3年前の肉声。
こないだ買ったばかりのスマホが畑で爆ぜた。
あまりの豪快さに清々しさすら感じる。
家に買って昔のスマホを取り出す。
なんとなく、過去の写真を眺めていた。
最後までスクロールするとパプアニューギニアの映像が出てきた。
見返すことのできなかった記憶。
静さんの映像もそこにあった。
記録されていた会話を3年ぶりに聞き直した。
僕は冒険をやめてから、パプアニューギニアに関して蓋をしている。
過去を振り返るのがそんなに好きじゃないから。
「昔はこんなことして楽しかったよな、とか言う大人には絶対になりたくない」
高校時代、かつて一緒に映画を作った友人がよく言っていた言葉だ。
たまにふと、その言葉が浮かぶ。
今回も彼の言葉が浮かぶ。
だから、過去をみて感傷に浸る行為が、イケナイこととして刻まれているから、自制が働く。
だけど、もう3年も経ったんだ。
知識デブなんて言葉がある。
まさしく今の自分を言い表してる。
頭では理論立てて、さも正解を導き出せる風体を醸すが、実践のない知識はただの情報であり、ソフィアではない。
最近YouTubeを始めた。
人の動画を見て「あーすれば伸びるのに」と言っていた自分が恥ずかしい。
こと、自分事になると柔軟性がなくなる。
最初こそ人が見れくれたが、再生の伸びがイマイチで、登録者も伸びない。
もちろん、まだ3本しか上げてないから、統計もクソもないのだが、知識デブになった自分には到底飲み込むのが辛い結果であり、実践の乏しさを痛感するのみだった。
挑戦する体が不在のまま3年を過ごしている。
体も重い、脳も重い、ジャンクな情報ばかり食べてしまった結果が今の動きにくさである。
それでも動く。
今日、オンライン英会話を始めた。
ストレスが凄まじい。
喋れない、伝えられない、伝わらない、そのストレス。
適度な負荷は人生にとって必要だ。
25分のもどかしい英会話を終えて、僕は走り出したい気持ちになった。
悔しい、もっと伝えた、もっと上手くなりたい、もっと…
この感情を得るために、挑戦は必要なのだと思う。
話は戻ってパプアニューギニア。
静さんの映像には回天の言葉も、戦争の話もあった。
しかし、自分はパプアでの戦争に関して無知であったため、帰国した後、静さんの人生が如何に過酷なものであったかを知る。
無知の自分がたまに入れる相槌や、何もわかっていない自分から発する質問に、嫌気が差す。
だから、聞き直すことが出来なかった。
自分のことが嫌いになりそうで。
静さんはそれからすぐに亡くなって、多分、僕が最後に宿泊した旅人であった。
大往生の人生の最後の一滴、僕は静さんと出会ったことの意味を、未だに見いだせずにいる。
意味なんて無いのかもしれないけど、大きなしこりが今でもある。
僕はこのパプアニューギニアでの話に、一つの決着をつけなくちゃいけない。
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