見出し画像

夏、サミット松陰神社前店のフルーツコーナーで

友人たちとの旅行の帰り。高速道路を東京に向け走る。深夜になり、ドライバーであるぼく以外が寝静まり、流していたBGMの音量を絞る。静かになった車内で一人、フロントガラスを前から後ろへ流れていく照明灯の光を見送る。

やがて、少しの疲れを覚える。誰の同意を得る必要もない。ゆるやかに減速し、ウインカーをあげ、左側に伸びる道に入る。

そこは、小さなパーキングエリア。停車している車はほとんど無く、室内のかわいらしいお土産屋さんも閉まっている。長時間の運転に疲れたのだろう、うつろな表情でフードコートの椅子に腰掛けるトラックドライバーらしき人。家族旅行の帰り、家族は車内で眠ってしまったのだろう、一人で缶コーヒーを飲む父親らしき人。あるいは、気ままな一人旅の途中か。

暗闇の中、ポツンと光る場所に集まるぼくらは、さながら蛾のよう。そんな存在として過ごす時間が、とても心地よく感じる。

ここには、静かでゆるやかな連帯がある。もちろん、トラックドライバーとも、家族がいると思しき男とも、言葉を交わすことはない。しかし、暗闇の高速道路を走り、たどり着くまでは名前すら知らなかった、この小さなパーキングエリアを休息場所に選んだことに一方的な仲間意識を覚える。

自動販売機でブラックコーヒーを買い、駐車エリアの片隅に設置された喫煙所に向かう。一人でタバコに火を点け、いつもよりもゆっくりと煙を吸い、丁寧に吐き出す。車に戻ってしまえば、しばらくは吸うことができない。日常の1.5倍ほどの時間をかけ、吸い切る。

車に戻る途中、建物の方に目をやる。窓越しに見えるトラックドライバーは、まだ先ほどの席に座ったままだ。誰かの父親と思しき彼は、もういない。家族のもとに戻ったか、あるいは、孤独な一人旅を再開したか。

ぼくたちは、この小さなパーキングエリアに集まり、10分ほどの言葉もない邂逅の後、別れていく。あの2人は、ぼくに出会ったとすら思っていないかもしれないが、そのことにさみしさも、切なさも覚えることはない。

彼らの仕事が、旅が無事に終わることを、ただ祈るだけだ。

あるいは、新幹線の車窓から見るマンションの窓、窓、窓。そこに映るいくつかの人影。数百もの窓の向こうには、数百もの日常がある。新幹線に乗っている間、ぼくはその日常の影に時速200kmで触れ続け、そしてすれ違い続ける。

きっとこの先、あの窓の向こうにある日常を生きる誰かに、出会うことはない。出会ったとしても、超高速で通りすぎたその人だとは気づきようがない。時速200kmの出会いは、ぼくが新幹線を降りたあともその速度を保ったままどこかに行ってしまい、やがてぼくはその出会いすらも忘れることになる。

そんな出会いと別れは、深夜のパーキングエリアや新幹線の中だけの、特別な出来事ではない。これがぼくたちの日常なのだ。街の中で、電車の中で、どこかの居酒屋で、ぼくたちはすれ違う。

日常のひび割れた場所にある、パーキングエリアや新幹線は、それをちょっとだけ分かりやすくしてくれているに過ぎない。

出会ったかもしれない誰かの存在、すでに出会っているけれどもそれに気付いていないこと、あるいは一瞬の出会いと永遠の別れを繰り返していること。そして、出会い、すれ違うすべての人々にも、かけがえのない日常が存在すること。

パーキングエリアにポツンと佇む休憩所の窓は、新幹線から見るマンションの窓は、そんなことを教えてくれる。

半永久的に続く数多のすれ違いを感じながら、すれ違い続ける他者の日常にほんの一瞬だけ触れるための“窓”は他にもある。スーパーマーケットだ。

基本的に近隣住民が集まるこの場所には、いつか訪れるかもしれない邂逅の可能性が溢れている。近所の飲み屋で、カフェで、ラーメン屋で、ぼくはスーパーマーケットですれ違う「今はまだ見知らぬ誰か」の生活の登場人物になるかもしれない。その可能性の手触りは、名も知らぬパーキングエリアや、高速で通り過ぎる街で感じるそれよりもはっきりとしている。

そんな彼らがスーパーマーケットの店内で持つカゴに詰まっているのは、大根であり、白菜であり、缶ビールであり、彼らの“日常”だ。

スーツを着た男性のカゴには、2種類ほどの惣菜と、最近流行りのクラフトビールが1本。おそらく、仕事終わりに立ち寄り、これから自宅で晩酌なのだろう。5歳くらいの子どもを連れた女性のカゴには、たくさんのジャガイモや人参などの野菜、そしてカレーのルーが見て取れる。きっと、家にはカレーを楽しみにする家族が待っているはずだ。杖を突きながら歩く老婦人が手に取るのは減塩味噌やトクホ製品。長い歳月を共に過ごした伴侶の健康を気遣っているのかもしれない。

スーパーマーケットのカゴに、その人の日常は映る。ぼくのカゴは、数年前よりも軽くなった。

当時共に暮らしていたパートナーとよく通っていた、サミット松陰神社前店で持っていたカゴは、現在通っているスーパーマーケットで持つカゴよりも、少しだけ重く、その中身も彩りに溢れていた。

おそらくこれから先、スーパーマーケットでフルーツを買う習慣がないぼくが、夏が来る度、週に何度もカットスイカを買う日常はやってこない。あのときのカゴには、彼女の日常とぼくの日常が綯い交ぜになって存在していた。

今日もいつか出会うかもしれない誰かが“日常”を携えて、スーパーマーケットを行き交う。その中には、虚像も混ざる。

サミット松陰神社前店に行けば、エスカレーターで2階に登ってすぐのところにあるフルーツコーナーで、ぼくはぼく自身とすれ違うだろう。「あり得たかもしれない“いま”」の中にいる、自らの虚像と。買い物カゴの隙間から、いつの間にかこぼれ落ちてしまった日常を生きるぼくは、どんな顔でこちらを見るだろう。

いずれにせよ、もう少しでスイカの季節がやってくる。だけど、いまのぼくには関係ない。というか、そもそもぼくはどちらかと言えばモモ派なのだ。

「スイカもいいけど、今日はモモでどう?」。

そんな些細な言葉もまた、いつの間にかカゴの隙間からどろりと漏れ出して、もう戻ってくることはない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?