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料理が「できる/できない」問題を考える(あるいは、インターネットがぼくたちから奪ったものについて)

最近、料理をすることにハマっている。ただ、ハマっていると言っても、毎食自炊するわけではないし、ちゃんとやってる人からすれば鼻で笑われるくらいの頻度だろう。

いや、むしろ「ハマっている」と言えるのは、それくらいの頻度だからなのかもしれない。この言葉が使われるのは、趣味や息抜きに対してだろう。毎食自炊をするようになれば、それは生活の一部となり、「ハマっている」という表現とは乖離するような気がする。いくら毎日ちゃんと歯磨きをしていても、歯磨きにハマっていると言う人は少ないはずだ。

友人たちに「週に何度かは料理をつくっている」という話を話をすると「へー、料理『できるんだね』」という反応が返ってくることが少なくない。

そこでいつも思う。「ぼくは料理ができるのか?」と。

どのように料理を作っているのかといえば、毎回レシピアプリ(具体的にいえば、クラシルだ。いつもありがとう、クラシル)を見ている。何食べたいかなーと考え、思いついた料理名をアプリで検索。買うべきものを確認したのち、スーパーに向かい、その料理をつくるためだけに買い物をする。「これも買っておこうかな」などと考えることはない。レシピに書いてあるものだけを買う。

そして、帰宅したのちこれまたレシピ通りに調理を進めれば、出来上がりだ。

具材を煮込んでいる間(この時間を確保するために、煮込み料理をつくることが多い)に好きな音楽を聞きながら酒を飲む、あるいはレシピに軽微なアレンジを加える(だいたいは「アレ入れたの、なんか意味あったか?」となるだけだが)など、「ならでは」の楽しみがある。だからこそ、料理をしている時間が好きだし、ハマっていると言ってもいいと思う。

しかし、僕が料理をするときにやっていることといえば、文字を認識できさえすればできてしまうことばかりだ。

書いてある通りの食材を買い、書いてある通りの順番で調理していく。これは果たして「料理ができる」と言えるのだろうか。

それゆえに、「料理できるんだね」と言われるとき、僕の中でその言葉は「文字読めるんだね」と同義だ。見くびられたものだ。

と、いうことを説明しても「いや、それでも料理『できない』人もいるんだよ」と言われたことがある。書いてある通りに、というか見たとおりに(クラシルのレシピページには、調理過程を収めた動画も掲載されている。ありがとう、クラシル)物事を進めていけば、料理は「できる」はずなのだ。

「レシピサイトを見ても『できない』ってどういうことなの?」と聞くと、「なんか、『塩:大さじ1』とか書いてあるのを守れないらしいんだよね」と、「できない人」を知り合いに持つ友人は答えた。

……「守れない」? ここにおける「守れない」とはどういうことか。よもや、「レシピには大さじ1って書いてあるけど……、よーし! 10いったれーーーい!」ということではないだろう。だとすれば、ずいぶんワイルドな知り合いをお持ちだ。

と、感想を述べると、「そもそも『量る』ことができないらしく、なんでもかんでも目分量でいくから、味がおかしなことになる」そうだ。

うーーーん、まぁわからんでもない。ないが、だとすれば、「料理ができる/できない」の分水嶺は、「調味料を量れる/量れない」にあることにならないだろうか。

僕に投げかけられる「料理ができるんだね」という言葉は、ここにきて「文字が読めるんだね」から「調味料量れるんだね」にアップグレードされたわけだ。それがアップグレードなのかどうかは疑問が残るが。

ある日、ぶり大根が煮詰まる約20分の間に考えた。

インターネットの功罪はいろいろあるが、その一つに「『できない』を曖昧にしたこと」があるのではないかと。それは「功」でも「罪」でもなく、おそらくその中間に位置するものだ。

かつて、料理が「できる」と「できない」の間には、明確な境目があったはずだ。今ほどインターネット上にある情報が多くなく、個人的にもあまり活用していなかった20年前、様々な経験や知識を持っていないことを抜きにしても、間違いなく僕は料理が「できなかった」。そしてそれは、「調味料を正確に量れなかった」ことを意味しない。

おそらく、インターネットはさまざまな「できない」の閾値を大きく上げたのだ。言い換えれば、僕たちから「できないこと」を奪った。しかし、「できないこと」の減少は、「できること」の増加とは比例しない。

「料理できるんだね」という言葉に違和感を覚える理由も、ここにある気がしている。「できる」とは、その技術や知識が身体化されたときに覚える(あるいは、覚えるべき)感覚なのではないか。

つまり、インターネットは「できないこと」は減らしてくれたかもしれないが、「できること」を増やしてくれはしなかった。

経験や学習によって獲得されてきたからこそ、「できる」には固有性が宿り、他者と自身を差別化するものとして機能していたはずだ。しかし、インターネットは「できる」と「できない」の間に、大きな“緩衝地帯”を形成した。

具体的に言えば、「できる」と「できない」の間に、大きな「調べながらであればできる」ゾーンが立ち現れ、ここにさまざまな行為が位置付けられるようになったのではないか。そして、情報量の増加とともに、そのエリアは段々と拡大している。もちろん、それは悪いことではないだろう。そちらの方が生活の中での困りごとは減るのだから。

しかし、「調べながらであればできる」ゾーンの出現は、同時にさまざまな行為を“透明化”し、他者と自己を隔てるものとして機能を剥ぎ取った。たとえば、いまや多くの人(調理料を正確に量れる人)にとって、料理は「調べながらであればできること」のはずだ。僕がぶり大根をおいしく作れるのは、何らかの経験や学習の成果ではない。スマホを持っているから「できる」。

「自分らしさ」が求められる時代に、それを見出だせず葛藤する理由の一端がここにあるのではないだろうか。厳然たる「できないこと」も、「私だからできる」感覚も、失われてしまった時代の中で、ぼくらは何に「自分」を映すのか。

といったところで、ぶり大根が出来上がった。うむ、今日もよく「できて」いる。

ちなみに、魚を煮るときは、煮汁が煮立ってから魚を入れるとよりふっくら仕上がる。もちろん、これもインターネットが教えてくれた。

今日もありがとう、インターネット。そして、クラシル。


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