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アイアム“ノット”アヒーロー。いつかの夢の中で、チュパカブラ的な何かが教えてくれたこと

夢を見た。

舞台はおそらく、どこかの大きな旅館。そこに何やら大勢が集まっているのだが、場にはかなりの緊張感が漂っている。それぞれが包丁や木刀、あるいは鉄パイプのようなものを持っていて、何かとの戦いに備えているのだ。

程なくして、その「何か」の正体が分かる。正確に言えば何なのかは分からないのだが、姿が確認できるようになる。それは、端的に言えばバケモノだ。『ムー』か何かで見た、UMAの一種であるチュパカブラに似ているが、チュパカブラではない。チュパカブラを四足歩行にし、2周りくらい大きくして(チュパカブラがどれくらいのサイズなのかは知らないが)、体全体を固い体毛で覆った感じ、といえば分かりやすいだろうか。

いや、分かりやすくはないだろう。そもそも、チュパカブラがそこまでポピュラーな存在だとは思えない。参考までに、Wikiを貼っておく。

いずれにせよ、そいつの大群が襲ってくるのだ。そいつらの体毛は固く、それが皮膚に刺さると、皮膚が溶け出し、やがて死に至る。多くの仲間たちは、そいつらの体毛に触れないよう、なるべく遠距離から攻撃を仕掛け、撃退しようと試みるわけだが、いかんせん相手の数が多い。次々と仲間が溶けていく。そんな光景を見ながら、夢の中のぼくは何をしていたのかというと、詳細は覚えていないのだが、とりあえず逃げまくっていた。仲間たちの必死の抗戦を背に、逃げたのだ。

しかし、だ。映画でも漫画でも、そんな卑怯者の末路はだいたい決まっている。やがて僕は一人逃げた先で、バケモノの大群に囲まれてしまう。おびただしい数の体毛が刺さる。万事休す……

と、死を覚悟した卑怯者のもとに、一人の女性が駆け寄ってくる。それは、現実世界で一緒に働いたことがある仲間なのだが、彼女が猛然と走ってきて、バケモノを追い払ってしまうのだ。そして、ぼくの体に刺さった体毛の数々を抜き、なんかよくわかんないけど、ぼくは助かる。

そして、彼女の胸の中で泣いた。助かった安心感と、逃げてしまった自らの情けなさから、わんわん泣きまくった。彼女はそんな卑怯者に何か声をかけるわけでもなく、ただ胸を貸してくれていた。

というところで、目が覚めた。

ベッドの中で芽生えたのは「夢の中でくらいヒーローにならせてくれよ」という、誰に向けたのか分からないイラつきと、「夢の中でもこんな感じか」という情けなさだ(助けてくれた彼女に連絡しようかと思ったが、「夢の中で助けてもらったから」と連絡したらまじでキモがられるだろうし、かと言ってその他に連絡する理由もないので、やめた。いま振り返ってもナイスジャッジだと思う)。

なぜ、こんな夢を見たかについては、だいたいの見当は付いている。寝る前に漫画『アイアムアヒーロー』を読んでいたからだ。花沢健吾さんによるこの漫画は、突如発生したウイルスによって人々がゾンビ化した世界の中で、主人公が仲間と助け合いながら必死に生き延びようとする物語だ。

それだけであれば、よくある「パニック物」なのだが、この作品の魅力はそのヒーロー像にある。主人公はいわゆるオタクの優柔不断な頼りない人物で、一般的なヒーロー像とはかけ離れている。そんな主人公が情けないまま、「弱い」ままヒーローになっていく。

情けなく、弱い者がさまざまな試練や特訓によって、大きな力を獲得し、ヒーローになっていく、というのが少年漫画の類型ではあるが、『アイアムアヒーロー』に限らず、花沢さんの作品はその型にはまらない(すべて読んでいるわけではないが)。主人公は、情けないまま、弱いまま何かを成し遂げるために必死にもがき続ける。特別な才能も、力もない「何者でもない」者たちの反攻と抵抗の物語であるところに、何者でもないぼくたちは共感するし、胸を熱くする。

だが、しかし、そんな作品の影響で見た夢の中のぼくは、情けないまま、弱いまま、ただただ死のうとしていた。現実世界だけならまだしも、夢の世界でも、ぼくはヒーローになり損ねた。

前に仕事で、「歌舞伎町の社会学」を研究する現役大学生ライター・佐々木チワワさんにお話をうかがった。佐々木さんのお話をまとめた記事の編集後記で、こんなことを書いた。

小さいころ好きだった、アカレンジャー(分からない人はググってね)。いつかなりたいと思っていた、ウルトラマン。おそらく、多くの人が一度は「主人公」に憧れを持ったでしょう。ある世界のど真ん中で誰よりも活躍し、絶対的な存在感をもって物語を推し進める、そんな主人公に。

でも、やがてなんとなく気づきはじめる。「この世界の主人公は自分ではない」と。もちろん、「ぼくの物語の主人公」はぼくでしょう。そこに疑う余地はありません。だけど、ぼくが憧れていたのは、ドラマチックなストーリーの中で躍動し、その物語が映画ならエンドロールの一番最初にドーンと名前が出てくるような主人公だったはず。もし「ぼくの物語」が映画になったら……興行収入は1万円に届けばいいほうでしょう。大赤字もいいところです。

「でも、だからどうした」という気持ちになる取材でした。巨悪をばったばったなぎ倒していく物語の主人公になれなくても、誰かの心を大きくゆさぶる静謐なヒューマンドラマの助演にさえなれなくても、惚れ込んだ物語のエンドロールの、隅っこのそのまた隅に名前があればそれでいい。そんな生き方があってもいいはずです。それを否定する権利なんて、誰にもありません。

どうしてこんなことを思ったのかについては、ぜひ記事の方を読んでみてほしい。歌舞伎町という街を切り口に、現代に生きるぼくらの「関係性」への渇望や、「世代論」に対する疑義などが語られていて、手前味噌ながらおもしろい記事になっていると思う。

チュパカブラ的な何かがぼくに教えてくれたのは、まだヒーロー願望はぼくの心のどこかに潜んでいるということだ。小さなころ憧れたヒーローになれなかったとしても、“「でも、だからどうした」という気持ちに”なったと書いておきながら、「でも、だからどうした」とは思いきれていないらしい。

ここには、一つの逆説がある。正義の味方として、多くの人を救う強い存在として憧れたヒーローを諦めるためには、「強さ」が必要だということだ。

ある言葉を思い出す。ダレル・ロイヤルという、1950年代から70年代にかけてテキサス大学のアメリカンフットボールチームのヘッドコーチを務めた人物の言葉だ。彼は、学生たちに宛てた手紙の中で、こんなことを書いた。

打ちのめされたことがない選手なんて、かつていたことがない。
ただ一流選手はあらゆる努力をはらって速やかに立ち上がろうと努める、並みのフットボール選手は立ち上がるが少しばかり遅い。
そして敗者はいつまでもグランドに横たわったままである。
『ダレル・ロイヤルの手紙』

ヒーローとは「倒れない者」ではなく、「倒れても、すぐに起き上がる者」なのかもしれない。

チュパカブラ的な何かに襲われる夢から覚めたぼくは、ベットの中で誰に向けたのかすらわからない不平を心で唱えいていたと書いたが、やっていたことはそれだけではない。

起きるとほぼ同時に枕元においてあるiQOSを手に取り、川が山から海に流れることほど自然にそれを吸い始める。その動きの無駄のなさは、井端がショートゴロをさばくときのそれに近い。そして、TwitterとInstagramとYahoo!ニュースを巡回していたのだ。起き上がるのは、だいたい1時間後。

毎朝、ぼくはずっと「横たわったまま」なのだ。

まずは、強さを持とう。起きてもすぐ、iQOSを吸わない強さを。朝っぱらからInstagramの中の「旅するインフルエンサー」か何かを見て、苛立ちと嫉妬の混ざったよく分からない感情を持たないための強さを。そして、ベッドからすぐに立ち上がるための強さを。

『アイアムアヒーロー』の主人公がそうであったように、そんな強さを手に入れることが、情けないまま、「弱い」ままヒーローになるための唯一の道なのかもしれない。

……あれ? 結局ぼくは、ヒーローになりたいんだっけ? それとも、ヒーローを諦めたいんだっけ? まあ、どちらでもいいか。みんなそんなもんだろう。

とりあえず、夢から覚めたら、なるべく早くベッドから出よう。冬以外は。



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