煌めく星に応答する

完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。--「風の歌を聴け」(村上春樹)
不変なのは書物で、見解などというものは、しばしばそれに対する絶望の表現でしかないのだ。--「審判」(フランツ・カフカ)

上の二つの文章に、つながりがあるわけではない。出自も、この言葉が語られた背景も、ぜんぜん違う。しかし自分はこの偉大な作家二人が残したこれらに確かなつながりを感じる。

そもそも小説というのはそれ自体が一つの世界、宇宙であって、解釈は無限個あると思う。そしてそのどれも、小説そのものが持つ深淵にたどり着かない。私たちが生きているこの現実世界の全てを、特定の思想、宗教、科学のいずれをもってしても完全に語りきることはできないのとちょうど同じだ。

つまり、「読書感想文」は、そのすべてが絶望の表現、非完璧な文章である。しかし、同時に完璧な絶望でもない。今回のフェスで、タグをつけられてアップロードされたどの記事も尊ければ、いままさに記事を書いているどの人も尊い。

銀河鉄道の夜という、あまりに美しく、あまりに謎に満ち、あまりに「わからない!!」に満ちたその「世界」を前にしたとき、私に書けることはなんなのかと戸惑った。「銀河鉄道の夜」を構成する文字一粒一粒を、どう拾い上げても、手からはぼんやりと青く光る何かがぼろぼろ零れ落ちて、茫漠たる天の川に還っていく。決してつかむことも見ることもできないが、そこに透明な川は確かにある。

たぶん私にできるのは、私が表せる絶望を、最大限言葉にしていくことだ。

銀河鉄道の夜は、自己犠牲、信仰、科学、友情、少年期、孤独、幸福などなどなど…実に多彩なモチーフが織り込まれた不思議な小説だった。読んだ時の最初の感想は、「なんだかすさまじい…」だった。そして今なお「なんだかすさまじい…」の域からは抜け出さないし、今後も多分、「〇〇だからすさまじい」の割合がちょっとずつ増えたり減ったりするだけだ。

あらすじは省略するが、そのモチーフの一つである、「自己犠牲」について、こんなエピソードが挿入されている。

むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちにみつかって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命にげてにげたけどとうとういたちに押おさえられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりはおぼれはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの、
 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。

懺悔するさそりは、「まことのみんなの幸(さいわい)」のためになることを願い、結果として「燃え続ける星のひとつ」となった。

自己を犠牲にしてまで願った「まことのみんなの幸」が、どうして「燃え続ける星」なのだろう。よるのやみを照らすことは、”みんな”を幸せにするのだろうか。



主要人物の一人、カムパネルラは、「ほんとうのさいわいってなんだろう」という主人公・ジョバンニの呼びかけに、「僕わからない」とぼんやり返す。彼は川に落ちた友人を助けるために自分を犠牲にして川に落ちる。

「誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。

カムパネルラの挺身が描かれるのはラストシーンのことで、このセリフは中盤のものなので、直接的には触れられていないが、私には、この発言中の「いいこと」というのがどうも「身を投げうつこと」だと思えてしょうがない。そして、このセリフから私は、カムパネルラの確信というより迷いや懐疑心を振りはらおうとする気持ちを感じた。

ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。

そして川に沈んだカムパネルラは星になった。



銀河鉄道に乗るもの、そしていつかは乗ることになるであろう人々みな、「ほんとうのしあわせとはなにか」という問いに対する自分なりの答えを求め続けている。趣味(地質発掘調査の人)、宗教(家庭教師)、商業(鳥を捕る人)…しかし、そのどれもが不完全だ。「みんなのさいわい」になりえない。

みんなのさいわいが、この物語に名状されていないのは、たぶんみんなのさいわいの正体なんて、だれ一人(もちろん宮沢賢治本人も)掴むことができないからだと私は思う。

そして、さそりとカムパネルラが、自己を犠牲にしてまで「まだ生きるものたちみんなのさいわい」を願ったのは、その不可能性のせいなんじゃないか。

「みんなのさいわいを、僕はつかむことはできなかったけど、残されたあなたたちは、それを求めてさがしにいくんだ」というようなメッセージを発しでいるのではないか。

みんなのさいわいを希求した彼らの生きた証は星になって生きるものを照らし続ける。

「きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」 ジョバンニ

星は私たちに語り掛ける。ほんとうのさいわいをさがしに出よ、と。



まことの幸福を索ねよう 求道すでに道である 宮沢賢治

銀河鉄道の夜という物語それ自体が世界であり、宇宙であり、一つの星であり、天の川なのだと、私は思った。この記事で取り上げた一面は、この作品という星を構成するほんの小さなクレーターにすぎない。

不可能なことに挑戦すること、それ自体が道であるなら、いっぱしの物書きの端くれである私は、すべてを描写するという不可能な試みにあえて全身全霊をかけて挑む。

完璧な文章などといったものは存在しない。

だから、不完全な絶望の宿命を背負って立ち、なおも完璧を求め、遥か何億粒の書物のうちの何等星かもわからない星を生み出そうと努力したい。

夜空に燦然ときらめくこの名作は、今も私たちを照らし、導いている。宮沢賢治が星にして託したメッセージを少しでも読み解く絶望を、この記事の中で表現できていたら良いなと思う。



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