないから、お互いの息を合わせて演奏しなければならない。とすると、最も効率のいい演奏方法は「事前に約束を決めておくこと」となる。「〇小節目は小さく、〇小節からだんだん大きくしていこうな」「ここからここまではドラムソロにしよう」などと事前に完璧に決めておけば、演奏中戸惑うことは少なくなる。その取りまとめを行う立ち位置を「コンマス」と呼んでいた。
楽器初心者だらけの学バンでは、コンマスの役割がとても重要になる。ともすればコンマスの教え方・まとめ方によってクオリティが簡単に左右されてしまう世界だ。
自分がコンマスだったときにいつも付きまとった悩みは、自分が自分自身のために時間を使うよりも、みんなのために時間を使った方が、結果としてコンサートは成功するのではないか、ということだった。個人練習の時間を減らして多少技術が落ちたとしても、自分の目立つ場面を減らしてでも、バンド全体のクオリティを上げるために時間を割いた方が観客は満足するのではないか。そして、バンド全体のクオリティが高くなればなるほど、コンマスとしての私は評価される。と思っていた。
忘己利他。その言葉が似合う仕事だった。

でもやっぱり、一個人としての表現も大事にしたかった。時間を他人に割くことでただ下手になるのならまだしも、下手になったことによって、自分が音楽を通して伝えたいことが伝えられなくなったらどうしよう、というのが怖かった。だからせめてアドリブソロやメロディ担当のところはちゃんと練習しようとの思いがあった。
バンド全体の夢や目標を預かって合奏をする立場だから、あまりに下手になったら誰も付いて来てくれなくなるんじゃないか、っていう疑念もないではなかった。
結果として、コンマスとしての1年間を通して、自分自身のための練習時間は減ったけれども、個人の能力としては成長できた気がしている。また、全体の中での自分の立ち位置、を考えて音を出せるようになった気もする。

バンドの取りまとめ役と
バンドのメンバーと
一人二役、二足の草鞋。

何を信じて、何を目指すか、悩んで悩んで、バランスを取るしかない。
どこに重点を置くべきかは、周りのメンバーをしっかりみつつ、自分の内面を見つめつつ、自分で決めるしかない。
信じた世界を切り開くことは時に大きな苦しみを伴うことになるけれども。


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