だいぶ長めのプロフィール
ども!りょうたです!
ブログでは簡単なプロフィールを書いたことあるんですけど、そういえばちゃんとしたプロフィール書いたことないなーと思ったのでちょっと自分の過去を振り返ってみます。
書き始めたら止まらなくなり、1万文字近く書いてしまいました…笑
お時間あるときにお読みくださいませ。
1.幼少期
1984年 兵庫県神戸市生まれ
一番昔の記憶は、幼稚園のときに好きな子のところに行って、
「なぁなぁ、絶交しよー」
と迫ってたこと。
シャイですね。
2.小学生
近所の幼馴染(同い年~年下)をまとめあげて、今日やる遊びを決めてました。
遊ぶ場所とかルールとかも僕が決めてました。
年下から好かれてて、近所のお兄ちゃん的存在やったと思います。
クラスにうまく馴染めてない女の子がいて、ずっと教室で1人でつらそうやったんで、一緒にいて笑かしたりしてました。
スポーツは特にせず、広場で遊ぶぐらい。
それよりもゲームがめっちゃ好きで、特にドラクエ・マリカー・みんなのGOLFは一生やってた。
3.中学生
活発で明るくみんなと楽しむキャラやったのに、中学に入ってから状況が一変。
中学で一緒になった他の小学校のやつらがめちゃくちゃ悪ノリ・身内ノリがすごくて、しかもなぜか権力が強かった。
なので「じゃない方の小学校」だった僕らは、彼らの言うことを聞くしかなかった…
でも最初はそんなことに気づいてないので、いつも通りふるまってたら
「あいつ、ちょっとうざくない?」
という雰囲気に。
もう、何をやってもスベらされる、笑われる、よそ者扱いされる。
これは、まずい。
非常に、まずい。
ということで、嫌われないようにすべく、
「一人ひとりに合わせたコミュニケーション」
を取ることにした。
その結果、嫌われることもなかったけど、あんまり好かれることもなかったな、というぼんやりした友好関係になりました…笑
部活はサッカー部に入り、初心者やのにボランチやトップ下を希望するという無茶な選択をした結果、2年間補欠。
唯一、身長が高かったのでキーパーに転身し、見事レギュラーを勝ち取ることに。
ただ、チームはめっちゃ弱かったので、地区大会6校中4位とかでした。弱小。
中学生にもなると恋愛が楽しくなって、好きな子に告白したり、告白されたり、という青春時代を過ごしました。
一番感動したのは、12月24日の終業式、校舎から運動場を渡って門から出ようとしたときに、校舎の出口から大声で呼び止められて、
「めっちゃ好きぃー!付き合ってーっ!」
と告白されたこと。
恥ずかしかったのでその場では返事せず、家に帰ってから電話でOKしました。
その子とは今でもたまに飲みに行く仲です。
勉強はそんなにできなかったんですけど、部活を引退した3年の夏休みから塾に通い、猛勉強しました。
その結果、志望校のランクを4つぐらい上げることができました。
このときは勉強するのが楽しかったなー。
同じ塾に、幼稚園のときに好きやった子(絶交を迫った子)がいて、
「あのときめっちゃ好きやった」
と言われ、両想いやったと知ったときはめっちゃテンション上がりました。
4.高校生
あれだけ楽しかった勉強も、高校に入学してからはほぼ遠ざかってしまった…
先生の教え方がおもしろくない、という理由で授業中はずっとMD聞いてました(なつかしい)
部活もそこそこに、高校3年間はひたすら恋愛を楽しんでたのかもしれない…
当時はPHS(携帯電話みたいなやつ)を持ったばっかりやったので、番号交換してメールしてデートして付き合って…が楽しい時代でした。
3年間で7人付き合って、彼女がコロコロ変わるやつというレッテルを貼られて女子からめっちゃ嫌われてたなぁ…(遠い目)
中学時代に培ったコミュニケーション能力で、友達はめっちゃ多かったです。今でも飲みに行ったり遊んだりしてます。
大学受験はサボりにサボって、目標としてる大学には行けず、関西の中堅私立大学に進学。
がんばったらできる、と思う自分と、がんばることができなかった自分を同時に認識し、ちょっとした学歴コンプレックスになってしまいました。
5.大学
有名なお坊ちゃん大学なので、半分が内部生で金持ちでした。
僕はまたもや「じゃない方」の部類に。
授業は自主休講ばっかりで、単位が足りずに結局4回生の後期までせっせと行くことになりました…
周りの友達は3回生の後期でほぼ単位を取り終わってたので、1年間はほぼ1人で通ってました…笑
入学式の日に勧誘されたサッカーサークルに入り、めちゃうまな先輩たちと毎週練習や試合を楽しんでました。
中学時代は6校中4位、高校時代は県大会にも行けない弱小チームでやってたので、兵庫県上位校でずっとやってた先輩たちについていくのに必死でした。
土日の練習と試合だけじゃ絶対足手まといになるので、平日で自主練しまくった結果、レギュラーになったり社会人リーグのベストイレブンに選ばれたり関西大会の最優秀ゴールキーパー賞をもらったりと、充実したサッカー生活を送ることができました。
このころから、目標に向かって創意工夫しながら成長するっていうことに楽しみを覚えるようになったのかも。
バイトは結構転々としてて、
・実家の手伝い(中華料理店)
・マクドナルド
・ピザハット
・個人経営の居酒屋
・TAPA(チェーンの居酒屋)
・家庭教師
・ニトリ
を経験しました。
仕事が長く続かないフラグはこのあたりから立ってたんですね…
就職活動がはじまってからはビジネスのことを勉強するようになりました。
就活対策じゃなくて、ビジネスできるやつが採用されるだろう、という仮説のもと動きました。
でもまず何をしたらいいのかわからなかったので、とりあえず大きい本屋さんに行き、ビシッとしたビジネスマンを探します。
で、その人の後をついていき、その人が立ち読みした本を僕も立ち読みしてみます。
その人が選んでたのが
・7つの習慣
・思考は現実化する
という自己啓発本の名著だったので、そのころから自己啓発本・ビジネス書を読み漁るようになりました。
そこで得た知識をもとに、過去の自分を振り返りながら強みを棚卸しました。
コミュニケーション能力と、目標達成能力をアピールしてました。
また、一人ひとりに合わせたコミュニケーションをとるのと同様に、受ける会社にってアピールの仕方も変えてました。
その会社が求めている人物像に自分を寄せてアピールすると、結構通過率高かったです。
最終的には愛知のメーカーと、東京のライフスタイル会社で迷い、より僕を求めてくれた愛知のメーカーに就職しました。
この頃から、自分の持ってるものを、相手が求めている形にカスタマイズすることが自然になってきました。
6.社会人(1社目)
2007年4月、愛知のメーカーに入社。
連結売上2,700憶円ぐらいやった。
今では4,600憶円ぐらい。
福利厚生抜群。
水道代、電気代、ガス代、家賃、全部会社もち。
浮いたお金はラーメンとサッカー、フットサルに消えた。
週末は合コン三昧、そこで知り合った2つ年上の女の子に猛プッシュ。
一度はフラれるも、粘りに粘って付き合うことに。
仕事は企画営業課というなんともイケてる部署やったけど、実態はただの資料作成部署。
まぁ新人の受け入れ先としてあるような部署。
そこで事業内容や製品を一通り把握し、技術や品証や工場で働く人たちと人間関係を形成していった。
2008年10月、東京支社へ転勤。
最初は嫌すぎて家で号泣してた笑
愛知ではサッカーの社会人リーグで活動してたり、彼女と半同棲したりと楽しい日々やったので、そのすべてを置いていくのが寂しかったなぁ…
ただ、東京は恐ろしい街で、転勤してからめちゃくちゃ楽しいことが待ってた。
そのころからフットサルを始めて友達が何十人もできたし、会社員じゃなくて自分で仕事してる人がたくさんいて、めっちゃ刺激もらえた。
家は渋谷と横浜の間というめっちゃいい場所に住んでて毎週遊びまわってた。
この頃から「将来は自分で何か仕事をしてみたい」と起業を志すことに。
2010年12月、大阪支社へ転勤。
起業を志すと同時にビジネスのことを学びまくってたせいで、発言がちょっと偉そうになってた。
大手メーカーあるあるやけど、社内営業が大事で上司の機嫌取りが仕事だ、と言う人もいるなか、お客さんにとって意味のないことはしたくない、と突っぱねすぎて上司や先輩から嫌われるように…
仕事できへんのに口だけ達者なのはこの頃から…笑
事業部長が「あいつはもういらん」と他の部に左遷させようとしてたところ、大阪支社長が拾ってくれた。
周りに生かされてるんやな、と実感。
2011年3月、東日本大震災。
地元神戸で阪神大震災を経験しているので、あのときの恐怖がよみがえってきた。
小学生ながら「いつ死んでもおかしくない」という価値観があったので、東日本大震災をきっかけに改めて自分の人生を見直すことに。
親が飲食店を経営している影響からか、どこかに所属するのではなく自分の力で仕事をしてみたい、という思いがずっとあって、東京に行ったときにその思いが強くなった。
そしてこの地震をきっかけに、実際に行動に移すことに。
びびりの僕は、いきなり起業するのではなく何社かで修業したいと考えてた。
当時思い描いてたビジョンは
「強みを活かして、日本を底上げする」
ということ。
「会社」と「人」という2軸で考え、
・大手よりも中小
・年配者よりも若手
を伸ばしたい、成長してほしい、そうすると組織や国はもっとよくなる、と考えてた。
それを実現する手段として、得意のコミュニケーションでなんとかできないかと思い、何かを学び続けるのも好きだったので
「コンサルティング」
という手段を選ぶことに。
なので、
・中小企業向けの経営コンサルティング
・若手向けのキャリアコンサルティング
を強みとした事業で独立しよう、と決意。
その経験ができる会社に転職して経験値を増やしたかった。
そうして転職活動をした結果、4月スタート→6月内定という割と早い展開で大手のコンサル会社に転職することに。
そこで中小企業向けの経営コンサルを手掛けながら、週末は大学生の就活相談に乗ろう、と動いてました。
7.社会人(2社目)
2011年8月、経営コンサル会社に入社してからは毎日が戦争で、始発にのって出張・終電で大阪に帰ってきて深夜まで仕事。
タクシーで帰ってシャワーを浴びて仮眠してまた始発で出張。
ほんまにこんな生活でした。
たまに仕事が早くわおって22時ぐらいに帰ろうとしたら
「ひまなん?」
と上司に言われ、閉じたパソコンを再度立ち上げて終電まで働くことに…
土日の休みに学生の相談に乗ってたんですけど、
「せめて土曜日は仕事したら?」
とまたもや上司に言われ、実質休みがなくなりました。
それでもここでの経験は非常に有意義なもので、経営者の方々と話をする機会は貴重だったなと思います。
心残りなのは、自分のコンサルサービスを作れなかったこと、自分のクライアントができなかったこと。
コンサルって聞くと割とスマートな印象があったけど、自分のサービスやクライアントは自分で開拓する必要がありました(この会社では)。
ビジネスを勉強してきたつもりやったけど、実際に会社を経営している猛者からしたら「机上の空論」と一蹴され、全然役に立つことができませんでした。
で、そのつらい環境で身も心もボロボロになり、逃げるように辞めました。
たった10か月しかいませんでした。
8.社会人(3社目)
2012年6月、設立2年目の人材ベンチャーに転職。
この会社は大学生向けに就活相談をしている会社で、実はコンサル会社にいる間からここの立ち上げに携わってました。
コンサル会社を辞めるとき、ここの社長に相談して
「役員として月30万円出すからおいで」
と言っていただけたので転職することに。
精神的にボロボロだったけど、初々しい学生としゃべってると元気になること、会社の立ち上げに携わってるという「自分のやりたいことに近づいてる」という実感が僕を元気にしてくれました。
ただ、社長からしたら僕の働きぶりは全然だめだったらしく、
「新卒以下の働きや」
と一蹴され、結局正社員採用されず、表面的にはボランティアスタッフとして働き、毎月15万円を支給されただけでした。
ここでもコンサル会社と同じような労働時間だったので、時給換算して現実を見るのが怖かったので計算しませんでした…笑
マクドでバイトしてる高校生の方が稼いでたんちゃうかな。
ここでの経験は、かっこつけまくってる自分の殻にヒビを入れることができたので、それは今後の人生に大きく影響を与えてくれたと思います。
自分が知らないこと、やったことないこと、できないことと向き合い、弱さをさらけ出すきっかけがたくさんあったので。
で、こんな状況で結婚しました。
社会人1年目で出会った彼女です。
愛知~東京の遠距離、数回の転職、全然稼げないやつ…
そんなボロボロの状況でもいつも支えてくれて応援してくれました。
2012年、彼女が30歳になる誕生日に結婚の話をし、その年の12月25日に入籍しました。
9.社会人(独立1回目)
そんなこんなで1年半が経った2013年12月、社長の考え方や言動についていけない、しかもこんな給料ではやっていけない、という不満が爆発して社長とケンカになりました。我慢の限界でした。
もともと独立したいという思いがあったことは賛成してもらってたので、じゃあもう会社を辞めて独立するか、という方向で話が進み、2014年1月から個人事業主として活動することになりました。
その会社からは独立後も仕事をもらってたので、ケンカはしたものの僕のことは考えてくれてたのかもしれません。
でもふと、これってDV受けてる人と同じ思考回路よな…とたまに自分で自分が怖くなります笑
独立してからは
・キャリアコンサルティング
・採用代行
を中心に仕事をしました。
キャリアの相談に乗ってくる人は、その場ではテンションが上がって活発になるけど、翌日からどんどん勢いが落ちてくるので、これを下げない方法を考えてました。
そこで思いついたのが「コンサル内容をテキスト化すること」でした。
セッションをした内容をもとに、数日中にその人専用のテキストを作成します。
セッションの内容だけでなく、僕からのアドバイスや参考になる情報も詰め込みました。
1人あたり1万文字ぐらい書いてました。
人の話を聞くこと、情報を整理すること、一人ひとりにあわせること、文章を書くこと、は好きで得意だったので、割と好評でした。
ただ、周りにいる友人にしかアプローチしなかったのであまり広がりがなかったこと、単価を安くしすぎたこと、継続受注が難しかったことから、鳴かず飛ばずで終わりました。
でも、自分が考えたサービスに価格を設定し、それに価値があると言って購入してくれた、という経験は今思い出してもしびれます。
そのサービス以外の時間は、採用代行をしてました。
大手企業になると採用面接やグループディスカッションに人手を割くことが難しくなるので、外部の人に結構委託してます。
なので、僕がその会社の採用担当役として、学生に面接をしたりグループディスカッションで評価したり、といった案件でした。
これも好きで得意なことなので、やってて楽しかったですね。
ただ、2年やってもブレイクスルーすることなく、なんとなく同じことの繰り返しで頭打ちになりました。
そのことを誰かに相談するわけでもなく、
「自分は独立してるイケてるやつや!」
と謎の虚勢を張って生きてました。
非常に息苦しかったです…
10.社会人(4社目)
独立2年目の2015年、お金がなさすぎてバイトをはじめました。
大阪にある某デザイン会社の営業事務です。
パソコンを使って作業をすることは、1社目の営業企画時代から好きだったので、まぁ好きなことでスキマ時間にお金を稼ぐにはいいかな、という軽い気持ちで働いてました。
その会社の社長や社員の人柄がめちゃくちゃよくて、入社してすぐに仲良くなりました。
自分の事業と並行して働いてたんですが、もううまくいってへんし、いっそのことこの会社でお世話になって、もっかい社会人としてやり直そう、という気持ちで社長に相談。
2015年12月、このデザイン会社に再就職することにしました。
職種としてはバックオフィスをしたかったので、管理本部の社員としての採用でした。
そこで人事制度や採用、マーケティングなどを任せてもらうことになりました。
ただ、現場を知らないとそういったバックオフィス業務もできないだろうということで、最初の半年は営業として働きました。
そのうちに状況がみるみる変わり、次期リーダー(課長クラス)は誰だ?という話になったときに僕の名前があがり、管理本部ではなく営業のリーダーをやってほしい、と依頼されました。
実はコミュニケーションは得意なんですがなぜか営業が得意でなく、コンサル会社時代にクライアントができなかった経験からか、営業でやっていくのはものすごくストレスでした。
でも会社から求められているし、自分のやりたいことを貫いて貢献できないよりは、求められていることをしっかりやろう、ということで営業のリーダーになりました。
そこからが僕の人生史上、最大の地獄を見る日々が続くとは思わずに…
リーダーになってからの仕事は、最初は順調でした。
マネジメントを経験してみたいとも思っていたので、若手社会人と一緒にチームとして活動することにやりがいを感じていました。
また、大阪で一番大きなクライアントを任せてもらったり、新規開拓もうまくいったりと、意外と営業できるんちゃう?と思い始めてました。
ただ、その大きなクライアントの前任者から引継ぎがまったくされてなくて、その前任者は退職してしまいました。
最初はなんとかギリギリ取り引きできていたものの、小さなミスが重なってしまい、積もり積もって大きなミスも増えてきました。
周りもサポートできるほど余力があるわけではなく、助けを求めることもできませんでした。
上司に相談しても「リーダーになったんやからそれぐらい耐えないと」という反応ばかり。お前ならできる。そんな言葉が聞きたいんじゃない…
そうこうするうちに、その一番大きなクライアントだけでなく、他のクライアントにも影響が出るようになりました。
もう毎日ボロボロで、ミスだらけ、クレームだらけ。
部下のミスも僕が責任を背負い対応してたので、毎日朝帰りでした。
で、この頃になると、嫁さんからも「いつになったらキャリア的にうまくいくのか」「いつになったら養ってくれるのか」というプレッシャーを受けるようになりました。
いくら応援してくれているとはいえ、そんなに高い給料でもないし、毎日帰りは遅いし…
将来的な話をしてもすれ違いが多くなり、
「このまま一緒にいてもお互い幸せになれないのでは?」
と自問自答する日々が続きました。
で、仕事も家庭もいろいろありまして、2017年6月、退職と別居が決まりました。
そこからはまったく働く気になれず、ほぼニート状態。
離婚は2017年11月に成立。
親とは絶縁し、この頃から連絡をとっていません。
いろいろあって800万円ぐらい借金することになりました。
(積もり積もった金額ですが)
見るに見かねた先輩が、アルバイトでもしたら?と声をかけてくれてやっと働き始めたのが2017年12月。
時給950円で、服を畳んで発送するバイトでした。
このときはお金がなさすぎて、家賃滞納、携帯代も払えない、食費もないので毎日1玉20円のうどんだけ食べてました。
銀行にも財布にもお金がないときは、デパ地下の試食コーナーを徘徊してました。
このとき学んだのは、お腹が空いてるときに明太子を食べたらご飯がほしくなって余計にお腹が空く、ということです。
アルバイト以外の時間はめちゃくちゃ暇やったので、よく梅田をぶらぶらしてました。
そのとき、1回目の独立時代に採用代行を一緒にやってた会社の関西支社長と再会し、近況報告することに。
そこで、「ぜひまた一緒にやりませんか?」と声をかけてもらったので、個人事業主として外部パートナーになることに。
業務委託で人材系の案件をもらうようになりました。
11.社会人(独立2回目)
2018年1月、その人材系の案件をいただきながら、その会社のバックオフィス業務をスタート。
基本的にパソコンでエクセルを触る機会が多くて、自分の業務は関数やフォーマット化することで効率化してました。
で、そこの会社は残業が多かったのでみんなどんな業務をしているのか聞いて回ったところ、めちゃくちゃ効率悪く仕事をしていることを知ります。
そこで「こんな風にしてみたらどうですか?」と簡単なアドバイスをしてみたら、みんなから「パソコンに関することはあいつに聞け」みたいな扱いになってしまって…笑
人材系あるあるかもしれないですけど、みんなコミュニケーション能力はずば抜けているものの、反対にパソコン業務が苦手な人が多いです。
ちょっと効率よくする方法を知れば劇的に変わるのに、その「調べる」ということをやりたがらないんですよね。
誰かにやってもらった方が速いとか、やらずに溜めて一気にやってしまう、とか。
なので「業務を効率化させる」という業務が増えたのですが、さすがにそれだと個別にエクセル作成してたら回らなくなってしまい、いっそのことVBAに手を出すか、と決意。
それまで興味はあったものの、プログラミングはなかなか勉強できてなかったので、まずは社内で使用するツール作りとしてVBAをやり始めました。
その結果、今まで半日かかってた集計作業が、5分で終わるようになったりと、めちゃくちゃ効率化が進みました。
それが楽しくて楽しくて、プログラミングってこんなにも可能性のあるものなんや、と実感しました。
そこからプログラミングの勉強を本格的に始め、Pythonの勉強もスタート。
それをFacebookでつぶやいたら、知り合いのエンジニアかあら
「プログラミングを勉強してるなら、うちの仕事を手伝ってほしい」
と声をかけてもらうことができました。
話を聞いてみると、
・C#でエクセルを大量操作するツールを作る
・Pythonで書かれたプログラムを動かす
といったことが中心の案件でした。
準委任契約で常駐で入ってほしい、とのことなので、いまお世話になってる人材系の会社の契約が切れる6月末以降ならOKですと返事をし、2018年7月から本格的にプログラミングの仕事を始めることにしました。
つまり、勉強し始めてから3か月ほどで、しかもスクールに行かず独学でプログラマーになってしまったんです。
これ、Twitterなではスクールの謳い文句になってるぐらいのことなんですけど、実際になってみると不安でしかありません。
基礎ができてるわけではないし、経験値は低いまんまやし、人が作る何倍も工数かかるし…
こんなことで価値を提供できてるんやろか?という不安、悩み、葛藤の日々です。
1年以上経った今でもそれは拭えず、いやむしろ、Twitterで知り合うエンジニアのみんながすごすぎて、やっぱりこのままじゃあかんー!と震える毎日です。
ただ、他人と比べても自分が成長するわけではありません。過去の自分より少しずつでも成長するしかないんです。
そう気づいてからは、他の人の動きを見るときは「こんなことができるようになるねんなー」という目で見るだけにしました。
できんもんはしゃーないんで、できるようになればいいだけですしね。
12.これから
めっちゃくちゃ長くなりましたが、僕の人生をざっと振り返ってみるとこんな感じです。
これからのことなんですけど、2019年10月からは個人開発をしてきたいと考えています。
どこにも所属せず、受託もせず、自分の力で開発をしてみたい、と考えています。
また、30代のうちにイギリスの大学院へ留学したいとも思っていますので、英語も同時に勉強していきます。
今まで通りやることは多いんですけど、やっとかっこつけずに心の底からやりたいと思えることをやっていく生活に切り替えることができそうです。
こんだけ長くなったけど端折ったこともそれ以上にたくさんあるので、またどこかのタイミングで細かいところもさらけ出していけたらと思います!
最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました!
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