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冷たい雨の中、くだらない荷物を運んでくれた配達員の声と笑顔が、今年のハイライトでした。

ヒューマンエラー、合理性、メリット、最適化

そんな言葉で溢れた一年だった。

同時に、人がいる、人である、ことの意味もよく考えた一年だった。

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本質的には無意味と感じつつ、あえて区切りを作ることは大事なことのような気もするので、大掃除にも飽きたついでに、データで残しておきたいなと思った。

なにやら生き辛いなぁと感じる瞬間を少しでも和らげたい一心で、最近琴線に触れた2つの言葉から、言語化に挑戦してみる。


「人間であることは、とりもなおさず責任をもつことだ」

  ‐サンテグジュペリ

「質量のあるものは壊れるし、質量のないものは忘れる」

  ‐落合陽一


サンテグジュペリ ”人間の大地” は、なんだかんだ5回くらいは読み返している。このワードの全文は以下の通り。

「人間であるということは、とりもなおさず責任をもつことだ。人間であるということは、自分に関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。人間であるということは、自分の僚友が勝ち得た勝利を誇りとすることだ。人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。」


特に今、自分を含めた誰も彼もが、責任を持ちたくない。(昔もだけどね)

”責任を持つ”ことは、簡単ではない。

僕はこれを、”誇り”とも解釈している。

もうみんなとっくに分かっていると思う。自分の成しえたことで、世界を大きく変えられることは無いって。今していることは世界にとって大した意味を為さないし、だから、これはこれと割り切ってしまえばいいと。


わかる。とってもわかる。

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それでも僕は、雨の日に笑顔で1000円の商品を運んでてきてくれる配達員を美しいと感じる。ただ立っているだけに見えるオフィスの警備員が、入ってくる全ての人に頭を下げているシーンを美しいと感じる。早朝に道端で車を停めて仮眠しているタクシードライバーを、離島で野菜を洗う農夫を、枝を丁寧に刈り取る林業家を、本当に美しいと感じる。


僕らが抑え込んでいる世界を変えたいと願う欲求は、実は物理的な世界のことではない。1人1人の複雑に混ざり合った、もっと具体的な世界。その世界を変えられるのは自分自身で、拡張してくれるのが他人の世界なのだと思う。

皆、自分に責任を持ちたいと望んでいる。目の前の人の世界を少しでも笑顔で照らしたいと、本当は望んでいる。だから、かりそめでも役割を全うしている。

そしてそれを ”責任” と呼ぶのだと、みな、もう気付いてよいと思う。

物理的な世界は何も変わっていないかもしれないけれど、人間個人の感覚に根付く世界は、あなたのおかげで良くなっている。

それがサンテグジュペリペリの言う責任だと、僕は解釈してる。

そしてその個人の世界を拡張して、責任の所在を自覚させてくれるのは、他人だ。他人は、他人であり、自分。自分は他人であり、実は自分。

だから、全ての役割を全うする人へは、人間として接しなければいけない。相手は機械ではない。みな自分の世界を持っている。年齢、職業、年収コミュニティ、やっていることのインパクトの多寡に関わらず。

他人の世界に意識的になった時、自分自身の無気力状態からも抜け出せるのだと思う。

今僕自身が自分のしていることに少しだけ責任と誇りを持てているのは、他人の責任と誇りを意識して感じようとしているからだと。


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もう一つ、落合氏のワードも印象に残っている。

「質量のあるものは壊れるし、質量のないものは忘れる」

二元論的にものごとを考える風潮がここのところ強くなっている気がする。

必要なときにWebで調べればよい

電子書籍の方が便利

ストリーミングの方が効率的

最適な商品をレコメンド

メタバースであなたの望む世界を実現


どのコンセプトも十分理解できるし、世界をデータとして捉える合理最適化もトラッキング性能も保存性も、質量世界より格段に改善する。


けれど、質量の無いものは忘れる。


それらはほぼ無限に、1と0に換算されてデータセンターに溜まっていくが、残念ながら人間の脳は、存在そのものを認知しきれなくなる。

なにがどう動いてその結論を出しているのか、設計者以外のほぼすべてのユーザーは無自覚だ。

とはいえ無自覚にテクノロジーを扱えることこそが、実はテクノロジーの最終形態だったりするとも思うのだけれど、その世界は本当に私たちの世界なのかは、まだ分からない。


もうすぐ新年なので触れておけば、年賀状なんてその最たる例である。

幼いとき、あの一通の便りを待ちわびた。

朝一エレベータを降りていくときの高揚感。思いのたけを綴った下手くそな字だけど、書きたいことが溢れて最後の行間が詰まってきてしまうあの感覚。

本当にデジタルは、僕たちの絆を繋ぎ留められているのだろうか。

(さすがに分かってくれるとは思うけれど、企業がコメントも無しに自動的に出す形式的年賀状はどうでもよい)


自分にとって合理的であることが、他人にとっても合理的だと無意識的に感じてしまうのは、エコーチェンバーと最適化の苦い果実なのか。

上辺をなぞる関係でしか相容れられないという恐怖心から、本音で語り合うことを避けているからか。


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いずれにしろ、想い出すということは、自分をもう一度形作ることでもあると思う。だから、僕はあまりKindleでは本を読まないし、大事なことは出来るだけ手紙で書く。好きな写真はプリントアウトする。

想い出せる場所(目に見えるところ)に物がある、ということが大事。

勿論、物質が壊れたり無くなったりすることはある。だけれども、データで残していれば無くならない!と想い込まず、質量のある形にしたことそれ自体が、自分自身の思考の価値を保存する一つの方法であるとも思う。

大掃除をしていて古い写真が棚から出てくるたび、そんなことを感じる。


個人的にはテクノロジーは大好きで、仕事では可処分所得創出!データ化・作業効率化!とか息巻いている訳なので、デジタルを批判するつもりは毛頭ないのだけど、それが二元論的に語られる雰囲気には少し違和感を覚える。

いつか自分が「古い」価値観になって、「新しい」価値観と衝突することは全く本意じゃないし。誰のためにもならないし。ね。


20年後自分がインスタで再ログインを求められたとき、パスワードを忘れたがために想い起こせない記憶になってしまうことを考えると、少し萎えたりもする。(既に解決できるtechがありそう)


とまぁここまで読み進めてくれるモノ好きも殆どいないと思いますが、みなさま良いお年をお迎えくださいませ。

(この文章は将来見返さなくてもいいから、クラウドだけに残っていればいいかなぁ~、なんて)


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2021年 完


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