久しぶりにライブハウスに行ったこと

久しぶりにライブハウスに行った。確かめてみると実に10か月ぶりだった。ライブ自体はこの間に2回行ったものの、どちらも全席指定席の大きなアリーナだったため、ライブハウスと呼ばれる比較的小さな箱でライブを観るのはずいぶん久しぶりのことだった。以前は月1以上の頻度でライブハウスに通っていたことを考えると、これはもう自分にとって趣味といえるものではなくなってしまったのだなと少し寂しい気持ちになる。

以前というのはコロナが流行するより前のことだ。多くの人が互いに接するほど密集し、時に肩を組み、ハイタッチして、大声で叫んだり歌ったりする──ライブハウスが手放しで楽しめる空間でなくなってしまってから、早くも2年半が経った。あらゆるライブイベントが軒並み中止になった時期を越え、1年ほどまえからは人数や観客の声出しを制限しながらもライブ自体は行われるようになってきた。しかしそれからも、私はなかなかライブハウスに足を向けることができなくなった。

感染が怖いというのももちろんあった。コロナはきっかけであり、理由の一つでもある。けれど、ライブハウスから足が遠のいた理由はそれだけではない。

私にとってライブハウスや好きなバンドにまつわる思い出は、あまりにも”大学生的なエモさ”と結び付いてしまっている。好きな人の気を引くために好きになったバンド、そのライブに一緒に行けたこと、死にたいと思いながらもチケット代が惜しくて行ったライブで大好きなバンドのMCに号泣したこと、雪深い地方都市で行きたくもないバイトに行く道すがら、イヤホンから大音量で流れる音楽で気を紛らわせたこと、そのとき街頭の光が降る雪の一粒一粒を縁取っていたこと、大人になってそのような学生時代の思い出に引っ張られるのは恥ずかしくて耐えられないと思ったし、私がライブハウスを好きだったのもこのような思い出が身近にあったからこそで、今となっては前ほどにバンドやライブを好きだとは思えないかもしれないなと思った。そして何よりそのような形で、かつて好きだったライブハウスをもう好きではないと気付いてしまうことが怖かった。

アーティストに対する不信感もあった。音楽業界も大いに関係しているはずの政府のコロナ対策に対し、好きなバンドマンたちが何も触れないのが怖かった。ここで何も言わないの、不自然すぎない?と思うような場面で、彼らの不作為を意識してしまうのが辛かった。社会をよりよくするために行動するのはすべての大人の責任であるのに、「俺たちにできるのはいい曲を作ることだけ」的なことを好きなバンドに言われてしまうのは御免だった。毎日毎日怒りや不満を感じずにはいられないこの国で、政治や社会に無関心でいられる人たちが苛立たしく、その対象が好きなバンドであることを恐れた。私はアーティストのSNSをあまり見なくなった。


そんなわけで久しぶりのライブハウスはとても緊張した。

私が心配していた一つ目のこと、大学生でなくなってもライブを楽しめるのかという点において、心配は全く無用だったことを知った。たしかに学生時代の記憶の引き出しが強く揺さぶられはしたものの、そればかりではなかった。ステージの上で汗を散らしながら演奏する彼らは文句なしに格好良く、逆光で縁取られた観客のこぶしの輪郭線が美しく、腹の底に響いてくるバスドラのリズムが心地よく、それだけで胸に迫るものがあった。観客の声出しは制限されていて、多くの人がそれを守っていたために、以前なら全員で合唱していた部分について同じことは叶わなかった。しかし「心の中で歌えるでしょ」と煽ってボーカルが歌うのをやめ、歌が存在するはずの部分で急にインストになったとき、観客全員が確かに声を出さずに歌っていることが分かる時間があり、その異様な時間は鳥肌の立つような興奮だった。ライブハウスで起こるこの感動は別に、不安定な20歳じゃなくたって変わらないのだということが分かった。

しかしながら憂慮していた二つ目の点、バンドマンの政治的無関心については、劇的に不安を解消することはできなかった。「俺たちには難しいことは分かんねえけど」的な言葉を聞かされることこそなかったけれど(そんなフレーズが出たらすぐ帰ろうと思っていた)、特に何らかの政治的な立場を表明することもなかった。それがライブのステージ上で行われることが現状どれだけ自然なことなのか、判断がつかなかった。この国のエンタメで”政治的なこと”はなぜか敬遠されがちだから。そして私は、好きなバンドマンが政治に無関心でいると思いたくないために彼らのSNSから遠ざかった私の行為が、根本では”政治的なこと”を敬遠する人たちと同じであることにようやく気付いた。ライブハウスの熱狂に心底酔うために私がすべきことは、政治や社会の問題を自分事として立場を表明した人間に連帯することであり、そうするためには、たとえ好きなバンドに幻滅する恐れがあったとしても、都合の悪い部分から目をそらしてはいけないのだった。

私はまたライブハウスに行くようになると思う。長く離れていたために生まれてしまった憂いについてこのように分かったことが今回の収穫だった。ライブハウスに行ってよかった。これからもそう思えるといい。そう思えるかどうかは、自分にも掛かっているのだった。

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